【33】 湖の畔で (1)
今までの気温とは違い過ぎる、暑いある日の事。エレナに連れられ王子は一度人の姿を取り戻した湖へとやって来た。
「はぁ、着いたよシエル」
エレナの腕から解放され地面に降ろされた王子は、体がだるく動くのも億劫だった。エレナは独り言を零していた。そんなエレナの言葉を聞きながら王子は体を地面に擦り付けた。湖の周りの湿った土は体を押し付けるとひんやりとしていて気持ちがよかったのだ。
「シエルほら湖だよ? 泳いでおいでよ? シエルは水の生き物なんでしょ?」
エレナに泳ぐことを勧められたがそんな気分には到底なれなかった。それに湖に入ると元の姿を取り戻してしまうと王子は思った。まだエレナに本当の姿を、本当の事を打ち明ける勇気は無かったのだ。
あの夜、人の姿に戻った王子は一番にエレナの元へ行こうとした。だがそれは叶わなかった。冷静になった頭で考えていた。湖限定の姿をどう説明していいのかも、本当は人であるという事を知ったエレナがどんな反応をするのかも、王子には分からなかった。エレナは自分が裏切ったと思うだろうか。思春期の女の子と一つ屋根の下で過ごしていた男を気持ち悪がるだろうか。オオサンショウウオだと思っていたから可愛がっていただけだろうか。人だと、王子だと知れば受け入れてもらえないのだろうか。そんな事を王子は考えていた。
エレナは一向に動こうとしない王子にイラついたのか、無理矢理にでも湖に入れようと必死になった。王子はエレナのその行動を煩わしく思った。是が非でも抵抗したかったが、今の姿では行きつく先は見えていた。王子は腹を括り湖に歩み出した。エレナに本当の事を言う決意をしたのだ。
恐る恐る湖に顔を浸けてみると、案外心地よくて王子は気分が良くなったのだ。何だか上手く行く気がして、奇妙な声を漏らした。自分で聞いても聞きなれない声が不気味だと王子は思った。
「泳いでもいいんだよ? 私ここに居るから」
エレナはニコリと微笑むと手を振った。王子は覚悟を決めてエレナに振り返った。そして湖に足を踏み入れて行った。
目を閉じた。ドキドキと鼓動は高鳴った。満月の夜の感覚を思い出していた。水は冷たく心地よかった。体は不思議な感覚に陥っていた。王子は今か今かと元の姿に戻るのを待っていた。そうしていると呼吸が苦しくなってきた。ブクブクと息を吐き、目を開けた。王子はようやく何か違うと気付いた。
「シエル気持ちいいー?」
エレナの問いかけなど王子には聞こえていなかった。ジタバタと足を動かして、必死に水面に上がろうとした。だが体はいう事を聞かなくて、水は足掻けば足掻くだけ重く王子に伸し掛かって来たのだ。
王子は泳げない訳ではなかった。先日も見事に泳いでから人の姿を取り戻していた。王子は体の不調に危機感を覚えていた。
次第に意識が朦朧としていき足掻くことも出来なくなった。
「楽しんでるのかな?」
エレナの声が王子にも届いていた。薄れゆく意識の中でもう一度だけ水から逃れようと王子は足掻いたのだ。だが体が浮上することは無かった。王子はもうダメだと諦めかけていた。
そんな時不意に何かにギュッと掴まれたのだ。エレナだった。力強く掴まれた体は痛く、王子の意識は再び覚醒した。
「はっ、はぁっ……。シエル!! 大丈夫!? ねえシエル!!」
心配そうに問いかけるエレナの声と、激しく体を揺さぶられる感覚に王子は目を開いた。
『死ぬかと思った!!』
「ああ、良かった! シエル泳げないなら先に言ってよ……。びっくりしたんだから……」
ぜぇぜぇと息を整えつつエレナをちらりと見た。エレナは目に涙を溜め、それをポロポロと零していた。王子はギョッとしてエレナを凝視した。
