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8
ドイツで住む場所は自分で探した。
住居まで情報部が用意すると、後々めんどうなのだ。
「……ふぅー」
家に着く。
日本とは違い、古びた石造りの二階建てアパート。厳粛な雰囲気がただよう。
ドアを慎重に開けた。ドイツの夜はとても静かだ。今は若者がフィーバーしているが、本来は夜十時以降は静かにしていなければならない。ささいな音、シャワーの音さえもやかましく注意されるのだ。
「おっかえりー、ダーリン!」
甲高い声を出して、馬鹿女が出迎えた。
「………」
「あっ、ちょっ、無視しないでよ。ねえ、スルーなの!? 私との愛は何処へ行ったの!?」
元からない。
「……私――いや俺は、お前とは絶対にそういう関係にならない」
「何よ。急にプライベートモードになって。あっ、もしかして一人称の変化は愛情のしるし?」
無視して、部屋の奥に移動した。居間ではテレビが大音量で流れている。パネルを表示させ、音を下げた。
「あっ、せっかく結界張って防音にしてるのに!」
「やめろ、俺の耳がおかしくなる」
馬鹿野郎――じゃなく馬鹿女。女性にしては長身で、私とは頭一つ分くらいしか差がない。スタイルは良く、どこから引っ張り出したのか私が気まぐれで買ったパンクバンドのTシャツを着ている。そのせいで胸の大きさや尻の張りが目立ってしまう。
「――(ニヤッ)」
タチが悪いのは、それに困ってる私に気付いているということだ。全く、タチの悪い。
「セツナ、勝手にビールを出すな」
「え、でも、飲むよね?」
「飲みたいが……おいこら、たこわさびまで出して。てかお前は何でそう日本食が好きなんだ」
セツナ。数週間前から、私の家に勝手に上がり込んで居候を決め込んでいた。そのくせ、今朝など途端にいなくなったりして、猫のように神出鬼没だ。
髪はさらさらとしていて、肌は白皙。それでいて体の凹凸も良く、美人といって間違いないのだが、……私はあいにくこの女は嫌いだ。
『あなたを観察したいの。シゲンが知りたいのよ』
それが最初にこの女が言ったことだ。何でも、人の『シゲン』を観察するのが趣味なんだとか。そのために、私の家に住みたいと。
「チャーハン! チャーハン!」
「ない。食材がない。てか、何でお前がメニューを決めるんだ」
「別にいいでしょ。レディーファーストよ。全く、ホントにきみはひどい人ね。材料がないなら、魔法で作ればいいのに」
「できるか。お前といっしょにするな」
魔法。いきなり陳腐な単語が出て申し訳ないが、この女はそれを使うことができる。
魔法使い。
彼女は、機械を使わずに人為的に超常現象を起こせる。例えば、ここがそうだ。玄関から、この居間まで全てに結界が張られ防音が施されていた。
「私がいなかったら、真下の部屋のババアがうるさいわよ。ほら、私がいるとこんなに役立つ」
「……あぁ、そうだな」
私は適当に料理を作り、テーブルに並べた。
彼女は魔法を唱えると、どこからか花を出現させ、花瓶につめて机にかざった。
この女の魔法は本物だ。何度も確かめた。まず最初に目撃したのは、この女を殺したときだ。いきなり部屋に現れたこいつを外国の勢力だと勘違いし射殺。遺体を人気のない山に埋めようと車で移動し、穴を掘っていると背後から声を掛けられた。
「ねー、掘るならもうちょっと大きめがいいな。豪邸のお風呂みたいに」
私は目を見開き、再び銃弾を放った。額が撃ち抜かれ、血がどくどくと流れて脳漿も見えたが――「いったいなー、もう、乙女の額に傷つけるなんて」と立ち上がった。
「………」
その二度だけじゃない。他にも急に私を抱きしめて空を飛んだり、今さっき花を出したようにポンポン物を出したり、私が隠した漫画本や小説を呼び寄せたりと散々だ。どれもこれも、検証はしたが無理だった。常識が立ち入るスキはどこにもない。
