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四章。人間、立てた計画通りとはいかないものである。

四章。人間、立てた計画通りとはいかないものである。


○望○

 誰が何の競技に出るか決めてLHRが終わり、皆が部活や家へ足を向け始める。

「晩御飯、何にしようか?」

 美怜は会話をこちらに促しながらも提出用の指定用紙に決まったことを書き込んでいく。美怜の机に椅子を寄せた僕はそんな彼女の手元を眺めているだけだ。

 ペン習字でも習うべきかと、美怜の綺麗な文字を見て真剣に考える。僕は文字が汚い。

「朝、トレーニング途中に頼み込んで買わせて貰ったイサザが玄関に生きたままおいてある。踊り食いもいいし、お吸い物も捨てがたい、初体験ゾーンは悩むね? ところで、クラスの皆とは話せるようになったかい?」

 そんなことを言いつつ、書類の不備を確認していく。まぁ、そんなもの無いとは思うが、自分の仕事が無いので仕方なくだ。

「まだ自分からは話せないし、驚くことはまだあるけど、自分を殺すような真似はしてないよ。そしたら皆、聞いてくれるようになって、うん――楽しいよ」

 美怜が心底楽しそうに微笑む。

「でも、ホントに望、人気者だね? 皆、一様に望のことを聞いてくるよ? 一緒に寝たりしてくれる話をすると女子の皆が沸き立つのはどうしてなんだろ?」

 それは、勘違いさせる部分があるからだと言うのも無粋な気がする。

「仲が良いのが羨ましいのだよ、皆」

 照れたように白い頬を真っ赤にさせる美怜。そんな彼女を可愛いと思うのは兎を想像させるからだろう。うん。

「望君、お暇ですの?」

 透き通るような美声が、左横から掛けられた。ゆっくりと僕は視線を向けると、

「鳳凰寺さん、こんにちは」

 予想通りのゲジ眉。何処となくそのゲジ眉に力が戻っている気がする。彼女への気持ち悪さは消えたが、どう反応していいか判らず気まずい。立ち位置を決めていない相手とのコミュニケーション程、難しいことは無い。許したのだから、勝者と敗者では無いし、そもそもにもう敵ではない。どうしたものかと悩む。

「さっき、女子の皆と会話を楽しそうにしてたから、もう大丈夫だよね? 私はあんな風に話題をポンポン見つけられないから羨ましいよ。聞き手に周るだけだもん」

「ぇえ、おかげ様で――ありがとうございました」

 美怜に向かって鳳凰寺君は腰を深く曲げる。

「いえいえ、こちらこそありがとうだよ」

 対して美怜も椅子に座りながらだが、腰を深く曲げる。

 彼女は何に対して礼を言われたのか判らないのだろう。キョトンとする。僕でさえ未だに美怜の彼女に対する態度は理解しきれず、少し戸惑うのだから仕方ないだろう。

「望は暇そうにしてるから持って行っていいよ?」

「――は?」

 美怜に突然言われ、僕の思考が止まった。

「望に暇と聞いたんだよ? だから、望に用事があるということと何処か別の場所で話をしたいという暗喩、そういうことだよね? 鳳凰寺さん」

「美怜、それは判ってるさ。けど、僕の意思は――」

 美怜が左手の人差し指で僕の唇を封じてきた。

「無視だよ、無視。望も相手に行動を促すだけじゃ駄目だよ。ちゃんとお話しないと気持ちは伝え合えないよ。私たちの喧嘩みたいにね? 準備した言葉じゃ、響かないよ?」

 そして真剣な眼差しで僕を諭す様に言ってくる。

「誰が、こんなマイ・シスターにした! 僕は絶望した!」

「望だよ。の・ぞ・む――私はもう少しかかるから気にしなくていいよ鳳凰寺さん」

「では遠慮なく、お借りいたしますね?」

 そう言うと鳳凰寺君は僕の手を取る。少しその手が硬く感じられた。

 ――緊張しているのか? と疑問を覚えるが、想像の域を出ない。

 美怜に助けてくれと視線を送るが、彼女は楽しそうに手を振るだけだった。

 諦めてついていくと、立ち入り禁止の文字を無視し屋上の扉の向こうへと。

「――素晴らしいな、これは」

 立ち入り禁止の文字が気にならなくなるほどの空がそこには広がっていた。薄っすらと赤みが沈んでいく青紫の空は美怜の瞳を思い出させる。

 西舞鶴の山間にあるこの学校から、海も、山も、峠の向こう東舞鶴の街並みまで見える。それは舞鶴市を掌握したかのような錯覚さえ覚えさせる。

「なるほど、ここはこの前までの君だ」

 それを聞いた鳳凰寺君は嬉しそうにしながら、僕の手を離れ、中央へ。

「ふふ、でも、ここに来るようになったのは――いえ、私がこの場所に気づいたのは皆から無視されるのが怖くて居場所を探した結果ですわ」

 そしてパタンと後ろに彼女は寝そべる。掃除がされていないため、彼女は汚れるが気にした様子は無い。今までの彼女からは考えられない素振りに、面白いなと思う。

「初めて来た時、家族以外は何でも持っていた自分に重なった――舞鶴での影響力はその典型ですわ。最初はここが大嫌いでした。ふうが過去の栄光に縋っているように見え、また舞鶴という場所に縛られている自分の境遇にも重なって。でも気付くとここに来ていて――ふとある時、横になると空が見えました」

 そして寝転んだまま鳳凰寺君は空を見つめ、右手を開いて上へ掲げた。

「地表と空は対、そう感じました。そしたらここが好きになりましたの」

「自分を見つめるきっかけになったということかね?」

 鳳凰寺君は顔だけをこちらに向け、その通りだと嬉しそうにゲジ眉と眼を弓にする。

「貴方は何者?」

 不意に真顔で問われた。

「君の言葉を借りれば、魔法使いさ。但し、シンデレラは美怜さ。君ではない」

 正体を明かす訳にはいかない。いつぞやのように胸元からペンを取り出し、振る。

 鳳凰寺君もその時と同じように面白そうに笑む。

「君にとっては僕は……そうだね、舞鶴の伝承で例えれば妙法寺の鬼子母神、彼女から大切な子供を隠したお釈迦様という所だろう。他所でも言われる通り、それでおおいに動揺した彼女は、彼女は他人の子供を食べたことを悔やみ、改心した。そして今では守り神様さ――君がそうなるかは、これからの君の働きと周りからの評価次第だが」

 自虐を含めておく。美怜が居なければ最期まで鳳凰寺君を潰していた。そして彼女が居ない高校以前の僕は容赦なぞ無かった。言うなれば復讐鬼であり、お釈迦様とは程遠い。

「お釈迦様――ふふ、言われれば確かにそうですわね。ふうに返して下さいましたもんね? 貴方が奪った私の学校での地位は」

「判ってくれたのなら、僕は君の行為をお釈迦様のように君を許すさ――さて、そろそろシンデレラの元に戻らねばな」

 僕は彼女に背を向け、立ち去ろうとする。

「でも、まだ返してもらってないものがありますわ」

 返していない物……それは一番という地位と彼女のプライドと答えが浮かんだが遅い。

 振り向くと同時に僕に突進してきた鳳凰寺君が見えた。足を引っ掛けられ、僕は地面に押し倒され、受身を取る。頭へのダメージは回避したが完全に不意を突かれた僕の上に乗られ、押さえ付けられる。

 不味い。僕は中国拳法をある程度修めている。しかし、そんな僕の反応を利用した上で鳳凰寺君は日本古武術系の動きで足を引っ掛けてきた。起き上がりの気配を感じさせないことからも推測するに相応な使い手だ。彼女が小牧君程では無いにしても、熟練者同士の戦いでこの体勢は相当な不利だ。

「つ・か・ま・え・ま・し・た・わ・♪」

 彼女は心底、嬉しそうにゲジ眉を上機嫌に曲げ、僕の頬をヒンヤリとした手で撫でる。

「――今、触れて、確信致しました。やっぱり盗られていたんですね」

 彼女の頬が興奮のあまり上気し、赤く染まる。そしてうちから感情を堪えられなくなった様に笑い出す。

 くすくすくすくすくすくすくす。

 僕を見て、上品かつ、不気味に笑う。僕は今まで受けた事の無い感情を向けられ、戸惑うことしか出来ない。狂ったのではないかと、恐怖を感じた。

 怒りの暴発ならいい、それならどうにでも洗脳出来る。しかし狂人には扇動はおろか、洗脳も利かない。ある種の心を閉ざした状態で、外から干渉しようがないからだ。一番の武器が失われた状態に等しい。不味い。想定外だ。頭が動かない。体も動かない。

