Lesson1,気になる人との出会い方
旧題『レン・アイ』をリメイクしております。
第一章として発表していた部分のみのリメイクで、全6話完結予定。
「綺麗な走り方……」
図書室の一角で岡田沙雪は無意識にそう呟いた。
紗雪が見ていたのは、グラウンドで行われている陸上部の練習風景だ。
陸上部で有名なのは紗雪と同じ学年にいる笹木健吾という男子生徒で、一年時にインターハイ出場経験がある。
しかし、沙雪が見ていたのは笹木ではなく、その横で人一倍、一生懸命に練習している人物だ。
人気者で四方八方から気兼ねない声援を受ける笹木に比べて、彼の周囲に人が集うことはあまりない。
それでも誰の目も気にする事なく――笹木という存在に臆する事なく走り続ける彼を見るのが、いつの間にか沙雪の中で日課になっていた。
いつからか練習をしている彼を見つけては目で追い掛けている事に自身が気が付いたのは、ここ最近の事だ。
実際は名前も何も知らない赤の他人。
ただ、自分にないものを彼が持っている気がして羨ましかった。
それが何かと問われても、沙雪は明確な答えを持ち合わせてはいないが、努力を惜しまない彼の姿を見ていると、憧れを抱かずにはいられない。
遠くからしか見たことがないけれど、彼は人並みに整った顔立ちをしている。
身長もきっと高いだろう、他の男性部員と並ぶと頭一つ分ほどは飛び出ているようにも見える。
間近で見てみたいと思ったことはあるのだが、実際に近くで見ようという勇気を紗雪は持ち合わせていない。
恥ずかしさもあるのが、何より自分は人見知りが激しく、初対面の人を相手にすると顔を見ることも出来ずに俯いてしまう。
彼を目の前にしたところで、まともに話せる自分を想像することができず、むしろ変な女だという認識を植え付けてしまう恐怖が紗雪の中に芽生えていたため、図書館からこうやって眺めるだけで充分なのだ。
図書室は教室と違って暖かな木造でできていて、沙雪はその空間が何よりも好きだった。
静かで誰にも邪魔されないその場所で、毎日の昼休みや部活動のない放課後を過ごしてる。
友人と呼べる人が居ないのは、それもまた人見知りの激しさから、クラスメイトでさえまともに話すことができないからだ。
正直言えばとても寂しいし、腹を割って話せるような友人の一人くらいは欲しいと思う。
けれどどうやって友人を作ったらよいのか、どうしたら仲良くなれるのかが分からない。
小、中学生の時は、沙雪が黙っていても誰かが話しかけてくれたし、仲良くしようとしてくれた人が大勢居たので、友人を作るのには苦労しなかった。
けれど高校生にもなるとそうは言っていられないらしく、結局は一人で過ごすことが当たり前になってしまった。
木の香りと古い本の香りが入り交じって、沙雪の鼻をくすぐった。その香りが沙雪の沈んだ心を和ませてくれる。
ここからグラウンドを見ることが何よりの楽しみになっている。億劫だった学校が、少しだけ好きになれたのは、多分、あの人のおかげなのだ。
ただの憧れなのか恋心なのか、紗雪にとって自分の気持ちは形容しがたい感情だ。
それでも彼をそっと盗み見る事ができるのは、今日の紗雪にとっても幸福な事だった――。
◇◆◇
「お……お願いです……や、やめて、もらえませんか……?」
沙雪が小さな声で抵抗すると、言った相手はクスクスと笑って小柄な沙雪を見下ろした。
見下ろす相手は相沢天音という一つ年上の先輩だ。
髪を綺麗なオレンジ色に染めて、シルバーのピアスが耳に並ぶ。
最近まではピアノで多くの賞を総嘗めしていたほどの実力者だったけれど、数ヵ月前に交通事故にあい、指が思うように動かせなくなった、と部活の先輩に聞いたのだが。
想像しているよりも大きな事故ではなかったと聞いている。それなのに後遺症で指が動かせなくなった、ということに少々疑問を抱くのは当然かもしれない。
たぶん事故はきっかけだったのだと、彼の境遇を知る人達は嘆く。
学校側から大きな支援と先生たちからの期待で、天音にかかっていたプレッシャーが、天音を押しつぶしてしまったのではないかと。
それ以来、天音はピアノに触れることがなくなり、こんな風になってしまったのだ。
