煩悩
インターホンの音が静寂を切り裂いた。空の家に響き渡る余韻に雨音が続く。水無月下旬、俺の一日が始まった。いや、正確には昨日の深夜に始まった。ラブライバーとしての仕事が残ってたもんで。
「おーい、学校遅刻するぞー。」
これは智晴の声だ。ってかなんで誰も起こしてくれなかったんだよ。
そうか、真依は今日朝練があるって言ってたな。まあいい。
「ちょっと待って。今から行く。」
と言っても五分ほどかかりそうだから家に上げておいた。中学の時は恵が起こしに来てくれていたが、今度は智晴の当番になったらしい。高校に入ってからはそれほど寝坊というものを経験していない。俺にとって大きな進歩だ。
パジャマを着替え、洗顔、歯磨きを順次こなし、制服に着替える。近所でダサいと定評がある制服は我々が中高の一種の自慢である。階段を下り、リビングに入るとそこには智晴がコーヒーを手に取り、新聞に当然のように目を通していた。
「今日はずいぶんと時間がかかったな。」
「湿気がな。ってなんでコーヒー飲んでんだよ。しかもなんで新聞読んでんだよ。めっちゃ融合してるじゃねぇか。」
「机の上に置いてあったから。別にいいだろ?」
「いやよくねぇよ。ったく。行くぞ。」
「はいはい。」
花が二輪、黒と白がアスファルトの上を進んでいく。彼らは紺色の屋根の家の前に止まった。見慣れた景色に新鮮さを感じながら、試しにインターホンを押してみたものの誰も何も応答がない。もう先に行ったのだろうか。そりゃそうか。
「吹部の朝練か。」
「そうかもな。」
俺たちは学校に向かって再び足を進めた。学校は然程遠くなく、徒歩で十分くらい掛かる。こんな感じで智晴と二人で歩くのがこんなにも久しく感じるのは雨のせいなのだろうか。地にへばり付いた雲を見上げながら、しっとりとした、どこか悲しげなため息をついた。
「幸せが逃げてくぞ。」
「わかってるって。」
「そもそも逃げてけるような幸せがないのか。」
「うるせ。」
学校に着くや否や俺たちは二手に分かれた。俺は恵と智晴と違うクラスにそれぞれ分けられている。入学式の朝、微かな希望を携えクラス表を見たが、結果は失望に終わった。もしあの時、無感情で臨んでいたら、どれほど生活が良くなったのだろうか。一人の世界にどれくらい浸れたのだろうか。今更後悔しても意味がないことくらいはわかっている。だが、その微かな希望を持つことがこれほど大きな禍害になるとは思ってもみなかった。