「さて、どういたしましょうか――このまま、襲ってしまうのも手なのですが」

 舌ナメズリ。ペー太ラビット君を組み伏せ、今にも捕食せんとすポントライオンちゃんが鳳凰寺君だ。哀れなペー太ラビット君な僕が食べられる未来が見える。

「鳳凰寺君」

 一か八か。どんな状況でも応答の可能性が高い言葉、名前を呼ぶ。

「ふう、とお呼び下さいませ」

 応答がされた瞬間、僕の心が軽くなった。彼女に干渉する取っ掛かりが出来たからだ。

 同時に彼女が名前の呼び方を求めたことに疑問を覚えるが、気にしている余裕はない。

「ふう君――君は僕にとって魅力的な少女だ」

 ピタッという擬音が聞えそうなほど、ふう君の動きが完全停止した。

 狙い通りだ。敵である僕から賛辞を言われるとは絶対に予想外の筈だからだ。そして褒めるということはいつだって武器だ。

「夕日を吸い込んだ金髪はそれこそライオンを思わせる程、凛々しい。今は潤いを失っているミルクチョコレートの肌も皆を魅了し直すだろう。それに乗ったさくらんぼの様な唇は男なら誰もが欲しがる様になる。しかし、そんな表面上のことはどうでもいい」

 そんな有り触れた言葉は彼女の気分を好くする事は出来ても、心に響くはずは無い。だから、要らないと切り捨てることで、相手の集中を集める道具にする。

「君は僕に似ている――これは推測だが、周りに認められたがっているのは、家族に認められる代わりとして欲していたのではないかね? それなら僕も判る。だから、僕は君に同属の念を感じている。そして、それが好ましい――理解しあえると思った」

 声の調子が悪かった。たどたどしくて、説得力をもたせられたかも怪しいと後悔するが

賽は振られてしまった。

 前に使った文面と効果は同じで共通点を指摘し共感をさせやすくさせた上で、僕が鳳凰寺君の理解者で在れると示唆することで彼女の心を開かせるのが狙いだ。しかし、更に踏み込んだ形のもので、鳳凰寺君の事情を決め付けにかかっている。

 これは賭けだ。もし、僕の予想が外れれば彼女の反感を得た際には今ここで僕は手の打ち様が無くなる可能性もある。例えば激昂し殴りかかられるとか。そしたら捕食ENDだ。

「どうだい?」

 コミュニケーション、そして結果を聞こうと問うた。否定でも何でも会話さえ成り立てば、僕の武器は有効だ。

「――その通りですわ。私は家族を振り切るために周りに認めて欲しかった」

 僕の頬に水滴が垂れて来た。

「ふう君?」

 涙だった。髪の毛と同じ金色の眼から、ふう君は僕を濡らし始めた。

「望君――あなたは何で私をこんなに苦しめるんですか? 苦しい、本当に苦しいんです」

 それは感情の動きだ。

「それはすまないと思っている。僕は手を抜けない性質でね?」

 だから、ここは追撃だ。今までのことを謝罪し、相手の気勢を更に削ぎに行く。

「今までに無い屈辱で怒って、家族との関係が妬ましくて壊そうとして――負けてしまって苦しさを刻まれて――更に貴方はふうに違う苦しみも与えてくる、憎い、憎いですわ」

 違和感。今の苦しみとは何だ? 僕は今まで彼女の行動は貶め過ぎたことから来る狂乱だと予想していた。しかし、違うのか?

「返してください、私の心を――貴方に奪われた心を――」

 ふう君は涙を指で飛ばし、僕に微笑みかけてきた。

「鳳凰寺・ふうは貴方、九条・望君が好きです」

 ――へ。何を言われたんだ? 否、どうすればいいんだ?

 老若男女問わず人と相対する経験値は高いと自負する。しかし、性差を扇動、洗脳の指標としてしか認識してこなかった弊害なのが判る。そして僕はそれらの経験上、女のつく嘘もだいたい把握できる。

 だから、嘘の無い彼女からの好意を向けられてどう反応すれば正解かが判らない。

「本当にずるい、どうして私の心をここまで奪うんですか? ふうを好ましく見てくれて、理解してくれて、更にそれに手を抜けないと――舞鶴の鬼子母神にしても、彼女はお釈迦様の妻になったという伝承がありますし」

 ここの伝承が創作派生系なのは知らなかったと冷静に考える。しかし、大きな問題、今彼女に好意を向けられること自体が理解できない。彼女にとって僕は怨敵なだけの筈だ。だから、僕は戸惑う以外の反応を知らない。

「――信じていただけませんか? ぇい」

 ふう君は僕の右手を取ると自身の右胸に。制服のブレザーの上からほのかな柔らかさと速い息遣いが直接伝わってくる。パッドはつけて無かった。

 そのドキドキが伝染してきたのか、更に僕の思考が混沌に落ちていく。美怜のは手に持ったことが無いが何というか、西瓜のような大きさだったが、ふう君のはすっぽり手に収まる感じだね? うん。何を考えているんだ、僕は。餅付きウサギが一匹、二匹――それ違うよな、僕? 落ち着けよ?

「ふう君は今、虐めにあったことで精神的に弱くなっているだけだ。それにつけこんで優しい言葉を掛けている様に見える僕は、君を貶めた張本人だ。穴に嵌まった君は極限状態に陥り、穴を掘った奴に縄を投げ込まれて、優しい言葉を掛けられて惚れる――要するにマッチポンプだ。僕は君に安易な同情に釣られるような女じゃない、そう確認したね?」

 僕は落ち着こうと現状を言葉にするが、自業自得な気がしてきて、今この状況を作った自分を呪いたくなる。過程を見れば洗脳に近いことをしている。

「確かに蹂躙され、完敗させられ、それこそズタボロにされて、勝てないだろと言われ助けられた時――あぁ、勝てないな。そう思えましたわ」

「だから君の勘違いだし、それに僕に擦り寄って立場を回復させたいだけにしか見えない」

「――ふうはそこまで安い女じゃありません」

 割り込もうとするが、強い意思を含んだ否定でターンを継続される。

「美怜さんに望君のことが好きなのか聞かれた時はそんな馬鹿なと。近親憎悪は有りましたが、恋愛感情では決してありませんでしたし。でも、言われ、だんだん貴方のことを考える機会が増え、気づけば目線で追っており、貴方の言葉を反芻し噛み締めていました」

 言われ、間違いなく美怜が原因なのを理解する。

「一人、寂しかった。そんな中、貴方の事を考えるとトクントクンと胸が跳ねたんです。手が冷たく、背筋がぞわぞわとして。ふうは話し掛けられないのが切なくなって――貴方に話し掛けられた時、とても嬉しかった――あぁ、恋してるんだと」

 そう美怜はふう君の僕に対する好感度を上昇傾向に振れさせようにしている。それが僕の作った彼女の孤独な状況で相乗効果を発揮してしまっている。

「今も、聞こえますよね? 私の心がこんなに跳ねているんです」

 こちらの手を捕まえたまま、ふう君は上半身を僕の上半身に重ねてくる。

 頭が痛くなってきた。追い込まれた状況による思い込みや洗脳だけなら解く事も出来なくはない。事実を突き詰めればいい。しかし、彼女は自身にされたことを理解した上で、僕に言い寄ってきている。

「それも勘違いだ。周りに無視される中で考えることが憎い僕しかいなかっただけだ」

「そうかもしれませんね、愛と憎悪は近しいから愛憎ですし。ただそれは事実ですが、私の心は帰ってきません――ふうでは足りませんか?」

 僕の理論付けを認めつつも、それがどうしたと猫科を思わせる金色の眼が上目遣いを絡めて、にじり寄って来る。

「僕は君に同属意識はあっても、恋愛感情は無い」

 明確な拒否で相手の意思を挫く。そうすれば、相手の気持ちはなんであれ萎む筈だ。

「私のどこが好みではありませんの? 直しますわ、全部! 言って下さいませ!」

 だが、旨く噛み合わない。使命感で心の動きが方向固定されてこっちの言葉に影響されてくれない。そもそもに何をいっても無駄な気がしてきた。逃げれば追われる、受け止めればそのまま突っ走られる。

「いけないという訳ではないのだが」

 身近な女性と言えば美怜だ。だから美怜を基準にふう君の女性的欠点を考えると、今右手にある慎ましいふくらみのことと背が高いぐらいだ。後は似ているか、比べても無意味か、勝っている。虐めから復帰し、成長を始めているという境遇すらも似ている。

「胸がおきになされるのでしたら――頑張ります。背が気になられるなら削ります。褐色肌がお気になされるならメラニン抜きます! 性格も頑張ります!」

 彼女も僕と同じことを思いついたらしい。やるな! じゃなくて、頭が錯乱してきた。何か言ったら最期、ふう君は使命感を得て、何でもやりかねない。

 そうだ、その美怜を理由にして拒絶すればいい。

「君も僕の好みとして想像しただろう? その通りだ、僕は美怜が好きなんだよ! 一人の女性としてね! シスコンだね、全く」

 驚くぐらいすんなり出てきた言葉に、さぁ、軽蔑したまえ。そして眼を覚ましたまえ。

「家族同士はいけませんの。私が正道に戻してさしあげませんと」

 ――どうすればいいのかね、僕は?

