【38】 王子と魔女(1)
エレナはもがいていた。足のつかない湖の中で必死にシエルを助けるために前に進もうとしていた。だが思うように体は動かず、とうとう顔も水の中に沈んでしまった。沈む前思いっきり息を吸い込み、目を瞑った。どんどんと体が重くなる感覚にエレナは涙が出そうだった。それでも大切な友人のシエルを助ける為諦めることはしなかった。
必死に水の中でもがき息が苦しくなってきた頃、エレナは不思議な感覚に見舞われた。温かい光に包まれて、体が浮くような、下から押し上げられるような感覚だった。それに誰かに名前を呼ばれた気がした。エレナは意識が朦朧としてもうダメだと思っていた。
「っはぁ……っ!」
口を開けると肺には空気が入って来た。その事に驚き目を見開いた。エレナは、自分は水の中にいて口に入って来るのは水だと思っていたのだった。
「……エレナ」
名前を呼ばれそちらに視線をやった。エレナは目と口を大きく開きその青年を凝視したまま固まった。その青年は目が奪われそうな程綺麗な銀髪をしていた。濡れた髪は月の光に照らされて幻想的だった。
青年に抱えられながら運ばれて湖の外に出た。エレナは青年から目が離せなかった。
「やっぱり、泳げないのは君の方だろ?」
青年は優しい目でエレナを見ていた。エレナはその視線にドキリとした。だがどこかで感じた事のある視線だと思った。
「!! シエル!! シエルを助けなきゃ!!」
我に返ったエレナは小さな友人の事を思い出した。シエルは今も水の中できっと苦しんでいるに違いない。エレナはそう思いもう一度湖に入ろうと駆けだした。だがその手は青年に掴まれて止められてしまったのだ。
「はな、離して!! シエル! シエルを助けなきゃいけないの!」
エレナは取り乱していた。こうしている間にもシエルは暗い水の底で、一人で居るのだから。
「大丈夫だから。落ち着いて」
「大丈夫な訳ない! 離して!」
「シエルは水の中にはいない」
「!?」
エレナは驚いて青年を見た。青年は相変わらず優しい眼差しをエレナに向けていた。
「シエルはここにいる」
「……どこにもいないじゃない」
「居るよ? エレナ落ち着いて。よく聞いて。俺が君のシエルだ」
エレナは目の前の青年を訝しげな顔で見つめた。青年から目を離すともう一度湖に入ろうと必死になった。
「エレナ!! 嘘じゃない。君は大きな箱に入っていた奇妙な生物を送りつけられた。毎日毎日それと一緒に暮らしてた。俺の為に毎日新鮮な野菜を切ってくれた」
エレナはもう一度青年に振り返った。彼の顔をじっと見つめた。
「昨日の晩御飯はかぼちゃだった。昼は人参。朝はトマト。君は夕食後キッチンに行って寝てしまっただろう?」
「……本当に、シエル、なの?」
エレナは驚きが隠せなかった。青年はエレナから手を離した。
「そうだよ。俺がシエルだよ」
青年はニコッとエレナに微笑み掛けた。青年から向けられる視線をエレナは知っていた。いつも近くに居たあの茶色い生物と同じだった。自分を見守ってくれているそんな眼差しをエレナは間違えるはずが無かった。
「シエル……」
エレナは目に涙を浮かべシエルに抱き付いた。
「ちょっ」
「シエル! よかった。無事だった」
シエルは泣き出したエレナを困ったように見た後優しく頭を撫でた。
「エレナ、ごめん」
エレナはその言葉に顔を上げた。シエルは相変わらず優しく微笑んでいた。シエルに抱き付いていたのが急に恥ずかしくなり、エレナはシエルから咄嗟に離れた。
もう一度シエルの顔をよく見た。エレナにはすぐ分かった。シエルの表情は何処か寂しさを含んでいたのだ。少し前の自分と同じように寂しさを映している目だった。
「泳げないのはやっぱり俺じゃなくて君の方なんだな。君は自分が泳げないのに、それなのに俺を助けようとしてくれた。水が怖いんだろ?」
エレナはこくりと頷いた。
「ありがとう」