「ごめんね。ごめんね、シエル。私が泳いでおいでって言ったから。怖かったよね。水の中冷たくて、暗くて、もがいても全然出れなくて……。ごめんね、シエル」
王子は泣き出したエレナの膝に足を乗せ、慰めようと必死に小さな手でエレナの頬を叩いた。
「ごめんね、シエル」
エレナにギュッと抱きしめられた王子はほっと息を吐いた。エレナはもう泣いていなかったのだ。
「……なんか重たい」
『俺もそう思う』
王子は自分でも気づいていた。水の中に入った時から体が重くて、上手く動かないのだ。まるでスポンジのように水を吸った自分の体に嫌気がさしていた。エレナに持ち上げられ見つめ合っている間も、王子の体からは水がポタポタと滴り落ちていた。
「……」
『……』
「はっくしゅん! うぁ、冷えちゃったかな? 水浸しだし、服が張り付いて気持ち悪い」
エレナはくしゃみをすると王子を地面に降ろした。重たい体は動かすのがだるかった。いっその事雑巾のように絞りたいと王子は考えていた。
座り込んでそんな事を考えていると、目の前でエレナがいきなり服を脱ぎ出したのだ。王子は目と口を開き慌てて自分のつぶらな目を手で隠そうとした。だが短い手では目元には到底届かなかった。そんな王子をお構いなしにエレナは着々と服を脱いで行った。
王子のプライドと倫理観は、婦女子の着替えをこんな風に見る事を許さなかった。王子は咄嗟にその小さな手で穴を掘りだした。意外と王子の小さな手は穴を掘るのが上手かった。あっという間に地面に顔を突っ込める程掘ると、王子はすかさずその中に顔を入れた。顔からも滴って来る水が煩わしく思えた。
「うわ、すごい。絞ったらぼたぼた水が落ちてくるよ? ほら見てシエル。って何してるの? また溺れるよ?」
エレナに穴から出るように体を引っ張られた王子は、必死に短い手を地面に食い込ませた。案外それが、効果があったのかエレナは呆れたように王子から手を離した。王子はほっとしたように穴の中で息を吐いた。
「うーん。誰も来ないよね? 脱いじゃってもいいよね?」
エレナの独り言が聞こえた。王子はまさかと思いギョッとした。そろそろ穴に顔を突っ込んでいるのがしんどくなってきていた。早く顔を上げたかったが、エレナは王子の予想通り残っていた下着も脱ぎだした。
地面にはぼたぼたと水が落ちる音が響いていた。王子は人知れず顔を赤くしていたのだった。
いつまでも穴に顔を突っ込んでいる訳にもいかないと王子は思った。何よりこの体制は意外と辛かったのだ。王子は意を決して目を閉じ穴から顔を上げた。薄らと開けた目でエレナを見た。下着は付けていた。その事に王子は少し安堵した。
なるべくエレナを見ないように心掛け辺りを見た。エレナの近くの木には、先ほどまでエレナが身に纏っていたワンピースがぶら下げられていた。王子はそそくさとそのワンピースに近寄りワンピースを木から降ろそうとジャンプした。重たい体では低めにぶら下げられているワンピースにも中々届かなかった。何度かジャンプを繰り返していると、体が少し軽くなったようなそんな気がした。
何度目かのジャンプでようやく王子はワンピースを銜えた。銜えたはいいものの、ワンピースを木から降ろす事は出来なくて、王子の体は宙づりの状態になったのだ。
『エレナ、服を着てくれ!』
「何してるのよ。ちょっとシエル止めてよ」
エレナに王子の意図は伝わらず、エレナに怒られながらも王子はワンピースから引き剥がされた。それでも王子は諦めずに何度もワンピースに食い掛かっていた。
「シエル、ダメだってば。お気に入りなんだからダメになっちゃうでしょ?」
エレナは何度注意しても諦めない王子に呆れたのか、仕方なくと言った風にワンピースを王子から奪い取り袖を通した。
王子はようやく服を着たエレナにほっとし、地面にペタンと座り込んだのだった。