 常識から外れたことを修正するという使命感を与えてしまったようだ。相手の意思を更に固めてしまった。美怜との関係の裏話をするわけにもいかない。

 ことごとく裏目。

 だったら、逆に考えるんだ――昔の人は言いました、押してだめなら引いてみろ。何を焦っているんだ! 落ち着け、望! カルム・ダウン!

「ふう君」

 貶すとそれを直すこと自体に使命感を持つだろう、だったら逆に褒める。

「僕は君がとても魅力的なことは知っている。確かに女性としての可愛らしさは美怜に負けるかもしれないが、美人度なら負けない。水戸の調べた学内人気でもそうだった。だから、どこも直す必要はない――ただ、とりあえず先ず落ち着いてくれ、深呼吸して! すぅ、はぁ、すぅ、はぁ」

 左手で彼女の頬を持ち、外的刺激も与えることで僕の言うことに耳を傾かせる。そして僕も深呼吸をし、相手にも促しやすくする。

「落ち着いたか?」

 自分も深呼吸で落ち着きを取り戻すことに成功する。

 しかし、内面が落ち着いたために外からの刺激をより認識できるようになり、ふう君の柔らかい女の子の感触が僕の体全体から染み渡ってくる。

「はい、落ち着きました――お顔が近くて照れてしまいそうですの」

 言われ、ミルクチョコレートの頬が朱に染まるのに気づき――可愛……ハッ! 相手にペースを今度握られたら押し切られる予感がする。純粋な好意への耐性も経験値が無さ過ぎる。ふう君も魅力的だ。不味いね、うん。

 それでも、誰かに主導権を握られるのはプライドが許さない。そう心を確かにし、ふう君ごと上半身を置き上げる。そしてふう君の体を掴み、距離を少し置く。

 それはあっさりなされ、ふう君の体温を引き剥がすことに成功し、お互いに座して対面する。背の割りに軽いし、残念そうな顔のふう君は健気にも見えて何だか変な気分だが、今はそれ所じゃない。落ち着け、自分。テゥー・ビー・クール。

 気持ち悪いと感じていたときの関係性のほうが厄介には思わなかっただろう。経験が有る分、対抗策はいくらでも練れたからだ。

「――まぁ、いい。とりあえず、一日置いてくれ、早とちりは良くない。そして落ち着いたら考え直してくれ。君の好意は相手に合わせるだけで相手に受け入れて貰うことを前提としていない。愛という文字が心を受けるとあるのにだ。これは何か違う。そうだね? 愛は対等、または対称で無ければいけない。そしてそれでもというのなら、勝負だ」

 今、僕は問題を先送りにするという大人の対応を学んでいる気がする。とりあえず、本で得た知識を継ぎ接ぎにし、そして自分の言葉にしていく。

「勝負――ですの?」

「そうだ、勝負だ。君は僕に負け続けている。だから、それを一回のチャンスで挽回してあげようというのさ。僕に対等や対称な存在になるのなら、少なくとも僕に一回勝たなければならない。違うかい? ならこうすればいい、僕を振り向かせるように努力をしてくれ。そして僕を振り向かせたらふう君の勝ちだ。物理的な意味ではないぞ? 君自身は魅力的だ。ただ、僕は絶対に負けない」

 必死だ。相手に疑問やターンを持たせてはいけないと勢いだけで畳み掛けた。

「なるほどですわ――要はどんな手段を使ってもいいから振り向かせればいいと?」

「僕以外に迷惑になる悪いことはしないでくれ、そしたら僕は今度こそ君を潰す」

 ふう君は立ち上がり、拳をギュッと握る。そして、僕を見て微笑み、そして右人指し指で僕を指差してくる。 

「――お受けしましょう――けれども、その前に」

 頭を両手で抑えられ、ふう君のゲジ眉が近づいてくる。予想外の行動で怖い。

 ――僕の額に柔らかいものが軽く押し付けられた。彼女の吐息と共にそれは離れる。

「ふふふ、御機嫌よう」

 そして嬉しそうにふう君は去っていった。

「――でこキス?」

 僕は力尽きるように上向きに転がった。赤い空はいつの間にか、黒くなり、夜の始まりを舞鶴に告げていた。

「どうしたら良かったんだ? 教えてくれ」

 けれども空は僕に何も告げてくれない。


○美怜○

 望がオカシイ。

――突然、高笑いを始める。何かをぶつぶつと考え始める。あんなに楽しみにしていたイサザも反応が薄い。私が話しかけても反応しない。それは帰宅中もそうだった。例えば、路面電車の中でいきなり懸垂を始める。それを一番後ろの席――何処かで見たことのあるサングラスを掛けたご年配の方が楽しそうに見ていた。

 いつもオカシイのは確かだ。しかし、学校外でオカシイのはオカシイ。彼は少なくとも彼が外と決めた世界ではスイッチが入ったようにTPОを弁える。昨日、鳳凰寺さんから呼び出されてから何かがオカシイ。意味のあることをオカシイで演出している道化が望の日常なら、今はオカシイだけの三流役者だ。オカシイ。

 そして今それが確定的となった。朝の五時十五分に目覚ましのベルがなり、私が覚醒するといつもなら既に無い望の手がまだ繋がれていたからだ。

「――えぃ」

 望の頬を抓る。張りのよいプニっとした感触がして癖になりそうだ。

「そういえば、望が寝てるのを見るのは初めてだよね」

 そろそろ一ヶ月経つのに、っと思う。私が寝るまで起きてくれているから仕方ないかもしれない。ありがたいことだ。これもあって悪いことはするが悪い人では無い彼の印象が私にとって確信に変わってきている。悪いことをしなくちゃいけなかったのかもしれない。

「だから、周りに強制されたと」

 なるほど。本人はそう自覚して無くても、言葉には出ているものなのだな、っと思う。

 ――さて、この状況、どうしようかな?

 いたずら心が芽生える。いつも私を楽しんでいる望を自由に出来るチャンスだ。

 唯莉さんがハチャッケタ行動で関係を演出しようとしていたことをふと思い出す。セクハラ行為なんてどうだろうか?

「流石に裸のひん剥くのは駄目だよね?」

 私は望の裸を見ても大丈夫だけどオカシイ状態にオカシイ状況で追い討ちを掛けるとそのまま外に飛び出しそうな懸念がある。頭がいい人ほど、壊れたときに何をしでかすか判らないと世の中のニュースは伝えている。私は望が犯罪者になったらやっぱりやると思いましたと素直に述べる気がしないでもない。恐らく罪状は詐欺か、国家動乱罪あたりだろう。テロリストを扇動しててもおかしくないと思う。

「いつもしてもらってないことしてみようかな?」

 ハグは寂しいときにやってもらってる。ナデナデもだ。考えると割と家族の親密さを表すイベントはしてもらっている気がする。最初はベッドで一緒に寝るのにも抵抗感を示していたのにね。

「家族的な親愛の行為――日本は少ないよね」

 だったら海外だ。欧米だ。思い浮かぶのはベーゼ、キス。

 望の唇を見る。吐息が時計で測ったように刻まれている。何だか照れてしまう。

 しかし、キスには興味がある。今までしたことが無い。ファーストキスだ。

 そもそもにその照れはどこから来ている? 日本での常識なだけだ。日本の常識、世界の非常識。だったら、日本でも別に拘る必要は余りない。犯罪ではないし、悪でもない。周りから外れることへの怖さは否定するモノだと望は教えてくれた。

「んー、問題ないんじゃないかな?」

 そう結論付ける。だったら行動あるのみだ。

「頂きます」

 押し付ける。さて、押し付けたはいいんだけど、どうすれば良かったんだっけ? 舐めるんだっけ? くっつけたままぺろっと、上唇を舐める。ほんのりと甘ずっぱかった。満足し、離れる。

 丁度その時、望の目がゆっくりと開き始める。眼が合った。

「おはようだよ、望」

「おはよ――っ!」

 何かに怯えるように慌てて掛け布団を頭まで被る望。

「うぅぅぅ、どんな夢だ。僕は何か悪いことをしたのか? どう反応していいか判らない! 女の子が怖い! いてっ」

 そして望は掛け布団を巻き寿司状態で包まり、転がり、ベッドから落ちた。

「頭大丈夫?」

「それナチュラルにかわいそうな人扱いされてないかね? さておき、少し夢を見ていてね。ちょっとそれが予想外のことがおきすぎてオーバーフローしてしまったのさ。うむ、頭冷やすのはありかもしれんね? ちょっと走ってくるさ」

