【3】 寸胴でツルツル、プニプニの茶色い生物(3)
「んぅ……?」
気持いい眠りの中、冷たい何かに頬をペチペチと叩かれる感触がして、エレナは目を覚ました。目を開いて見えたのは、茶色い生き物シエルだ。
「シエル……?」
まだ少し眠そうなエレナの頬を、二本足で立ったシエルは残った前足でペチペチと叩いた。シエルは元々柔らかくプニプニとした感触をしている。前足で頬を叩かれようと然程痛くはないのだ。エレナは眠りを妨げたシエルを見つめた。そして眠りに就く前の事をハッと思い出し、がばっと体を起こしたのだ。
「シエル、ごめんね! 怒鳴ったりして。もう怒ってないの? 許してくれるの?」
シエルはエレナが目を覚ましたことに満足したのか、尻尾をパタパタと床に叩きつけて遊んでいた。
「はぁ、良かった。怒ってないのね。……それにしても私いつの間に寝ちゃったんだろう? 起こしてくれてありがとう、シエル」
エレナはシエルに微笑み掛けた。シエルは玄関の方をじっと見つめて目を離さなかった。
「どうしたの?」
小首を傾げシエルにそう問うと、玄関の扉の向こうをコンコンと可愛らしく叩く音が聞こえた。
「あれ、お客さんだ。シエル分かったの? 凄いね! はーい。ちょっと待ってね。今出ます」
シエルの頭をエレナは豪快に撫で、扉に向かった。扉を開けたその先には小さな女の子が一人で立っていた。
「こんにちは!」
「こんにちは、ウェンディ。今日は遅いのね?」
ウェンディは服に付いた泥や葉っぱを払いながら、元気にエレナに挨拶をした。この小さな女の子は、森を抜けたところにある町に住んでいる。定期的に母親の為の薬をエレナの元に買いに来ているのだ。いつもは遅くとも昼には来るのに、とエレナは空を見て不思議に思った。知らない間に昼寝をしてしまった事もあってか、空は陽が落ち始めていたのだ。
「うん。早く帰らなくちゃ。今日もお昼前に出た筈なのに、おかしいな……。ゆっくり歩き過ぎたのかなぁ? 知らない間に道に迷ってたのかなぁ……?」
エレナがいくら森の奥に住んでいるとはいえ、ウェンディがまだ幼い子どもとはいえ、町からここまで来るのに何時間もかかることは無いのだ。エレナはやはり不思議に思った。体の弱い母親を心配させるような事を目の前のウェンディがするとは思えなかった。
そうは思っても実際この時間になってしまったのだ。早く薬を渡して返した方がよさそうだとエレナは思った。
「ちょっと待っててね。お薬持ってくるから。あ、お家の中入って? テーブルにお菓子あるから食べてていいよ?」
「うん! お邪魔します」
ウェンディを家の中へと迎え入れ、エレナは奥の薬部屋に行った。“ウェンディ”と書かれている袋を見つけそれを抱えた。薬部屋には他にも色々な名前の書かれた袋や、薬草が綺麗に並べられていた。
エレナはこの森の奥で、食べていくために薬屋をやっている。顧客が多いとは言えないが、それでもウェンディのようにこうやって定期的に薬を求めてやってくる者がいるのだ。一人分の生活費には充分だった。そうでなくても、この森の中ではお金を必要とすることは然程ない。自給自足でも何とか暮らしていけるのだ。
薬を持ちウェンディの元へと戻った。そこには怯えて壁にもたれ掛っているウェンディの姿があった。
「ど、どうしたの?!」
「お、お姉ちゃん!」
ウェンディは泣きそうになりながらもエレナに駆け寄り、抱き付いた。小さな体は震えていた。
「どうしたのウェンディ?」
「あれ、あれ何!?」
エレナはウェンディが恐る恐る指差した先を見た。ウェンディの指の先にはシエルが居た。
「え、シエル?」
「シエル?」
ウェンディと顔を見合わせたエレナは不思議そうにキョトンとした。ウェンディも何が何だか分からずにただ、濡れた瞳でエレナを見ていた。
「あ、ああ。シエルが怖かったのね? 大丈夫よ。シエルはいい子だもん。何もしないよ?」
「本当に? だってすごく怖いよ!」
「怖くないよ。ほらシエル挨拶して? この子はウェンディよ? お得意さんなの」
エレナはニコニコとシエルを呼び寄せ、ウェンディを紹介した。シエルがのっそりと動いた事にウェンディは、ビクッと体を震わせてエレナにギュッと捕まった。シエルはそれを見ていたのか、近づこうとしていた体を止めてその場でじっとした。
「ウェンディ大丈夫よ。ほらシエルは優しいのよ? 貴方が怖がったから、あそこでじっと固まっちゃったけど。シエルは何もしないよ? それにほらよく見てごらん? とても可愛いでしょ?」