「いやー、おいしい焼きそばだこと。男らしい料理に感極まるよ」
「文句を言うなら食うな」
「そういうこと言うかなぁ。私のおかげで助かってること多いと思うよ? こうやってうるさくできるのも私のおかげだし。お風呂だって本当はカビが生えやすいんだよ。私のおかげで気軽に入れると言うのにさ」
随分と、偉そうに言ってくれた。。
「別に、ここに来た時点で日本人らしい暮らしはあきらめている」
「焼きそば食べてるくせに?」
うっ。
「しかも、日本の小説まで買っちゃって。スパイお得意の方法でね。いやーもう、中学生がエロ本をはじめて買うみたいでほほえましいよ。どんなに汚れ仕事をしても心は変わらないんだね」
「貴様っ」
確かに、どれもこれも気恥ずかしいものばかりだ。私はこの仕事でほとんどのことはあきらめたつもりだった。 だが、その割には私はまだ日本文化を捨て切れていない。
「芸術なのね。ホント、ミハイルちゃんは芸術がスキでスキで」
「……別にいいだろ」
「心の拠り所なのかな。ミハイルちゃんにとっては」彼女は身を前に乗り出す。「ねぇ――」、私に顔を近づける。「はじめに言ったよね。ご褒美もあげるって。観察に協力してくれるなら、ご褒美に一回だけ。何でも言うコトをきいてあげるって」
「どうでもいい」
「エッチなことでも?」
「ホントにどうでもいい」
「ホントに? どうやって親友を殺すか悩んでるくせに」
……この女は。一体、どこから情報を入手してくるんだ。
魔法は規格外の技術とはいえ、起きてることに介入しなければ情報は入手できないはずだ。
読心、心を読まれたか。それとも、上司との会話を暗号も解読されて聞かれたか。
考えば考えるほどキリがないな。
「何なら、私があなたの親友を殺してもいいよ?」
「断る。俺の仕事だ」
「強情なんだからぁ」
だが、そのまま下がるつもりはないらしい。ねーねー、話を聞かせてよと裾を引っ張ってきた。「………」この女、私から聞かなくても調べる手段はいくらでもあるだろうに。
私から聞かなきゃ意味がないのか。それがこいつのいう『協力』なのだろうか。
『万物には核となるものが必ずある。人も、思想も、この大地も。それは他の言葉に置き換えてもいい。本質でも、テーマでも、魂でもね。私はね、シゲンが知りたいの。古今東西、あらゆる人のシゲンを知りたい』
最初の時に言ったときの一部分。
「ねーねー」まだうるさい。私は、ため息を付いて仕方ないなと口を開いた。
協力しないとうるさいし、断り続けてもいざとなればこいつはどんな情報も入手できるだろう。本来なら、スパイがしたら絶対に許されない行為だが何事も例外はある。穏便に済ませるには、彼女の要求に応えなきゃいけない場面もあるさ。
9
「まず、条件や目的を明確にしよう。ターゲットは赤井新太郎」
理由は、危険すぎるから。
「最初はそこまで危険視されていなかった。小説を利用して民衆を動かす。確かにそれは変わったことで、珍しくはある。だが、この時点ではまだ常識内の範疇だった」
それが壊れたのは数ヶ月前。奴は、ある独裁国家に宣戦布告した。
たった三つの長編小説――それだけで、奴は民衆を動かし革命を煽動して、独裁者を殺した。
「それから、世界は奴を恐れるようになった。奴は国を動かしたんだ。小国ではあったが、それでも奴がやったことは尋常じゃない。もし、奴が我々に牙を剥いたらどうなるか――と、恐れた者達は奴を殺そうと計画した」
だが、未だに赤井新太郎は生きている。
「何故? どんなに影響力があっても所詮素人でしょ? 私みたいに魔法は使えないし、きみみたいにプロなわけでもないでしょーに」
「さらにいえば、奴の所在地は常にネットで公開されている」
そう、奴は常に所在地をさらしているのだ。そして、その場所には常に彼のファンが集い、警護していた。
