【6】 少女の日常(2)
トントンとドアをノックする音が響いた。本日二度目の来訪者に、待っていたと言わんばかりに、エレナは扉へ駆け寄った。
「待ってたのよアリス!」
扉の前に立つ女性は重そうに紙袋を抱えていた。
「それより早く中に入れて!」
アリスはその荷物が重たいのか、少し苛立ったようにエレナに行った。すらっと伸びた手足は長く、風にそよぐ茶色い髪も綺麗だなとエレナは思った。
アリスは重たそうに紙袋をテーブルに置くと、ふぅ、と一息ついた。
「やっぱり遠いわー。近くまで馬車に乗せてもらったけど、森は歩きにくい! 何でこんな不便な所に住んでんのよ!」
「ごめんごめん」
そう言いながらもエレナは紙袋の中を覗いた。その中には本や、新聞、パンなどの食べ物が入っていた。
「助かるわー。買いに行くのは面倒なのよね!」
「まぁ、こちらとしても高い薬代が出せないのだからいいんだけど……」
「あ、そうそう薬ね! はい、これ」
用意していた薬をアリスに渡した。アリスの欲している薬は材料がなかなか手に入らないこともあり、市場で買うとなると相当な値がするのだ。この森にも少しだけその材料となる薬草が生えているが、あまり量は作れない。
「ありがとう。これで足りる?」
「ええ! 充分よ?」
「そう。あんたが市場を知らない人間で助かった。まさか物々交換でいいだなんて。この薬街で売ったら大儲けよ?」
「でもアリスが必要ならいいのよ。それにそんなに量は作れないし、それだけじゃやっぱり足りないんでしょ?」
「それは、仕方ないわ。でもたまにでもこうやって節約出来るだけでも助かってるのよ。本当にありがとう」
「気にしないで! 息子さん良くなるといいわね」
「ええ、ありがとう。じゃあ息子が待っているから、帰るわね」
「うん、気を付けてね?」
アリスは一人息子の為にこうやってたまにだが、薬を求めてくる。難しい病気だった。一時的に薬で痛みを抑えているが根本的な治療にはならない。そんな彼女からお金を取ることはエレナには出来なかったのだ。だからこうして生活用品と交換で薬を渡している。エレナ自体もお金を必要としている訳ではないので、こういった物々交換の方が助かるのだ。
颯爽と用事だけ済ませて帰っていくアリスをエレナは見送っていた。するとアリスの歩いて行った方から、一人の少女が掛けてくるのが見えた。
「お姉ちゃん!!」
「あらウェンディどうしたの? 今日はお薬の日じゃないでしょ?」
「うん! 遊びに来たの! この間はすぐに帰っちゃったから。あ、お母さんがこれ持って行ってって」
エレナが受け取った紙袋の中には、美味しそうなマフィンと、果物が入っていた。
「シエルの事話したら持って行きなさいって」
「まぁ。ありがとうって伝えといて? さぁ中にどうぞ?」
ウェンディを家の中に通すと、シエルがウェンディにのっそりと近づいてきた。
「こんにちは、シエル」
「シエル、ウェンディが貴方に果物くれたのよ。えっと、バナナと桃。後で食べましょうね?」
シエルは尻尾をパタパタと滑らせた。まるで喜んでいるようだった。
エレナはウェンディにお茶を出すため、奥のキッチンへ行こうとした。アリスから受け取った品物もついでに片付けようとした。
「お姉ちゃん手伝うよ?」
「ありがとう。じゃあそこの食べ物一緒に運んでくれる?」
「うん!」
エレナはウェンディに手伝ってもらい品物をせっせと片付けた。一人で片付けるよりも大分早く終わったと、エレナは思いながらお茶の用意をした。
「座ってていいよ?」
ウェンディにそう微笑み掛けると、ウェンディはキッチンから出て行った。
「はいどうぞ。熱いから気を付けてね?」
「ありがとう」
「シエルにはお水。ウェンディ渡してあげて?」
「うん!」
ウェンディはシエルと遊んでいた。シエルもまんざらでもないようで、ウェンディに構ってもらって何処か嬉しそうにしていた。
ウェンディはシエルに水を渡すと席に座り、エレナに問いかけた。
「お姉ちゃん知ってる? 王子様、行方不明になったんだって」
「王子様?」
「うん、王子様! 遠くに住んでいるのよ」
エレナも王子様くらいは知っていた。この国の王子は確か二人いたなと思い出していた。
「私は見たことないけど、ウェンディは見た事ある? やっぱり王子様だしカッコいいのかなぁ……?」
「私も無いよ。でもきっとすっごくカッコいいんだよ!」
「王子様って憧れるよねー。女の子の夢っていうか」
「そうそう」
エレナはお茶を飲みながら、見たこともない王子を想像し、胸を弾ませた。ウェンディもエレナの言葉に首を縦に振り相槌を打った。
「で、行方不明って? どっちの王子様? 家出? 駆け落ち?」
「それがねどっちも何だって!」
「え、大変じゃない。どうなっちゃうの、この国は……」
