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姫
皇室や公卿、将軍家、大名など高貴な身分にある人の息女の敬称として広く用いられる。特に内親王、女王を姫宮と呼ぶ。転じて、小さくかわいらしいもの、自分の娘を指す場合にも用いられる。本来姫という呼称には年齢制限はなく、高齢の者であっても姫と呼ばれる。
西暦2143年
ヨーロッパ、巴爾幹半島
2037年に始まった第3次巴爾幹戦争により、ギリシャ共和国、アルバニア共和国、ブルガリア共和国、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国、セルビア共和国、モンテネグロ共和国、クロアチア共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボ共和国、ヴォイヴォディナ自治州に加え、ブルガリアより分離独立となった1つの国があった。その国の名はファドナ共和国
共和国という名を呈してはいるが、実際には王がいる国である。
しかし、王政ではなく、本質は日本のような立憲君主国である。
(共和国という名を呈しているのは巴爾幹半島の国々が共和制国家であるためと言われている)
王家は国の象徴であり、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国、オランダ、スペイン、日本などと同様に、政治に関わることは少ない。
ファドナ共和国について、外交面においては国際連合、欧州連合の加盟国であり、石油輸出国機構にも加盟している。
王家は日本人の血を引いていると言われ、現国王は日本人らしい顔立ちでもある。
7月24日の或る日、彼女は王の私室に呼ばれていた。
彼女の目の前にはもちろんのように父親である王がいる。
彼の容姿は中肉中背、王と言われても100人中、100人が首を捻るような顔である。
そんな、平凡な小父に対してその娘である彼女は容姿端麗、博学才穎、国中の男性を虜にし、文において彼女に勝る者はいないと言う。
その彼女の目の前に平凡な父親、それもその顔には怒りがあるようにも思える。
一言で表すのであれば、それを人は『奇妙』と呼ぶのだろう。
その『奇妙』をより一層強めるのがもう一人、その人は我関せずといった風に部屋の内装を自由に、且つ物珍しげに見ていた。それも平服で。
「イリナ、何故呼ばれたか…分かるか?」
「いえ、私には父上がお怒りになる様な事は身に覚えがありません」
怒りを含んだ表情で自分の娘に物を尋ねる一国の王
父親の問いに対して、あくまで冷静に、しかし尊属である父親への礼儀を忘れずに返答する誰もが振り向く様な美少女
それらの会話に耳を傾ける気すらも無いように王の部屋を見て回る男
奇妙である
一拍おいて、王は質問を重ねた。
「イリナ、その者を見た事があるか?」
「いえ、父上も国民の顔全てを覚えているということもないでしょう?」
「まあな。だが、この者は違う。この者は柳銘に名を連ねる者の一人であり、イリナの次に賢人であると呼ばれている」
柳銘とは、この国における最高官位を得る為に必要な資格である。
この試験において、彼女は3つの科目の内、2つの科目を満点、残りの科目でも四つの間違いのみであった。
この史上最高と言われる高得点に続いたのが、この男である。
この賢人である彼の容姿はとても醜いとは言えず、整った顔立ちであった。
性格も決して悪いことはなく、物怖じせず、堂々とした態度であるが、傲慢というわけでもないと言う。ただ、しかし、今は『変な人』としか見えないのだが。
「彼が、でしょうか?私から見れば、どうも軽い人間のようにしか見えないのですが…」
彼女は現在『変な人』である彼を一瞥し、率直な意見を述べた。
「それはイリナも似たようなものだ、私にはイリナもこの者もチャラチャラした若者にしか見えないがな」
大人からすれば、姫であろうと平民であろうとチャラチャラ__50年程前に呼ばれていた死語であるが__しているということを王は言いたかったのだが、娘は自分への罵倒のみを受け取ったようだった。
「それは些か酷い物言いとは思いませんか、父上。私は断じてチャラチャラなとしておりません」
そう言う彼女の髪は紅であり、瞳は黄金である。(というのも、彼女の母親は赤毛であり、赤毛の多いアイルランド人、の貴族__一代貴族ではなく、五等爵である__であるからだ)
それは彼女の素であるのだが、一般にみればということである。そして、王はその意を示した。
「何も知らぬ者が見ればという話だ。私の主観が入ってしまっては元も子もない」
実の父親からの罵倒とまではいかずとも、決して褒められてはいない、少し怒られているのではと思われる発言に、彼女は怒りを覚えながらも平常心を装い__装えてはいないが__言葉を返した。
「おっと、本来の目的を忘れていた」
事実、親バカである彼からすれば、その最愛の娘でもある彼女に怒りを露わにされては居心地が悪かったのであろう、少々強引に話題を戻した。
「私はずっと思っていました。一体どのようなご用件でしょうか?」
「私が言いたいことは彼についてだ」
「はい」
「イリナ、お前はいくつになった?」
「先日、父上に祝ってもらう事もなく18になりました」
結果、親バカの父は愛娘による棘々しい言葉に対し、がっくりと項垂れてしまった。
「……そうか。18だな…。 イリナ、我が国での成年は何歳からだ?」
しかし、彼は負けなかった。娘である彼女とは違い、表情を隠して言葉を繋いだ。
「17です」
「17の淑女は何を考える?」
「就職先…でしょうか?」
「いや、そういう人もいるが、私が言いたいのは王族や皇族の話だ」
わざとではないかと思われる彼女の返答に王は噴き出しそうになったが、また表情を隠す事に成功した。
「政治向きの勉強…は王室だからということではありませんし…。一体、どのようなことでしょうか、父上」
「結婚だよ、イリナ」
一瞬、男の体がビクッと跳ねたように見えた。
王は気付いておらず、そのまま続ける。
「イリナも十分に大人になった。それに私も歳をとった。だから、そろそろ孫の顔を見たいのだよ、絶世の美少女の子供をな」
少し芝居掛かったようにも思える口調に彼女は苦笑を零し、言葉を返した。
「父上がそう仰せになるのであれば、私が歯向かう余地などありません。このファドナの地にも最近はいいニュースがあまりありませんしね」
悪戯っ子のような笑みとウインクをして、彼女はそう言った。
「…そうか、ならば__」
「ですが、父上」
ここは流すべきだと判断した王が次の発言をしようとした時、彼女は今までよりも真面目な口調でその声を押し潰した。
「私は彼のことをあまり知りません。正直に言うのであれば、彼に対して警戒しています。ですから、彼をここに住まわせていただけませんか?」
彼女の発言に対し王は意外そうな表情をし、これを了承した。
それからはトントン拍子__これも死語ではあるが__で話は進んで行き、彼はその日から、イリナとその父、ツバサたち王家の住まう家(王宮と言うべきだが、あくまで共和国であるために家と呼ぶ)の一員もなった。