 言うや否や望は窓から巻き寿司のまま飛び降りた。ここは二階だ。やっぱりオカシイ。


「――うん、いつも通り、美怜の作ってくれる弁当は美味しいな!」

「えへへ」

 嬉しい。いつも早起きをしている甲斐があるというものだ。今日のお昼の弁当は山で望が取った(地主さんの了解は得ているとのこと)たけのこを使ったご飯、ハンバーグ、レタス、プチトマト、マカロニサラダ、そして甘い卵焼きだ。

「ただ、今度の卵焼きは醤油がいいかな?」

 最近気付いた事だが、双子だというのに私と望の食欲に対する好みが対立することが多い。キノコを買おうとしたらタケノコに摩り替わっており、だしは昆布だと言うとカツオと言われ、コーラを買ってこようとするとルートビアを頼まれる。

 私が関西北部育ちで、望が関東育ちなのが大きいのかもしれない。

 それでも望は意見は言うものの、文句は出さない。美味しいものは美味しいと、直すべきところも素直に言ってくれるので自分の料理のレベルが上がっていくのが楽しい。

「水戸は甘いのと醤油味、どっちが好き?」

「味付けなしでダシに潜らせるのがいい」

 前二人はいつも通りなのだが、

「ふうの卵焼きは醤油ですが、どうですか?」

 と、望に差し出される高そうな塗りがしてある弁当箱。プロが作ったような料理が詰まっている。望のテーブルに椅子をひっつけて座っている鳳凰寺さんだ。

「鳳凰寺さん、私に一つ頂戴? 代わりに私のあげるよ」

「美怜さんどうぞ」

 望の前を黄色い塊が行き来すると、彼は怪訝そうな顔をする。どうやら、その鳳凰寺さんに何も言わない私や前の二人に何かが言いたいようだ。私としては、一緒に食べる人が増えるのは悪いことではないと思うから無視である。

「鳳凰寺君、学食ではないのかね?」

「ふう、とお呼び下さいと、望君」

 霞さんが小牧君にご飯を噴出し、折檻される。アルゼンチンバックブリーガーとか良く出来るなと思う。

「げほげほ、余りにも普通に溶け込んでたから言わなかったが、そういうことだったのか」

 技を解かれた霞さんが床に這い蹲りながら、親指を上に立てて望に向ける。

 今度は望が咳き込んだ。幸い、何も口に入っておらず、霞さんのような無様なまねにはならずに済んでいる。私はそんな望にどくだみ茶を渡し、飲むように促す。

「ごくっ……まずぃ……ありがとう、美怜。誤解があるから教えておこう、僕は鳳凰寺く……ふう君に告白などしてないし、恋愛感情は無いからな?」

 途中で、鳳凰寺さんに泣きそうな眼で訴えかけられて、名前を訂正する望。

「は? じゃぁ、どういうことだよ。お前が憎さ余って可愛さ百倍で、鼻をへし折った後、自分のモノにするためにあんなお芝居したのかと思ったぞ? そして告白したのかと。吊り橋効果というやつだっけか、テレビでやってたような気がする」

 吊り橋では無い気がするが、アンケートの件や望の鳳凰寺さんを助ける舞台で霞さんが楽しそうにしていたのはそういうことなのかと納得する。

「いえ、ふうが望君に告白を申し上げたんですよ?」

「「は?」」

 前二人の声がハモった。私としてはやっぱりな、というところだ。

「ぇっと、鳳凰寺さん。水戸からある程度聞いてるけど、この白髪鬼にやられたこと、苛めの主人物である真実を知らないわけ?」

 更にその裏事情があることを知らず、私に耳打ちしてくる小牧さん。

「知ってるよ? そもそも私への虐めが鳳凰寺さんの仕組みだったんだけど、望が炊きつけてたし、何だかややこしいんだよ。あ、でも望は私のこと思ってくれてやってるから嫌っちゃ駄目だよ?」

「……いや、呆れてモノも言えないわ……本人たちがいいならいいと思うけど」

 小牧さんは占いの本を広げると何とも言えなさそうな表情を浮かべる。

ふと、望の視線がこちらへ向く。すっと彼からほっぺたに手を伸ばされ、掴まれる。突然のことでビクッと驚き、そして落ち着くと痛みが伝わってくる。

「はひすんだよぉ――うー、私は鳳凰寺さんに好意の確認しただけだもん!」

 抗議の声に憮然としたまま放してくれる。どうやらこの状況を作り出した責任を言われているようだ。少し涙目になってしまった。

「その件、ありがとうございます、気付いたのは美怜さんのおかげです。それに私を許し、助けてくれました。それをする理由が無いのにです……だから、ふうは美怜さんのことも好きですわよ? どうぞ、ふう、とお呼び下さい」

 私は吃驚し、眼を見開き、ハンバーグを弁当箱に落としてしまう。望もポカンと眼を見開いて、食べようとしたハンバーグが弁当箱に戻る。

「ご、ごめんなさい。ふうさん、友達からでお願いします」

 ペコリと腰を折り、断ることしか出来ない。

「キマシ・タワーをここに、がふっ」

 よく判らない単語を吐いた霞さんが小牧さんの打撃を顎に喰らう。物事を知らなすぎるのは最近、自分でも良くわかった。直していかなければいけないと思う。

 ふうさんは面白そうに笑んでいたが、その顔が望に向くと、ニヤリと口元がゆがむ。

 ――っ! 悪意ではなさそうだが、私は心の中で注意報がなる。

「……ふう君」

 何かの抗議を望がふうさんが眼で送るのが判る。望の様子もおかしい。

「はい、なんですの?」

 名前を呼ばれてか嬉しそうに微笑むふうさん。または何かしらの抗議の意図を無視するかのように疑問系で返しているようにも見える。

 受けて望は一瞬だけ悩んだ様子を見せ、言葉を続ける。

「失礼だが、自分で料理をするのかね? プロの手前にしか見えないものでね。こういう時の落ちとしては料理が出来ないお嬢様落ちになるのが定番なのだが」

 字面はいつも通りだが、望の声色に迷いが見える。

「はい、勿論ですわ。凝り性で作り出すと時間が掛かりすぎるので学食で済ませることが多かったのですが――これを機に再開というところですの。後、ふうが居ない間に何かされても気付けませんし、仲間外れは嫌です。それに胃袋を押さえるといいと、初めて買った女性誌にありましたので」

 気付く。ふうさんの左手が望の服を掴んでいる。なるほど、っと思う。

「望、それぐらいは許してあげなよ?」

 口元をバッテンにし、不機嫌そうにする。まるで望の部屋に飾られているペー太君みたいだ。私はそれを微笑ましく思いながら、貰った卵焼きを口に入れる。

「……美味しい」

 醤油がきつ過ぎず、丁寧に焼き上げられており中まできっちり階層になっている。しっかりとした歯触りを返してくるそれは習熟度の高さが伺える。中は半熟時に丸めていくふんわり派の私も思わず、感想が漏れてしまった。

「そういって頂けると嬉しいものです……なるほど、このやり方もいいですね」

 ふうさんは特徴的な眉毛を跳ね上げ、心底嬉しそうにする。

「俺も食べていいかい?」

 霞さんが言うと、何だか、凄い表情を一瞬だけ見せ、渋々と明らかに仮面の笑顔で渡すふうさん。望しかり、ふうさんしかり、自分で自分を偽ることに慣れている人間は素になった時とのギャップが激しいようだ。予想外のことで驚いた時の表情は望もふうさんも確実に素だ。後、好意を向けられた時にうろたえるのも慣れていない様子で明らかに素だ。

ただ、望の場合、あの恐ろしい表情だけは良く判らないのだが。

「ぉぉ、旨いぞ、望、食べないのか?」

「僕は美怜のが好きなんだ」

「まぁ、そう言わずにお一つ」

 望の口にお箸で放り込む鳳凰寺さん。

「……旨いな」

 望のポソリと言った言葉にぱぁっと向日葵が咲くようにふうさんが笑顔になる。

「これもどうです?」

「ああ、仕方ないなぁ! 食べるとも、食べるさ!」

「他人に押し切られたのは始めてみたわ。いつも自分の意見を押し付けたり、水戸を粉砕しているか、平沼さんを賞賛してる姿しか見てないのもあれだけど」

「――基本的には優しいよ、私が一緒に寝ようと言う時も、晩御飯で揉めた時も、ぎゅっとして欲しい時も最後に折れてくれるんだよ。何か余程の事情がない限りは何でも」

 思い出すとおのずと、えへへと笑みがこぼれる。

「それはそれで狂ってるわ、どっちも」

 それに対し、呆れたような小牧さん。

「料理の腕は認めてやろう! しかし、この望、それぐらいでは落ちんぞ!」

 いつの間にか、ふうさんのお弁当が半分ほどになっている。私の作ったものはというとちゃんと完食されているので、ほっとする。

「そう言えば、どっちの弁当の方が旨かったんだ?」

 その霞さんの質問に望がピクリと止まる。しかし、すぐ呆れ顔になる。

「……どちらも特色が別のところにあってだな、比べるのは間違いだね。そもそもにお前、それで僕を困らせようとしているだけだろ?」

「すぐに勝負事に持っていくのはハシタナイですよ? お里が知れ……ここでしたわね? どちらの良い所も認めるのが寛容……ぇっと所でどなたでしたっけ?」

「望と鳳凰寺のば~か! ば~か! 腹黒! 頭でっかち! 胸なし!」

 霞さんが泣きながら出て行く。その後を仕方ないなと顔に浮かべながら追い掛けて行く小牧さん。望は何処吹く風と受け流すが、ふうさんは今の小学生のような挑発でも一瞬だけ修羅のような顔を浮かべた。煽り耐性が無いという奴なのだろう。