「ほとんどは現地で集めた者だ。例えアフリカの奥地でも奴にはファンが集まり、守ろうとする。だが、中には常に彼を警護する者達もいる。そいつらは使徒と呼ばれ、十名で行動している」
「なるほど。で、その使徒は、内側も監視してるんだっけ?」
……だから、何故それを知っているのか。
私はあえてそれを追求せず話を続けた。
「そう、だから外側からの奇襲も難しいが、内側への潜入も難しい。何度か、ファンの中にスパイを紛れ込ませ襲撃しようとしたらしいが、どれも失敗だ」
特殊部隊を結成して、襲撃したこともあるらしい。だが、それも失敗した。ファンの中には一般人じゃない者もいる。特に使徒と呼ばれる奴らは特殊技能や過去に優れた経歴を持つ者がほとんどだ。
「じゃあ、提案2。人がダメなら兵器は? ご丁寧に所在地が分かるならさ、ミサイルでも撃っちゃえばいいじゃない。これだけの影響力ならミサイルも惜しくないよ。まあ、関係ない人はいっぱい死ぬだろうけど、そんなの昔からあることだしね」
……よく平然と言えるな。
「却下。ミサイルを撃つ奴も人だ。そして、その中にはファンがいる可能性がある」
その言葉に、セツナは目を点にさせた。
「――ちょ、えっ」最初は慌てふためいたが、すぐにどういうことか理解したようだ。「つまり、そういうこと?」
「そうだ。昔、エイリアンが人の姿に化けて地球を侵略する小説があったな。それと似たようなケースだ。多分、今の考えは世界中のお偉いさんが考えたことがあるよ。……だがな、未だに赤井新太郎は生きている。ということはだ、実行できない理由があるんだ。誰が味方か敵か分からないだとかな」
下手したら、赤井新太郎を殺すために会議して――その中にファンがいるかもしれない。
もし自分らが攻撃したと知られたらどうなるか。
スパイや特殊部隊を送り込ませた奴が、その後どうなったかは語りたくもない。
「んー、もうそれ無敵じゃない。じゃあ、提案3。きみが昼間させたようにさ、どこかの勢力に襲わせれば?」
「却下。その方法も無理だ。そもそも、奴に関わろうとする団体はない」
なるほど、とセツナは納得した。触らぬ神に祟りなし、だ。
このように、所在地を常にオープンにし、戦ったことがないはずの素人が何故これまで生き残ってるのか。その理由がこれらだ。奴は、小説を武器にすると同時に小説を盾にした。
「だが、これでもまだ方法はある」
「――へ?」
本気で驚いた顔をした。どうやら、心を読んではいないらしい。
私が言ったことは嘘ではない。本当に、まだ方法がある。一見、全ての選択がダメだと思われるだろうが。たった一つだけある――使いたくはないが。
「………」できることなら、使いたくはない最悪の一手だ。
「へえ、まだ方法があるんだ」
と、懐かしい声がした。
私は、その声にとまどい、おそるおそる顔を上げた。
――赤井新太郎、バスタオルで髪をふきながら現れた。シャツとスウェットという簡素な格好で、まるで、風呂上がりのようだ。
「あっ、そうだ。こいつ、風呂に入れてたんだ。何か、遊びに来たいって言うから連れてきたら、風呂入ってないって言うんだよ。汚いでしょ? だから洗えって言ったの」
と、セツナが説明した。
「………」
「どうしたの、頭なんて抱えて。うわっ、睨まないでよ。まるで、好機ではあるけど急展開すぎてどうすればいいんだって八つ当たりの目みたいな」
八つ当たりではなく、正当な行為だ。
この女、あれだけ散々赤井をどうするかをしゃべらせておいて、部屋に連れ込んでいたのか。てか、交遊があったのか?
「――っ」見ると、赤井はどうしたのと首を傾げている。
どうやら、奴はおかしなことをしてる自覚はないらしい。相変わらずの天然だ。自分が国際指名手配だってことも気付いてないのか?
そして、私が何をしてるかも知らないのか?