「か、可愛くはないと思うよ? お姉ちゃんちょっと変だよ。でも、悪い子じゃないみたい……」
恐る恐るウェンディはシエルに近づいた。ウェンディはエレナの手を離さずにじっとシエルを見つめた。
「こ、こんにちは。初めまして、ウェンディよ」
そしてシエルにそっと挨拶をした。シエルは口を大きく開けて、パクパクと何か言いたそうにした。
「ひっ!」
ウェンディにはそれが怖かったのか、またエレナにギュッと抱き付いてしまった。エレナは苦笑いを浮かべウェンディを諭した。
「大丈夫よ。食べたりしないから。この子野菜や果物しか食べれないもの。きっとウェンディによろしくって言ってるつもりなんだよ」
「そうなの?」
「うん」
「そっか。ごめんね、シエル。よろしくね?」
ウェンディはシエルに向きなおりそう言った。シエルは尻尾をひらひらと床の上で滑らせていた。
「触ってみる? 気持ちいいよ?」
エレナはウェンディから離れシエルを抱き上げた。
「ほ、本当に? 怖くない?」
「大丈夫だって! ほら手出して? 握手」
エレナは後ろから抱き上げたシエルの前足を持ち、ウェンディに差し出した。ウェンディは恐る恐るシエルの前足を掴んだ。掴んだ途端ウェンディは今まで寄せていた眉を元に戻し、ぱっと顔を明るくさせた。
「すごぉい! プニプニ!!」
「ね? 気持ちいいでしょ?」
「うん!」
ウェンディは先ほどまでの恐れを何処かへやってしまったのか、シエルの頭や胴体を仕切りに撫でた。
「ごめんね。怖いなんて言って、もう怖くないよ?」
ウェンディはシエルにそう言った。シエルは目を細め、口を大きく開けた。
「良かったね、シエル。お友達が出来て」
シエルを床に降ろしエレナは置いていた紙袋をウェンディに渡した。
「はい。お薬。お母さんの調子はどう?」
「ありがとう。お薬飲んでたら平気みたいよ。咳も出ないし。お姉ちゃんのお薬はすごいね!」
ウェンディは嬉しそうに紙袋を受け取り、お金をエレナに渡した。微々たる金額だった。ウェンディの家は裕福とはかけ離れていた。エレナは初め金銭の受け取りを断っていたが、どうしても払いたいというウェンディの意向に負け、必要な経費だけを請求している。それでも気持ち程度、上乗せされた金額をウェンディはいつも持ってくるのだ。
「それならよかったけど。ごめんね。治してあげることは難しいかも……」
「いいの! お母さんも感謝してたもん。お姉ちゃんのお薬飲むまで、お医者さんに行っても全然良くならなかったんだもん。それが今では外にも出られるんだから」
「そう……。ウェンディそろそろ帰らないと。暗くなってきてるよ?」
エレナは思い出したように窓の外を見た。先ほどまで射していた夕陽は沈み掛けていた。
「本当だ」
「ねぇ、今日は泊まっていかない? やっぱり危ないよ? 夜の森は迷っちゃうかもしれないよ?」
「ありがとう。でもお母さん待ってるから帰らなくちゃ」
「……そう」
エレナは少し悲しそうに微笑んだ。待っていてくれる家族が居る事が、エレナには素直に羨ましかった。いつもウェンディが来ることをエレナは楽しみにしていたのだ。エレナの元へ薬を買いに来る者は居ても、エレナとこういう風に話しをする者はあまりいないのだ。ウェンディはエレナを慕い話しかけてくれる。エレナはそれが堪らなく嬉しいのだ。
エレナは薬を大事そうに抱え、帰り支度を始めるウェンディを見ていた。すると足元にヒヤッとした感覚がした。
「シエル、どうしたの?」
シエルがツルツルの頭をエレナに擦り付けていたのだ。エレナは屈みシエルに尋ねた。シエルはウェンディを見た後扉の向こうに視線を向け、尻尾をバタバタと叩きつけていた。
「送って行けって言ってるの?」
シエルは人間がそうする様に首を縦に振って相槌を打ったのだ。
「そうだね。危ないもんね。シエルも一緒に行こう?」
扉に向かうウェンディを追いかけるように一歩踏み出した。シエルもエレナの横を歩いた。
「ウェンディ、ちょっと待って。送っていくから」
「いいよ。一人で帰れるよ?」
「でも、やっぱり危ないから。私は森に慣れてるから平気だし。町には行けないけど、森を抜けるまでは案内する」
「うん、分かった。シエルも行く?」
「うん。帰りに一人は寂しいからね。シエルにもついてきてもらうの」
エレナはウェンディの手を取り歩き始めた。ウェンディの手は小さくて温かかった。