「……望はほうお……ふうさんのと私のどっちが好きなの?」

 望が困ったのを隠すように笑む。

「美怜のことだから、今のを聞いていて言うってことは理由があるんだね? ……舌の好みという点と技術点ではふう君のだ」

 ふうさんが、乙女らしくないガッツポーズを小さく取る。この人、ホントは感情の表現が行動や表情(特に特徴的な眉毛)に出る愉快な人ではなかろうかという疑惑を得る。

 同時に仕方ないかなっと思う。私は料理をするが、家事の域を出ていない。それに鳳凰寺さんと望はやっぱり似たもの同士なのかもしれない。それでも、

「私のにもいい所があると」

「察しがよくて、大変よろしい」

 でなければ、完食しないのであろうとも思う。言わないということは、理論的に言えないかふうさんにそれを知られたくないかのどちらかであろう。

「――美怜さん、来週の体育祭のお弁当で勝負ですわ」

「ふへ?」

 いきなり言われても私にどうすればいいのかと。

 ちなみにこの学校、ゴールデンウィーク中の平日に休むのを防止するためにそのど真ん中に体育祭を用意している。父母の方が来やすいようにという配慮もあるのだろう。

「私も家族は絶対来ませんし、丁度よい機会ですわ。賞品は望君……と言いたい所ですが、本人の意思を無視すると何だか怖いので、美怜さんとのデート権で」

「お、女の子同士だよ?」

「構わないではありませんか、ぇえ、女の子同士でも」

「鳳凰寺君」

 その声は大きくも無く、力強くも無かった。その望の表情は、ふうさんの方を向いていて見えない。けれども、本能に訴えかけるような恐ろしさを対象でない自分にも与えてきた。ふうさんは笑みを浮かべたままだが、眼元に透明な液体が浮かぶ。

「――望、だめだよ。あんまり怖がらせたら」

 流石に不味いと思い、窘めに入る。それでふうさんのその仮面が壊れたら、ここにいる誰のためにもならない気がする。

「――まいったまいった、賞品は僕でいいさ。一日自由権を進呈しよう。そっちのほうが僕にしか被害が出ないし、コントロール出来るしよっぽどいい。但し、高校生らしいことまでという制限をつける。僕が対処できないのでね?」

 私は最後の付け足しに疑問を覚える。自分が出来ないということをみせるのは初めてだ。

「なお、審判は公平に行うから安心したまえ。――自由にやってくれ」

 望は私の頭にぽんと手を乗せ、くしゃりと撫でてくれる。その行動の意図は判らなかったが、心がポカポカした。


○望○

「美怜大丈夫かい?」

「うん、まだ大丈夫だよ。この後しばらくはテントにいくけど、まだちょっとなら」

 そんなわけで体育祭、当日。美怜が玉入れの競技から戻ってくるので紙の日傘をさしてやる。もちろん、許可は取ってある。

 美怜は紫外線に強いタイプのアルビノだが、やはり常人よりは弱い。しかも、今日は薄着でなおかつ一日中外にいることになる。この前、一人で出歩いていた時は長袖だったし、汗で日焼け止めも落ちなかっただろうと思う。それでも一日、酷い目にあっていた。

 だから、タオル、上下のジャージ、帽子、そして代えの運動用の強めの日焼け止めを渡し、美怜の頭にポンと手を置いてしまう。何故だか判らないが、ふと、美怜の頭を撫でていることが増えている気がする。自分が美怜を兎扱いしているのかと思うと割りと納得できる。ペー太ラビット君にするように愛でているのだ。

「まぁ、目立つわね、このクラスというか、私の周り数人」

 僕の前に右前に座っていた小牧君がそう言ってくる。

「九条さんのことを聞かれたのが十二回、平沼さんのことを聞かれたのが三十一回、鳳凰寺さんのことを聞かれたのが二十五回、水戸が七回。どういうことよ、全く……私は皆のマネージャーじゃないっての!」

「まぁ、野球部マネージャー見習いの小牧君、内面や技術面を映す鏡が現実に無いことを今ほど悔やんだことはないね? そうすれば君も僕らの仲間入りさ! セクハラした野球部上級生を叩きのめした武勇伝は聞いたがね。よくもまぁ、三対一でスポーツ系男子相手に怪我をさせずに勝てるものだ」

 小牧君は拳を握りながら、周りに見られているからかそれをぶつけてこない。

「まぁ、望君、能力や技術が有っても印象が普通というのは稀有なんですから」

「この二人嫌ぃいいいい」

 ふう君の追撃が美怜とは反対、僕の左側から聞える。そして居ない水戸の代わりか、美怜に助けを求める。

「二人ともいい人だよ? 言動や行動が何処と無く狂ってるだけだから」

「そんなに褒めないでくれたまえ」

「ふふふ、私はいい人ではありませんよ?」

 小牧君が何とも言えない表情になってくれる。

 美怜に左二の腕を抓られた。やりすぎたかもしれない、反省。

「望――着いてきて、日焼け止め塗りたいから。そしたら救護用テントにいくよ。ふうさんは望の代わりに居て下さいね? お願いしますよ?」

 美怜にそのまま引っ張られ校舎の中へ連れ込まれる。

「駄目だよ――あんまり、からかっちゃ」

 美怜が眉毛を跳ね上げながらそう言って来る。

「今まで親しい友人というものが居なくてね。あまり他人との距離感が判らないのさ。だから、水戸基準で接していた訳だが? 彼はこんな僕でも気兼ねなく話してくれるし、話せるから、これが友達なのだろうと思うんだが――違うのかね? そして小牧君は水戸の友達で君の友達だ。これが普通かと思ったのだが?」

「――望、薄々思ってたんだけど、私と違う意味でコミュニケーション障害だよね?」

「その通りだから困るね、うん。他者の気持ちに共感出来ないんだ」

 流石に一ヶ月も一緒に暮らしていれば判るらしい。隠すことでも無いので、正直に答えた。しかし、それに驚いた様子を返してくるのはどうなんだろうか。

「自覚症状あったの……?」

「自分の弱点ぐらい知らなくてはね? ただ今まではそんなこと気にしなくても良かったのでね――羨まれ、妬まれ、他人の手の届かない存在になれば、共感は必要ない。自分のやりたい事、やらせたい事は扇動すれば問題なかったのでね。僕が羨望されたい欲望の理由の一つだね。友達暦も=年齢なのさ……はは」

「ごめんごめん! トラウマ掘ったみたいだから気にしないで!」

「大丈夫さ、はは。僕は後悔なんかしてないし、こうする必要があっただけさ、うん」

 そう言うが、寂しさ覚える自分が居るのは確かだ。

「先ずは望は学校生活を楽しむべきだよ。足長おじさん……九条さんに認められるとか、周りに圧迫されないとか、周りとの付き合いを楽にするためとか関係なく」

「美怜はどうなんだい? 楽しめてるのかい?」

「――楽しいんだよ。望との喧嘩から、パーッと世界が開けて。今まで自分がやれなかった――やらなかったことが出来るようになって。体育祭にも参加出来た。青春だよね?」

 美怜の白い眉毛が弓になる。

「望は楽しくない?」

「どうなんだろうね――水戸は弄っているのは楽しいし、敵対設定もふう君だけだから楽なのは確かなのだが」

「もしかして、さっき怖がらせたのもそれだよね? ふうさん、望を本気で好きだよ?」

「どうしても身構えてしまってね。好意は素直に嬉しいけど、慣れてないし、どう彼女を扱えばいいのか判らないものでね? 水戸と同じように扱うのも変だし、とりあえず、カテゴリー・エネミーにしておけば緊張感を抜けないのでね?」

 美怜がこちらを変なものを見るもののような目で見てくる。

「私に小牧さんがいたことを今、凄い感謝したよ。本当に一人だったら、今の望みたいな人になっていただろうし。なんで敵対認識しか出来ないの? アクティブ・エネミーなの?」