「でしょ! だから今国中大騒ぎなんだよ! やっぱりお姉ちゃん知らなかったんだね」
「こんなところに居れば情報何て入って来ないよ。あ、でもさっきアリスに新聞も貰ったから読んでおくね? そういえばアリスったらシエルの存在に全然気付かなかったね?」
エレナはシエルを見た。シエルは後ろ足で立ちウェンディの方をじっと見ていた。
「どうしたの? シエル?」
エレナはそんなシエルを抱き上げ膝の上に乗せた。シエルはエレナの膝に立ち、前足をテーブルについて身を乗り出すようにウェンディを見ていた。
「アリスに気付いてもらえなかったから落ち込んでるの? そんなにウェンディを見てどうしちゃったのよ……」
「私の顔に何かついてるのかな?」
ウェンディは不安そうにエレナを見た。エレナは首を振った。
「大丈夫、何もついてないわよ?」
「じゃあどうしたんだろ……。王子様の話しが気になったの?」
「え、そんなまさか……」
そんな筈はないとエレナは思った。お腹でも空いているんだろうか、さっきウェンディが持ってきた果物が食べたいのだろうか、とエレナは思った。そんなエレナの考えをよそに、シエルはグッと身を乗り出して、口を開けた。
「グォッ!」
「……シエルって鳴くの?」
「たまにね? ……ウェンディの言いたいことは分かるよ?」
エレナはシエルの頭を撫でながら苦笑いを浮かべた。
「シエル、王子様に興味があるの?」
ウェンディは小首を傾げシエルに聞いた。
「グォッ、グォッ」
「お姉ちゃん、シエル、王子様の話し聞きたいみたいだよ?」
「驚いた。こんなに鳴いたの初めてだもん。シエル、貴方やっぱり言葉が分かるのね?」
エレナの質問にシエルは答えなかった。相変わらずシエルはウェンディを見続けていた。
「私もそんなに知らないよ? 数か月前に弟の王子様がお城を飛び出して帰って来ないって。連絡もないから、王様も王妃様も心配してるってそれだけだよ」
「どうして出て行っちゃたの?」
「兄王子を探しに行くためだって噂になってるよ? 兄王子も一年くらい前にお城を出て行って、それから帰って来てないって。きっと弟王子は優しい人なのね。お兄さんが心配だったのね」
「そうね。でも弟王子まで行方不明だなんて、王様も王妃様もお気の毒に。さぞお辛いでしょうね」
そうは言ってもエレナにとって遠い世界の話しだった。王子様はおろか、エレナは王都にも行った事が無いのだ。王族がどんな人達でどんな暮らしを送っているのか、エレナには見当もつかなかった。
「ねー。早く見つかるといいね」
「そうだね。それを祈ることしか私達には出来なさそう」
エレナはお茶を口に含んだ。エレナの上に立ったままのシエルは黙ってじっとしていた。
***
「お姉ちゃんまた来るね!」
ウェンディは元気よく掛けて行った。まだ陽は沈み掛けていない。一人で返しても大丈夫だろうとエレナは思い見送った。
ウェンディの帰った後の部屋は静かだった。今まで一緒にお茶を飲んで楽しく話していたのが嘘のようだった。エレナはいつも寂しくなるのだ。だが今はシエルが居る。その寂しさは前とは比べ物にならない程小さくなっていた。
「シエル……」
エレナはソファに座りシエルの名を呼び抱き上げた。シエルはおとなしくエレナになされるがままだった。
「どうしたの? 元気ないね? ウェンディの話し聞いて、王子様の事心配してるの? シエルは優しいね。早く見つかるといいね?」
「……グォ」
エレナは兄王子を追い掛けて行った弟王子の気持ちを考えた。自分と似ていたのだ。待っていても帰って来ない姉をエレナは待ち続けている。何度探しに行こうかと迷った事か。一人が寂しくて、姉に早く会いたくて仕方がなかったのだ。この森の奥で、一人で姉を待っていても仕方がないと、エレナは何度も森を出ようとした。だがその度に姉との約束を思い出して我慢したのだ。必ず帰って来る。その言葉だけを信じ、エレナは未だに姉を待ち続けている。
弟王子は我慢できなかったエレナの姿そのものなのだ。兄王子を探す旅に出た弟王子を、エレナは勇気があると思った。エレナには出来ない事なのだ。姉を探しに行くためにこの家を、エレナの作る薬を必要としている人達を置いて出て行く勇気はエレナにはなかった。
「弟王子は凄いね。勇気があるよ。私には出来ない。私はこの家を、森を出られない……」
そうぽつりとエレナが零すと、シエルは抱かれていた体を揺らし、エレナの手から抜けた。そしてエレナの太ももに頭を擦りつけたのだ。
「慰めてくれてるの? でも大丈夫だよ。シエルが居るから。寂しくないよ?」
エレナは優しくシエルの頭を撫でた。
「シエル、ずっと一緒に、居て……」
エレナはそうシエルに言うと、目を閉じソファに倒れ込んだ。エレナからはスヤスヤと寝息が聞こえていた。