分かりやすい反抗の仕方だったのだが、沙雪からすると、天音は誰かに助けを求めているような気がする。
わざとこんな風に自分を着飾って、誰も近づけないようにしているように見えるのだ。
沙雪は天音が嫌いというわけではない。
実際、天音とは事故に遭う前からの知り合いで、沙雪が所属しているコーラス部では、天音の伴奏でよく歌を唄っていた。
部活がそれほど頻繁に行われているわけではないし、天音自身、コーラス部に所属しているわけではないから、仲がよかったわけでもないのだが、天音が今の様子になってから、なぜか沙雪を追い掛けるようになっていた。
「いーじゃん。一緒にサボろうよ? カラオケ行かない? カラオケ。紗雪ちゃんの歌聴きたいなっ」
天音が笑顔でもう一度言うと、沙雪は居たたまれず下を向いて顔を赤く染める。
居た堪れなさが羞恥になって押し寄せてくる。
自分で言うのも可笑しい話かもしれないが、人より内気で誰よりも目立つことが苦手だった。
だからこそ、コーラス部に入って少しでも人前に出る事に慣れようと努力はしているものの、一向に改善できないもどかしさはいつも紗雪の中にある。
それにも関わらず、派手な容姿の天音が人目を気にせず声をかけてきていることは、紗雪にとってとてつもなくストレスだ。
目立たないはずがない。
今の状況を、ただ遠巻きに見守るクラスメイト達は誰も助けてくれやしない。
半ば泣きそうになりながら、瞳に浮かびはじめた涙を零すまいと、必死に唇を噛み締めたときだった。
「見つけた。天音」
ふと教室の入り口から天音を呼ぶ声が聞こえる。
クラスメイトも周も全員の視線がそちらに向けられると、沙雪も自然と顔をあげた。
途端、息が詰まるような感覚にとらわれた。
激しく胸が高鳴ったかと思えば、どうして? という新たな疑問が浮かんでくる。
――あの人がいた。
一生懸命に走っていたあの人がそこに立っていたのだ。
近づいてくる彼は天音と同じほどの身長で、男としては平均的な高さかもしれない。
けれど、小柄な沙雪にとっては見上げるほどの長身で、思わず驚いた表情を浮かべたまま見上げてしまったのだが。
天音は自分の名前を呼んだ彼を苦笑いしながら迎え入れる。
「見つかっちゃった」
「気味が悪い言い方するな」
初めて近くで見る彼は、天音とは正反対の容姿の持ち主だった。
ネクタイを着用せず、だらしなく制服を着ている天音とは違い、制服を模範生とのようにしっかりと着こなしていて、スラッとした身のこなしが印象的だ。
サラリと揺れる短い黒髪は清潔感があり、同世代の男性よりも大人びて見えるのが不思議でたまらない。
ふと、沙雪はその理由に気が付いた。
背筋がピンッと伸びていて、立ち振る舞いがとてつもなく綺麗なのだ。
走る姿も綺麗だと思っていたのだが、この人は普段からこういった振る舞いが出来ている人なのだと知ると、少しだけ彼に近づけたような気がして、嬉しくなる。
彼はふと視線を沙雪に向けると、ようやく沙雪の存在に気が付いたようで、少し驚いた表情を見せるも、すぐに優しい笑顔を見せて視線を合わせるように身を屈めた。
「岡田……沙雪ちゃん?」
突然、自分の名前を呼ばれたことに、沙雪は素直に驚いた。
もちろんそれは、まさか彼が自分の名前を知っているとは思っていなかったからだ。
「何で知ってんの? 教えたっけ?」
沙雪の驚きを代弁するように天音が尋ねると、彼は体を起こして天音に視線を移して少しだけ呆れた表情で言った。
「コーラス部の子でしょ? 文化祭の時に天音の伴奏でソロパート唄っていた子」
そう言った彼の言葉に沙雪も天音も思わず納得し、同時に小さく頷いた。
確かに去年の文化祭の際、コーラス部のステージ発表でソロパートを唄った。
一年生でソロを唄うのは珍しく、あの時は同じソプラノでソロを担当するだった先輩が、急病で休んでしまったのだ。
そこで急遽、白羽の矢が立てられたのが沙雪で、本当は恥ずかしさから頑なに断ったのだが、結局最後の最後で先輩達に頭を下げられてしまい、やる羽目になったのだ。
まさかそんな些細なところで覚えてもらえたのかと思うと、うれしさと同時に、恥ずかしさが込み上げてきて、沙雪はまた顔を赤くしてうつむいてしまった。