 そう言いながら笑い出す美怜。

「羨ましいよ、君が」

 それは色々な意味で本音だ。僕には出来ないことが出来、僕には手に入らないものを持つ資格は彼女にはある。

「望が私を素直にしてくれたように、私が望にも青春をあげるよ。私も今まで私も青春なんて送っていたかどうかは怪しいけど、一緒にやっていければと思うよ」

「強くなったもんだね、ホントに」

「望が守ってくれるから安心してるだけだもん。トラの威を借る兎さんだよ?」

 そして彼女は女子更衣室の手にを掛け、何かに気づいたようにこちらを振り向く。

「居なくならないでよ?」

「大丈夫だ――心配なら更衣室の中に入ろうかい?」

「この時間なら他に誰も居ないだろうし、私なら望になら見られてもいいよ? 家族だし――あ、今度、お風呂一緒に入ろうか? 家族なら問題ないよね?」

 言われ、どうしたものかと戸惑う。美怜の白い四肢に目が行きそうになる自分がいたので頭を振る。それに対し、笑みを浮かべる美怜の意図が読めない。

「……さっさと行って来い」

 とりあえず、呆れの表情をかぶりそう言ってやる。

「はーい」

 美怜の後姿を扉の向うに見送り、扉の反対側、窓側によりかかり待つことにする。

 さておき、美怜が周りに対しても積極的になってくれてるのはいいのだが、その分、自分に対しての過剰な親愛行動も増えている気がする。家族という設定が、常識という垣根を低くし、更には美怜に施した催眠――他人の目を怖がらないという意識の仕方がそれを一層低くしているようだ。更には彼女自身が家族依存症所――いや僕に対する依存症を患っているのも原因だ。

 なんだかな、とは思う。正直、弄られている気がしないでもない。遊ばれているのか、と思うと新鮮な感じすら覚える。相変わらず、自分は人として軸がずれている。

 それでも一緒に寝るまでが限界だろう。うん。なんだか恐ろしく卑猥な夢を見たことがあるが、夢の中の出来事なのでノーカンだ。

「僕のこれから、青春か……」

 先ほどの会話を反芻し、暇つぶし。

「二年十ヵ月もあるね? 頼まれごと――美怜を名前通りに生きていける力を与え終わった今、後は僕が居なくても美怜が自立できれば良いだけだ。それには、僕が他の高校や海外に編入してしまうという手が早い。関東ならばお義父さんの近くに戻ることも出来る」

 自分の手を見、思い出したのは美怜に拒否された翌日のことだ。起きた時に有る筈のその手が無くて、自分が落胆という感情を得たのはよく覚えている。だから、その次の日、説得するために自分が倒れかけた。自分でも驚くほどの愚策だったが、それによって僕は彼女の手を取り戻すことが出来たことは素直に嬉しい。

 ちなみにそれを取り戻した後、更に一日、彼女が火傷で一緒に寝ることが出来なくなった際は、僕は言葉に言えない喪失感を得た。

 なんだろうか、これは? 弱くなってしまったのか?

 人間、一度得た安定を手放すのが一番怖いという。餌や悦楽を与えた人間はそれを簡単には手放さないようになる。要は僕はこの関係――家族ごっこを失うのが怖いのだ。

「あと、二年十ヵ月しかないのか――」

 そう考えると、その残り時間を短く感じてしまう。

「家族ごっこの他にも、青春らしいことをするのもありかもしれないね。舞鶴にいるのだから魚釣りなどのスポーツもしてみたい。動物ぬいぐるみの収集もいい。そして自分がこれまでしたことの無い恋愛をしてもいいかもしれない」

 いっそ、ふう君と付き合うのも有りかも知れない。そもそもに僕は彼女を潰す事に楽しみを覚えていたが、それは既に過去のことだ。彼女から向けられる素直な感情には慣れない経験で戸惑うが、嫌いではない。敵意を捻じ曲げてポジティブに解釈することはあっても、好意を捻じ曲げてネガティブになるほど、僕は捻くれていない。

 僕は今まで自分の能力を上げることに時間を費やしてきたが、それはお義父さんに僕を見てもらいたかったのと周りをねじ伏せ、認めさせるためだ。自分が満たされるためにすることは何一つ無かった。だからいい機会なのかもしれない。

「とりあえずはこの体育祭のメインイベントであるお弁当タイムが楽しみだね。ふう君のは好みが似てるらしく、腕はプロ級。美怜のは暖かい家庭の味を体現してくれる。判定でズルする気は無いし、それも青春らしくていいじゃないか?」

 正直、競技はどうでもいい。点数の高いおおとり、クラス別学年順リレーに水戸と僕が出れば問題無いからだ。

「ぉーい、望、なんや嬉しそうやな?」

 突然のことで思考が止まった。望と言われ、振り向くと、ここにいない筈の人が女子更衣室の隣――教員用女子トイレから出てきて声をかけてきた。

「唯莉さん……?」

「なんや、化け物みたいに唯莉さんのことをみよってからに失礼なやっちゃな」

 この高校の制服を来た四十歳近くの少女はニシシと笑う。

「――年甲斐もなく、ここの制服を着てくる必要あったんですか? 成長しないにせよ」

「自分、子供見た目すぎてこういう所に来る時は工夫せなあかんのや」

「……とりあえず、通報でいいですか?」

「叫んだらどっちが負けるか、わかっとるな?」

 この人は初めて会った時から苦手だ。

「さて、どうしてここに存在してるんですか、ぇぇ、早く存在を無くして下さい」

「酷い言い様やな、あれやトイレ待ち」

 唯莉さんが指で示すのは教員用トイレの男性側。この人が待つと言ったら一人しかいない。義父だ。唯莉さんは笑みを止め、真面目な顔で僕を見てくる。

「ゴールデンウィークの少し前から舞鶴におってな。先に暗示と覚悟で精神力を上げておけば、美怜ちゃんに会っても耐えれるようになったわ。いや、唯莉さんも吃驚やね?」

 言葉の意味が一瞬理解出来なかった。

「お、お義父さんは――体育祭を見に来るだけのためにそこまでしませんよね。何が目的で、何を企んでいるんですか?」

 この家族計画の幕引き、美怜との生活の終わりが浮かび、自分らしくも無く慌てた。

「さぁ? そのために苦労したのは確かやけどな――何度、発作で病院にお世話になったことやら。動画、五十メートル、十メートルと少しずつ慣らして、この前は同じ路面電車内でも大丈夫やった! 勝算は大分あるわ」

「よくもまぁ、僕に気付かれないようにそんな前準備が出来ましたね?」

「美怜ちゃんの変装を教えたんは唯莉さんやで? まぁ、あんたが路面電車で懸垂しとったとあの人の口から聞いた時は予想外やったけどな? 楽しそうでなによりや」

 ニシシと笑う唯莉さんが僕と美怜の家族生活を仕込んだように何か計画を立てているのは確信出来た。しかし、彼女からそれを聞き出すのは容易ではないし、その時間も無い。

「美怜が今着替えてるんです、すぐそこで、早く逃げてください」

 唯莉さんの表情が固まった。僕の言葉を聞いたからではない、後ろの扉が開いたからだ。

「――唯莉さん?」

 そこには赤い長ズボンに着替えた美怜が、驚きで眼を見開いた立っていた。上ジャージは後で着ようとしたのか手に持っている。

「これは唯莉さんではなく、そのそっくりさんだ」

「やぁ、ひさしぶりやな、美怜ちゃん。どないや、調子は?」

 僕のヘルプを無視して普通に話しかける唯莉さん。

「ぇえ、望を送ってくださって有難うございました。家族として、楽しませてもらってますよ。唯莉さんでは出来ませんでしたし」

 意外だった。ふう君相手にすら敵意を出さなかった美怜が憎しみを露にしている。それほど、彼女の中で『捨てられた』ということは根が深くなっているようだ。僕から与えられた家族観、そして今の美怜が満たされていることに相反しているようにも見える。

「なぁ、望、これほんまに良い子ちゃんを演じていた美怜ちゃんか?」

 驚いたのは僕だけではなかったようだ。僕の耳を引っ張り屈ませた唯莉さんが囁いてきた。こっちも流石に裏話を聞かれては不味いと、美怜に聞かれないようにヒソヒソ。

「自分の書いた台本を読み直してください、シナリオライターさん」

「まぁ、それはわかっとるんやけど変わりすぎやで。何というか、周りに合わせようとして良い子を演じていたのを治したかったのはあるんやけど、なんやちがうでこれは」

 ――さておき、っと唯莉さんは繋げる。

「車には発作が起きてもええ用に準備はしてあるんやけど、暗示かけとらん。あんたにも会うことも予想外で変装もさせとらん。せやから一度、トイレに逃げて引き止めるわ――突発遭遇だけはまだあかんなにが起こるかわからへんさかい」