……セツナとはどういう関係だ。おもしろいモノ好きな奴のことだ、関わっていてもおかしくはない。魔法もあるから行き来も自由だろう。
「………」多分、これまでの犯行に協力はしていない。セツナはありのままの人間性に興味を持ち、観察する。いつも「私に魔法を頼めばいいのに」と言ってはいるが、それを本当に望んでるかは怪しい。
「あっ、そうだ。しんちゃん、おひさー。何年ぶりかな、卒業してから全く会わなくなってさ。寂しかったよ」
赤井は平然と向かい側の椅子、セツナの隣りに座った。
私は、無言のままだ。
「どうしたの? 仕事で何か嫌なことでもあった?」
「あっ、きみの仕事はすでに話してあるからね。心配しなくていいよ」と、セツナの余計な補足。……殺してやろうか、このアマ。
くそっ、今まで忘れていたが、そうか、こいつは味方じゃないんだな。ともかく、観察ができればいいんだ。だから、いくら世界か危機的状況になっても、この場をどうにかしようとは思わない。私と赤井、二人がどういうことを起こすか興味津々でたまらないのだ。
「………」いいさ、それなら馬鹿女の余興に乗ってやろうじゃないか。「赤井、何故お前はあんなことをしているんだ?」
首を傾げる。
「あんなこと?」
こいつ、何を聞いてるんだろうという顔で赤井は聞き返した。
「お前、まさか全く自覚がないのか?」
「自覚?」
「お前がやってることだよ! 人々を煽動して、暴動を起こしてるだろ!」
そして、極悪人を殺している。そのことを、こいつは何とも思わないのか。
「え、それがどうしたの」
赤井は逆に問い返した。
「そんな変なことかな」
全く、異常だと気付いていない。
「だってさ。みんなが望んでたことだろ?」
私は、背筋が凍る。
だが、なるべく表情に出さないように努めた。
「……お前っ」
「僕もさ、あいつらブッ殺したくてしょうがなかったんだよ」赤井は語る。「差別し、憎しみをぶつける奴ら。そして、それを非難しておきながらやってることは同じ、敵にブッ殺せと唱える平和主義者。みんなさ、ブッ殺せばいいじゃない」
赤井は、無垢な瞳で言った。
「……それは、本気で言ってるのか?」
「当たり前じゃん。だって、その方がおもしろいだろ。僕もここまで上手くいくとは思わなかった。ほら、この前、独裁者が死んだろ? 僕の小説で革命が起きて、経済封鎖されて、自滅したんだぜ。おもしろくない?」赤井は続けた。「これまでは芸術は無力だとされてきた。そうだよな、歴史が証明している。芸術は確かに人の心に残る。でもさ、軍事や政治に対していつも無力だったんだよ。千利休は豊臣を前にしても己が美しいと思うものを貫こうとした。だが、結局は殺された。ベートーベンはナポレオンのために曲を作ったが、結局は他の奴らのようにナポレオンに失望した。他にもいるさ。チャップリンはヒトラーに屈しなかったが止められたわけじゃない。ハリウッド映画界はアカ狩りに立ち向かえなかった」だが、今は違う。「何が本当で、何が正しいか分からない時代だからこそ、芸術は評価される。そういう力があるんだよ本当は。まるで爆弾のようさ。現実のめんどうごとを丸ごと吹っ飛ばしてくれる神の力――僕はさ、それをもっと現実に使えないかなと思ったんだ」
それこそ、AKライフルのように革命の道具に使えないか、と。
違う……芸術は弱者のためにあると誰かが言った。だがそれは、弱者が武器として使うために言ったのではない。芸術とは、美しいとは、金で買えるものじゃなく誰もが持つ感情だから、誰に対しても平等なんだ。弱くても、貧しくても、誰の心にも届く。だから、弱者にもとどく。味方してくれる――
「しんちゃんもさ。大学時代はつまらかったよね? タカ派は差別していい気になってた。平和主義者も似たようなものさ。タカ派を差別して暴力を使った。さらにいえば、奴らはいつも正論を言うくせにさ。国の今後とかそこまでは考えないんだよ。皮肉だよな。タカ派は荒っぽい道でも未来を考えるのに、平和主義者は未来を考えず過去や今を指摘するんだ。なあ、しんちゃん」
こんな世界なんて、つまらないだろ?