そんな沙雪を見て天音は何を思ったのか、ニヤッと悪戯っぽくほほ笑みながら彼を紹介した。
「沙雪ちゃん。コイツ、俺の悪友&寮の同室者の総。俺と違って頭のいい理数系様」
初めて聞けた彼の名前と共に理数系という情報に、紗雪はまた少し驚いた。
紗雪達の通う神市高等学校――通称、神高は複数の学科が存在するマンモス校としても有名だ。
理数科、普通科、情報処理科、会計科、電子設備科、デザイン科、と六つの学科が存在しているのだが、進学にも強ければ専門的知識が身に付く学科もあるということで地元では根強い人気のある高校だ。
実際、紗雪が在籍するデザイン科は、毎年倍率が三、四倍に膨れ上がる競争率で、しかしながら一芸ありきの部分もあるため、曲者ぞろいとも言われている。
情報処理科、会計科、電子設備科は高卒就職希望者の内定率が高水準で、進学においてもなかなかの好成績であると聞いている。
一方の理数科や普通科は名門六大学にも進学率が高く、そこに在籍しているだけでも箔が付く。
一芸に特化しているデザイン科からしてみれば、頭のいい理数科は雲の上の存在みたいな扱いになっているため、紗雪にとっても憧れの人が理数科であるという事自体、少し遠慮したくなるような気持ちが膨らんでしまうのも無理はない。
「そういう言い方するなよ。えっと……沙雪ちゃん。コイツが迷惑掛けたみたいでゴメンね?」
彼がニッコリ笑いながら気を使ってくれているのがわかる。
思った通りと言っては妄想しすぎだと笑われてしまうかもしれないのだが、そんな総の優しさに触れ、沙雪は赤面しながら恐る恐る顔を上げ、蚊の鳴くような小さな声で呟いた。
「あ……の……くださ……」
「え?」
「あ……あの……で、できれば……名字で呼んでくださ……。は、恥ずかしくて……相沢先輩にも……お願いしているんですけど……」
沙雪の言葉に、天音と総は顔を見合わせて、もう一度沙雪を見つめた。
「そっか。ごめんね。あの、でもよければ、沙雪ちゃんて呼んじゃダメかな? 俺、名字が沙雪ちゃんと一緒で岡田なんだ。あ、でも嫌なら無理言わないけど」
総の優しい声が沙雪に尋ね、付け加えるように「天音は別な」と零した言葉に、天音は冗談交じりの軽い抗議をするも、理由を聞いた沙雪は再び顔を俯けて首を横に振った。
そういう理由ならば仕方がないとも思うのだが、男性に名前を呼ばれることがない沙雪にとっては、新鮮であり恥ずかしくもあった。
「よかった。ありがとう。じゃあ俺のことも総って呼んでいいから」
「総……先輩」
「俺も俺もっ! 天音って呼ん……てぇっ!」
調子に乗って便乗しようとした天音を、総のゲンコツが黙らせた。
痛そうに頭を押さえた天音を見て、沙雪は突然の出来事に唖然とするも、その様子があまりにも可笑しくて思わず小さく微笑んだ。
すると、沙雪の反応を見た総や天音からも自然に笑みが零れだす。
決して悪い人達ではない。
沙雪が微笑んだことに対して、こんな風に素直な喜びを見せてくれる人達が、悪い人でないことくらい誰にだって分かる。
だからこそ沙雪は自分の態度を反省しながら、二人の優しさに心の中で感謝した。
「じゃあそろそろチャイムなるから。天音、行くぞ」
「俺も?! っていうか何で総が来たの? 俺と学科違うじゃん」
「俺だって不本意だよ。お前の担任に捕まって、何で俺がお前を次の授業に出るよう説教しろって言われなきゃならないんだよ」
総はブツブツと愚痴を零すように呟きながら、問答無用とばかりに天音の腕を掴んで教室を出ていく。
「それじゃあ、お邪魔しました。ごめんね沙雪ちゃん」
去り際に総が振り返って謝罪すると、沙雪は戸惑いがちに小さく頭を下げ、二人が居なくなったところで、ようやく安堵のため息をつくと、周囲の視線がかなり気になった。
居たたまれなさが沙雪を襲ったが、沙雪にも当然、次の授業がある。
沙雪は萎縮しつつ、静かに自分の席に座ると、次の授業の準備をし始めた。
2/25学科修正。随分前の設定だったので覚えてなかったのですが、学科が足りなかったようです…無茶苦茶な設定だなと自分でも思ってる。