「シエル……、人間、なの? 何がどうなってるの?」
エレナは困惑した表情をシエルに向けた。シエルは困ったように笑った。
「俺の話し聞いてくれる?」
二人は地面に腰を下ろした。シエルは自身の事を話した。兄が行方不明な事、魔女を探している事、今までに出会った人の事、そしてこの姿になった事。エレナは目を見開いてその話に聞き入っていた。
「――それで、俺は……、その、……王子なんだ」
「!? じゃ、じゃあ、ウェンディが言ってた王子様って貴方なの!? 本当に!? え、どうしよう。ご、ごめんなさい!! 今まで気づかなくて。それに失礼な事、しちゃった」
エレナはブルブルと体を震わせた。初めて出会った王家の人にどう接していいのかも分からなかった。自分の今までの行動を振り返っても無礼だったと怯えたのだ。
「エレナ、ねぇ、そんなに怯えないでよ。今までみたいにして? お願いだから。君に自分が王子だって言ったのは、そうやって縮こまって欲しかった訳じゃないから。ちゃんと知っておいて欲しかっただけなんだ。俺は、今まで通り君にシエルとして接して欲しいんだけど……」
「本当に? 本当にいいの?」
「ああ。その方が嬉しい」
シエルに濡れた前髪をそっと掻き分けられ、エレナは顔を真っ赤にした。
「あ、ごめん。嫌だった?」
眉を寄せたシエルに、エレナはぶんぶんと首を横に振った。
「ち、違うの! ちょっとびっくりしただけ!」
エレナは真っ赤な顔でシエルを見つめた。シエルはふっと笑った。
「シエルは、もうお兄さんを探しに行ってしまうの? もうオオサンショウウオじゃないもんね」
「まだ、行けない。俺のこの姿は湖の近くに居る間だけなんだ。呪いは解けてないんだ」
「じゃ、じゃあ、まだ一緒に居てくれるの? 私、シエルが居てくれたら嬉しい!」
エレナは目を輝かせてシエルを見た。シエルは顔を歪めるとエレナから視線を逸らした。
「……ごめん。エレナ」
「……」
「話したよね? 俺が魔女を探してるって。俺は魔女殺しだって」
「うん」
「だから、俺は……」
シエルは立ち上がり辛そうな表情でエレナを見下げた。エレナはシエルを見上げていた。立ち上がったシエルは背が高くて、湖から出た時にもエレナを抱えていたその腕は筋肉が付いていて、男の子なのだとドキドキとしてしまった。それにやっぱり銀色の髪が美しいとエレナは思った。
「エレナ……。俺は君を、殺さなきゃ、いけない……」
悲痛な表情でそう言ったシエルを、エレナは驚いたように目を見開き見ていた。
「……ごめん」
「ちょっと、待ってよ……。どういう事なの? どうしてシエルが私を……?」
「エレナ、君は魔女なんだ」
エレナは途端に怯えだした。シエルの目は冷たくエレナを捉えていたのだ。
「私、魔女じゃないよ? それに、魔女なんて、そんなの、子どもの為のおとぎ話だよ? シエルってばそんなのまだ信じてるの?」
エレナは怯えながらもシエルに笑い掛けた。だがシエルは表情を崩さずエレナのことを見下げていた。エレナは立ち上がった。
「ね、ねぇシエル! 私魔女じゃないよ! 今までみたいに一緒にいようよ?」
「君は魔女だ。それに魔女は存在する。俺の姿、説明何て出来ないだろ?」
「……っ。嫌、嫌だよ! 私、魔女じゃない!!」
「エレナ……。俺だって信じたく何てない。でも俺の中の、魔女殺しの血が騒ぐんだ。君は魔女だって。もう疑う事は出来ない」
「どうして……。シエルは私の事嫌いなの? 殺したいほど嫌いだったの?」
エレナは目に涙を溜めてシエルを見つめた。
「そうじゃない。でも、俺には王子としての立場があるんだ。このまま両親を待たせることも、国民を不安にさせる事も出来ない。兄さんが帰って来ないなら尚更、俺がその役目を果たさなきゃいけないんだ……! そうしないと俺には……、価値が、無いんだ!」
「だから私を殺すの……? シエルはそれで家族の元に帰れるの?」