赤井は言った。
「お前は……」私は、こんなことを言う赤井に改めて聞きたかった。「お前は、どうして小説を書いたんだ?」
どうして、小説家になりたいと思ったんだ、と。
「……ん?」
赤井は急に目が点になり、しばし頭を抱え考えたあと。
「何となく、かな。あんまり理由はないよ」
「………」
ジョージ・マロリーという登山家の話で、有名なのがある。
あなたは、何故山に登るのですかと聞かれた話だ。日本では、それの答えは「そこに山があるから」だとされている。
「……何故」
理由がないんだ。そうだ。分かっていた。こいつは、何故あんなことをしでかした。
理由なんてない。できるから、やった。できそうだから、やった。ちょっと楽しかったし。そんなものだろう。こいつは――こいつらは、いつもそうだ。
「だって、楽しいじゃないか」
赤井は満面の笑みで言った。
ああ、そうだ。こいつには自覚がない。自分が何をしたのか。どれほどすごいことをしたのかは知っていても、危険性は分かっちゃいない。
どんな罪を犯したのかも。
「お前は――お前は、後悔してないのか」
「何でだよ。だって、あれだけおもしろいことをしたのに」
「そうじゃない! お前は……お前は」BASARAを汚したんだぞ。
こいつは、自分自身で小説を……あの傑作を汚したんだ。
「……BASARAは、人を殺さないんだろ?」
BASARAは人の命を守るために戦った。それは、悪行を犯した人間も含まれていた。BASARAは、人の命は死ぬ瞬間こそ意味があると考えていた。だからこそ、人の死は殺しではなく、一生懸命に生きて死ななければならない。BASARAは、だから悪人も殺さなかったんだ。
「あれは小説の中じゃん。てか、変なことかな。ネットに公開したのもBASARAは人を殺してないぜ」
ブッ殺せとはいうが、実際には殺さない。全力で殴るだけだ。
だが現実では暴動が起きて犯罪者が死んだ。
それが何度も行われた。
何度もやれば人が死ぬって分かるだろ。いくら小説の中でやってなくても、これじゃ人殺しじゃないか。
BASARAが殺したのと変わらないじゃないか。
「んな、現実といっしょにすんなよ。極悪人にしたって死んだ方が世のためなんだよ。そんなの、分かってたことじゃないか」
……あぁ、分かってたさ……。
私は懐からペンを取り出した。
空気を圧縮して撃ち出す暗殺用の武器。
赤井はまだ、疑っていない。私が、殺そうとしてるなんて思ってもいないのだろう。
撃った。
赤井の肩を貫き、血が飛び散る。防音の部屋に鳴りひびいた空気銃。
「いてええええええええええええええええええっ!」赤井ははじめて撃たれて泣き叫び、椅子から転げ落ちた。赤ん坊のように暴れて、私を非難の目で見ている。
「何だよ……何でこんなことするんだよ。僕、怒らせるようなこと言った? お前だってこんな世界つまらないだろ。何で……これからもっとおもしろいことが待ってるのに。秘策がさ……くそっ、何で撃つんだよ」
「本当に分からないのか?」
赤井の目は痛みと恐怖で涙し、ふるえていた。
私はペンを赤井に向ける。
「………」
頭を狙えばよかった。いや、頭じゃなくてもいい。こんな好機、二度と起きない。この距離なら、狙おうとすれば心臓だって確実に当てられる。
「――あぁっ」
それなのに、さっき私は外した。今も撃てない。
「セツナ!」赤井が叫んだ。「とっておいたお願い今使うよ! 僕を、あのアジトにもどしてくれ!」
すると、一瞬で赤井の姿が消えた。
私は、ゆっくりとセツナに顔を向ける。
「恨むなよ? あいつにも言ってあったんだ」私と同じことをか。
たった一度だけ、願い事を叶えると。
手に握られているペンを乱暴に投げ捨て、机を蹴り、テーブルの焼きそばもぶちまける。
「……これで、あいつは殺しにくくなった。多分、警護はより厳重になったな」
セツナは、それらを見ても淡々としていた。
「あぁ……」
俺は、逆に重苦しい言葉を吐いていた。
「さらにいえば、赤井はお前を殺すこともできる。居場所も経歴も知ってる」
「分かってるさ」
ああ、最大のチャンスを逃したんだ。だから、自分でももうどうすればいいか分かっている。分かっているんだ。
「それでも、まだ手はあるのか?」
「あぁ……」
「絶対に使いたくなかった手か」
「………」
私は自分の頬を思いっきり殴りつけると、――少し、気分が落ち着いた。
洗面台に移動する。
「……何してんの、きみ」
「手を洗うんだ」
蛇口から大量の水が流れる。私は、必死で洗い落とそうとする。
「それじゃ何も洗えないぞ」
セツナの言葉を無視して、私は手を洗う。
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