「望、私を捨てた唯莉さんから離れて!」

 僕の手を力強く引っ張り、唯莉さんから引き剥がす美怜。

「エライ恨まれたもんやな、悪い唯莉さんはずらかりますわ」

 そう言い踵を返し、教員用男性トイレに入ろうとした時だった。

「唯莉、どうしたんだ?」

 その影から出てきてしまった。何とか美怜をその人から見えないように隠そうと体が動いていた。

「美怜――?」

 しかし、それは無駄で、呆気なく倒れる、お義父さん。

 頭の中が真っ白になる。どうすればいいかが浮かばない。

「悠莉すまん、すまんすまん、すああうあすうす――」

 お義父さんの痙攣が始まってしまった。

「――っ! 望! 美怜ちゃん連れて救急車呼んできいや!」

 一番初めに自分を取り戻したのは、唯莉さんだった。言われ気づいた僕は美怜の手を掴んで、そこから脱出しようとする。だが、美怜は硬く体を強張らせたまま、そこから動こうとしない。

「誰なの、この人? ――お母さんの名前呼んでたよね? 唯莉や『ゆり』じゃなくて悠莉って。『ゆり』という名前で通していた筈。それが本名だと皆思っていたと唯莉さんは言っていたし、唯莉さん自身も『ゆり姉』と言っていた」

 僕を強い視線で美怜からは眼を背けるしかなかった。

「望、この人は誰なの?」

「美怜ちゃん、今はそんなんはどうでもええ、はよ呼んできいや!」

「どうでもよくない! 他人は黙ってて!」

 美怜の強い怒号は唯利さんを尻もちつかせるには十分だった。

「唯莉さん、僕が説明します! だから車まで早く運んで――そこで手当てと救急車を!」

 僕は呆然とした唯利さんを見て、何とか正気に戻そうと言葉を投げる。

「唯利さん!」

「――あぁ、判った、頼むわ!」

 しばらく呆然としていた唯莉さんは正気を取り戻すとお義父さんを担いで駆けていく。小柄な体型からは考えられないほどの力だ。

 それを追いかけようとする美怜の手を今度はこちらが逃がさない。

「望、放して」

 僕に対して、必死な赤い視線を送ってくる美怜。

「放さない」

 それでも僕は拒否する。今の状況で放すのは、お義父さんにとって危険すぎる。

「……望にとって重要なことなんだね?」

 僕は首を縦に振ることしか出来ない。

「説明してくれるんだよね?」

「あぁ、それで追いかけるのを諦めてくれるのなら」

 美怜の手から力が抜ける。その分、こちらを向く視線は更に赤くなる。

「――あの人は僕の義父、そして君の足長おじさんの九条さんさ。彼は君に君の母親の面影を見てしまい、自分の罪を認識してしまうと倒れてしまうんだ」

 嘘を一つも混ぜずに述べた。声の調子も悪くなかった。前はこれで誤魔化せた。

「――何か、言ってないよね、それ」

 それでも気付かれた。成長しているようだ。

 何とも言えないわだまかりのような感情が僕の心中に浮かんだ。

「望――本当にそれだけなの?」

 それだけ、と言えてしまえば楽なんだろう。しかし、僕はそれを言う事が出来ない。どんな言葉でも発したら今の彼女には気付かれる、今の応対でそう確信した。

「二択だ」

 僕は深呼吸する。

「一つは僕とこのまま、何も知らずに家族を続けること。これは甘い現実だ」

 もう一度、ゆっくりと深呼吸し、美怜から目を背けた。

「もう一つは、酷い真実だ」

「――望、家族を続けられないと言う事? ――あ、あれ、なんで涙が。望が他人だなんて――どうしてこんなことを考えちゃったの」

 賢い子だと思う。もうここまで来たら誤魔化しようがない。歯噛みをし、美怜を見据える。彼女が前者を選んでも、何も知らずにはいられない。変わらずにはいられない。だから、もう選択肢は決まった。前倒しをするだけだ。

「そうだ、僕は他人だ」

 美怜から手を放す。それは呆気なくなされ、僕から彼女の熱がなくなる。

「――の、望?」

 美怜が唖然とする。窓の外――空はこんなにも昼もまだで快晴なのに、彼女は夕焼けの雨の中におり、段々とそれは青紫色の夜になっていく。

 僕はその眼を直視することは出来ず、逸らす。

「いつもの、いつもの演技だよね?」

「その意見が違うと言うことは判っているね?」

 問い掛けに問い掛けで返す。彼女が判っていることをわざわざ言いたくない。

「――君のお父さんが死んだということは――それが最初の嘘だ」

本当は僕は唯莉さんの台本のことを美怜に言う気は無かった。

「そして、僕が双子というのも嘘だ。誕生日は一緒だがね?」

 自分のしていることに罪悪感を覚え始めていたからだ。

「血の繋がりすらない――全くの他人だ」

 しかし、どうして僕はこんなにも残酷で冷静になっているのだろうか?

「僕の義父は君にとっての実父だ――そして君は父親にとっては発作の原因であり、僕にとっては取って代わりたかった位置に居る――嫉妬の対象で僕の最大の敵だ」

 あぁ、そうか、僕は美怜に嫌いなのだ。お義父さんを倒したのは彼女だ。そして僕が代理品に過ぎないのは彼女がいるからだ。そして、家族ごっこを失敗させてしまった僕はお義父さんから見れば用済みになる。

 今日、義父が僕らに会いに来たのも成功として僕を捨てに来たのだ、間違いない。

「判ったかね? 平沼君」

 平沼君から言葉が返ってこなかった。当然だ、僕は家族としてこの一ヶ月と言う短い時間の中で、彼女に大きな影響をもたらした。その分だけ彼女に与えるダメージは大きい。

「私が――お父さんを苦しめたの?」

「そうだ――お前のせいだ」

 平沼君の青紫色の瞳が揺らぐ。実の親にイラナイ子扱いされた点でトラウマのトリガーを引いたようだ。それでも彼女は倒れず、こちらを見上げ、意思の有る赤い目にしてくる。

「望があんなに家族を求めていたのは?」

「家族に切望し、絆を求めていたのは確かだ。しかし、僕の家族はお前じゃない」

 僕にイラナイ子と言われ、美怜は苦しそうに膝を折る、それでも彼女はこちらへの視線は弱らせない。

「僕を通して見る君じゃなくて、僕自身を見てほしかった。僕を息子にして欲しかった。叱って欲しかったし、褒めて欲しかったし、親らしいことをして欲しかった。だからこそ能力を磨いた。あえて言おう。早くクラスの所へ戻れ、お前の顔も見たくない――僕のお義父さんに何かがあったら、僕はお前を許さない」

 平沼君の眼に睨みで返す。

「……自分を壊そうとしてまで私を叱ってくれたのは?」

 それでも平沼君は倒れない。

「お義父さんとの関係を終わらせてしまうのが怖かったからね。自分は潰れてもよかったのさ。君を名前通りにするように頼まれていたからね、それが出来ないほうが怖い」

 一つ潰す。

「――一緒に寝て、いつも手をぎゅっとしてくれたのは?」

「家族という設定を壊さないために強く出れなかっただけだ」

 もう一つ。

「どうして、そんなに望は悲しそうなの?」

 言われ気付く。自分の手に力が入り、拳が握られていることに。

「僕が計画を間違えたせいで家族を手に入れることができなくなったからだ。いや、そもそもに僕には家族を手に入れることなんかできなかったんだ。所詮、僕は君の代理だ」

 そうに決まっている。

「望はどうしてそんなに嫌われようとしてるの?」

 縋られるように右手を掴まれた。彼女の手はいつものように冷たく、でも暖かみがあった。しかし、震えている。僕がそうさせてしまった。

 僕にはその手を握って貰う資格なんてもう無かった。平沼君が唯莉さんにしていた態度のように僕は冷たくされるべきなのだ。

「平沼君、最初から嘘だったんだよ――君は非常に賢いし人の表情を読むのが旨い。しかしだ、僕のほうが上手だったし、今、君はトラウマで正常な判断が出来ない。だから、君が今の僕が嘘だと思っても、これらは本当だ。だから、お前は要らない――僕の前に居られると感情を抑えきれなくなる。早く行け。これが最後の情けだ」

 その手を振り払った。

 平沼君はその振り払われた手を恐る恐る観、涙を溜める。僕は今まで一度も力づくで彼女の手を引き剥がした事は無かった。これで判ってくれた筈だ。

「判ったよ。信用できる人が出来たって思って、はしゃいで、喧嘩して、変わって――捨てられる。そういうことなんだね。判ったよ」

 そして平沼君は僕に背を向けると、走って行ってしまった。

 僕にその背を見つめることしか出来ない。その背中が角で折れ消える。

 僕は肺一杯に空気を吸い込み、自分を落ち着け――そして男子更衣室に入り、着替えることにする。脱いだ体操服はびっしょりと濡れていた。だから、僕はついでとばかしに顔をその体操服で拭く。汗の臭いはしなかった。