「ああ。とりあえずは一つ目の条件はクリアできる。後はこの体を何とかして、兄さんを見つけ出すんだ」
シエルは一切エレナの目を見ないで話した。エレナは涙の溜まった目を擦りシエルを見た。
「私、本当に魔女なの? なら魔法とか使えるのかな?」
エレナは微笑みながらシエルに尋ねた。
「俺には魔法の使い方なんて分からないよ。でも君が眠ると、君以外の生物が全て眠ってしまうんだ。多分範囲はこの森だけなんだろうけど。いや、分からないな。そんな気がしただけだから。少なくとも俺が旅をしてる間はそんな風に眠る人は見なかった。君は周りを眠らせてしまうんだ」
エレナはキョトンとした顔をした。
「そうなの? でも、シエルは?」
「俺はこの力のせいなのか君の眠りには誘われなかった。その間森を調べた。動物たちは死んだように眠っていたよ。木々のざわめきも聞こえなかった。君が起きるのと同時に眠っていた動物たちは目を覚ますんだ」
「知らなかった。私そんな事……」
「君は何も知らないんだ。自分が魔女な事も、君の眠りが周囲に及ぼしている影響も」
「……」
「エレナ、ごめん」
シエルはエレナを見た。エレナはようやく自分を見たシエルに微笑み掛けた。
「シエル。お願いがあるの」
「なに?」
「私の事忘れないで?」
シエルは目を見開いていた。
「それとお姉ちゃん、もしかしたら帰ってくるかもしれない。その時に私がもういない事伝えて。直接じゃなくてもいいの。手紙でも何でも」
「……エレナ、それは俺に殺されるって事なの?」
「うん。いいよ。シエルの為になるなら。それでシエルが家族の元に帰れるのなら、いいよ。怖いけど、でも、もういいの」
「……何がもういいの?」
エレナは苦笑した。
「だってそうでしょ? お姉ちゃんは何時まで待っても帰って来ない。もう本当は私の事なんて忘れてるのかもしれない。それなのに私はずっとその約束に縋るように森を出られないの。今更町で暮らすことも私には出来ない。どうやって皆と仲良くしたらいいのかも分からない。それに私、本当に魔女だったなんて、そんなの知ってもう普通には暮らせないよ」
「ごめん」
「謝らないで? 私シエルが来てくれて本当に楽しかった。今までで一番。家族が揃ってた時ぐらい幸せだったの。だからシエルが居なくなるなら私はもう、あの家で、一人で生きてても仕方がないよ。寂しいだけの毎日を送るんだよ? そんなのもう嫌。シエルの居ない生活は耐えられない。ならいっそ貴方の役に立ちたい。貴方を家族の元に返してあげたい」
「っ!」
シエルは眉を寄せ固く目を閉じエレナから視線を逸らした。
「だからシエル。もういいの。貴方がそんな辛そうにしなくてもいいんだよ? 私は悪い魔女なんだよ? 魔女はいつも悪役だもんね。実際そうだったし。私は知らない内に皆を眠らせてしまってたなんて……」
「……君のせいじゃない。君は知らなかったんだ!」
「でも私のせいだよ。そっか。たまに来るって言ってたお客さんが来なかったり、この前もウェンディが変な時間に来たのも、全部私のせいだったんだね」
「エレナ、……ごめん。君の事絶対に忘れない」
「うん。絶対だよ?」
シエルはエレナの目を見つめた。エレナはニコッとシエルに笑い掛けた。シエルは手をかざした。その手には綺麗な青い炎が灯っていた。
「これが、俺の力……?」
「綺麗だね」
シエルはその手をエレナに差し出した。シエルの手は震えていた。
「この炎で魔女に触れれば、魔女は居なくなる。俺の力が俺にそう囁きかけるんだ」
「痛いのかな? 私痛いの苦手だよ。出来るだけ痛くしないで?」
「……」
エレナはゆっくりと近寄るシエルを、目を固く閉じて待った。シエルは唇を噛みしめていた。
シエルはゆっくりと炎の宿った手でエレナに触れようとしていた。目を閉じ立ち尽くすエレナは小さく震えていた。