 平沼君が火傷を負っていた状態だったので先に病院に行かせたとふう君に嘘を語ると『仕方ありませんわね。後は全部、ふうにお任せください。出来たらでいいですので、後でお話を聞かせてくださいね』っと納得してくれた。ありがたい話である。

「どうですか?」

 その足で来た病院。受付で言われた病室の扉に寄りかかる唯莉さんに声をかけた。

「もう落ちついたわ。望にだけは先に言っとくべきやったんや……すまん」

 唯莉さんは項垂れながら、そう謝辞を述べてくる。

「自分も浮かれてたんやろな。今まで全然進まんかったのにあの人も美怜ちゃんも進めるようになって、旨いことなってきて――現実と創作を見誤った、自分は物書き失格や」

 その商売道具の両手が硬い物にぶつけたように赤く血に染まっている。

「――今まで僕のおかげで旨くいってたんですから、唯莉さんの計画に欠点があるのは仕方ないですよ。そして今回は事故です。ですから、仕方なかったんです」

「そう言ってくれるのはありがたいんやが――美怜ちゃんにはどこまで話したんや?」

「全部話しました」

 唯莉さんが深く息を吸い込み、鞄から取り出した氷砂糖を一個咥える。

「……家族の下りは誤魔化せなかったんやね――ほんま堪忍な。家族を欲しがっていた望にもつらい思いさせてもうた。唯莉さんが不甲斐ないばっかりに」

「……僕が辛い思いをしていたとは何の話ですか?」

「そうか……来たら入れろ言われとるから――覚悟はしておいたほうがええで」

 そう言うと、唯莉さんは扉から放れ、僕へ進むように勧める。

「唯莉さんは同席しないんですか?」

 扉を開けようと手を掛けると、彼女は何処かへ行こうとする。

「あかん、これ以上何か起きたら、ホントに商売道具が使えなくなってしまうわ。骨折したみたいやし、診察してもらってくるわ」

 そして角を曲がって消えていった。

「どうしたものか」

 覚悟とは何だろうか――絶交されるという考えが最悪かつ一番有り得る。それは仕方ない、平沼君と義父を会わせてしまった原因は僕にある。そしてお願いされたことも失敗に終わってしまった。この覚悟は美怜を突き放す時点で既にしている。問題ない。

 考えても仕方ない、先延ばしにする選択を捨てる。そして扉を叩き、

「望です」

 病室へ。大きな個室だった。調度品も置かれており、VIP待遇という奴なのだろう。

「――嬉しいな、お見舞いとは」

 お義父さんが手を振ってくれていた。

 オカシイ。

 そんなに気さくさな人ではなく、いつも疲れていた顔でモノを語ることも少ない。見れば白髪も潤いを取り戻している。

「望、よく来てくれた」

 僕の名前が呼ばれた。どういうことだろうか。僕の名前を呼ぶことはほとんど無い。

「――どうした、驚いた顔をして」

「いえ、憑き物が落ちたような顔をしていて、吃驚しただけです」

「ハハハ、何かが欠けて、気が楽になったようには確かに思えるけどな」

 お義父さんの口調が目上の人以外に接するときの自分に被った。いつもなら静かな声色で力強い発言をする。僕のように声色を道化させる真似をしないのが目の前の人物だ。

「――息子にそんな心配をさせるとはまだまだだな?」

 ――息子?

「お義父さん、今なんて?」

「そんな心配をさせるとは」

「いやその前です、息子と言いましたよね?」

 僕の声が弾むのが判る。同時に僕の中で今の状況は狂っているのも理解した。

「望は娘だったのかい? 生憎だが、独身の僕が引き取ったのは男の子だし、息子しかいないものでな。女装趣味でも芽生えたのか?」

 僕は眩暈を覚えるが堪え、立ちの姿勢を保つことに成功する。

「――覚悟とはこういうことだったんですね、唯莉さん」

 ポツリと呟き、僕は予想外の事態を飲み込んだ。精神的ショックに対して、トラウマの存在――思い人との記憶をお義父さんは忘れてしまったのだ。そしてそれに付随するようにその人との娘、美怜のことも忘れている。

 僕は明確な不快感を得た。確かに息子と呼ばれて嬉しかった。でも、僕はこんな馬鹿げたことでお義父さんに認めてもらおうと思ったことは無い。

「トラウマで自分のいい様に出来るのが家族な訳が無い! そんなご都合主義な関係性、存在が僕の求めていた家族ではない――そうであるはずがない!」

 僕は衝動的に叫んでいた。お義父さんが驚きの顔で肩で息する僕を見てくる。

「平沼・美怜って子を知ってるかい?」

 敬語はやめだ。高ぶった感情のまま、強い意思を含ませて言葉をぶつける。

「何を言ってるんだい? 望」

「アルビノでビクビクして兎みたいで、青紫から赤色に眼が変わる少女のことだ。最近、野生化して元気だが」

「ははは、望のいい子のことかな」

 捉え所が無い。心が壊れたせいで、どこかしらで論理力や感情の一部も抜けているように思える。僕の言葉は暖簾に腕押しをしている感じしかない。

「さて始業式のあのスピーチ良かったぞ」

「――っ!」

 一番、あのスピーチを聞かせたかった人に聞いて貰えていた。そして、褒めてもらった。そのことで僕の怒りが逸れて行くのを自認する。嬉しいと思う自分を否定できない。

「それを伝えたかったのと何か重要な事で唯莉に無茶言ったのは覚えてるんだ」

 そして少年のように笑うお義父さん。

「そしたら何故か倒れてこの様さ。走ってきた生徒にぶつかって頭を打ってしまったのかもしれんね。唯莉のように歳を取らない訳にもいかない――全く彼女が羨ましい」

『あんたら二人に会いたいそうや――倒れる覚悟でな?』

 唯莉さんの言っていた言葉が思い出され、歯軋りをした。

「判ってるよ、お義父さん。それは平沼君に向けたかったものだ! 自分が壊れるのも厭わずに覚悟を決めるということは、平沼君に家族らしいことをするために舞鶴にきたんだ! そして僕にはもう要らないと宣告したかったんだ――トラウマで近寄れない娘の成長を想像するために引き取った代理品、道具はもう要らないと!」

 こうとしか考えられない。僕は計画をほぼ終わらせており、もう僕は用済みの筈だ。

 視界が霞む。僕はもう家族を手に入れられない、義父とはもう家族には一生なれない。そうことだからだ。

 ふとさっき泣かしてしまった少女の泣き顔が浮かんだ。

「要らないとか馬鹿いうな」

 僕の頬から乾いた音が病室に響いた。僕の思考が途切れた。

「望。一人になった家は寂しくなった。それで何かの枷を感じていて息子と言えなかったこと、そして親らしいことをしてやれなかったことにも後悔した。だから、それを言おうと思って舞鶴に来たのは確かだ――すまん」

 僕は唖然とし、視界が広がる。お義父さんは僕に頭を下げているのが判る。止まる思考をどうにも出来ない。これまで一度もお義父さんから、頬を張られたことも叱りの言葉を受けたことも、彼が頭を下げてきたことも無かったからだ。

「――お前が内心で付けてる枷、義の文字を外して呼んでくれ」

 ポンっと僕の頭に手が乗せられ、泣く子をあやす様に撫でられる。

「……お……とうさん……」

「そうだ、お前のお父さんだ」

「お父さん、お父さん、お父さん」

 止まらなくなる。視界の歪みもどうにもならなくなる。

「あぁ、泣いていいぞ、お前のお父さんだからな」

 長年、欲しかった繋がり。それを得るために僕は色々なことをしてきた。非道なことも、無茶も、何だってやった。それが達成された僕は、泣く、という反応でしか心の満ちたりから溢れる感情を表現できなかった。

 ふと――平沼君の泣き顔が脳裏に浮かんだ。家族を求めていたのは彼女もだ。そして彼女は今一人だ。僕が家族を得たのに、彼女は一人ぼっちになってしまった。

 自分の手を見る。平沼君が僕と同じように手の温もりを感じていたのならば、それを失った今は――自分がそのような状況に置かれたらと思い、身震いし、涙が止まった。

「よし、泣き止んだか? お前は僕の息子だ、判るな?」

「はい」

 言われ、深呼吸し、落ち着き、お父さんを見る。

「息子のお前に頼みがある。今、お父さんの中には欠けた何かがある。それを取り戻すために努力をしてくれ。ここにきた理由、お前に息子と言う以外に何か大切なことを忘れている気がするんだ――お前の言っている僕の娘、美怜という少女がそうなのかい?」

「――!」

「そのようだね、頼む、連れて来てくれ。これからは親らしいことはしてあげたいと思うんだ、望にもその彼女にも」

 頭を下げられた。


美怜を捨てた望はどうするのでしょうか。

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