03
《バルデルト王国・王城・宴の間》
キリヤ王子の目の前でドレス姿を晒し、リリアはしばらく顔をあげられずにいた。しかしこれもラスターク団長からの命を受けた立派な騎士団の仕事であるため、リリアは心を決めてゆっくりと顔をあげた。
「……王子殿下。……お初にお目にかかります」
そう挨拶した理由は、あくまでリリアが王子の知り合いの女騎士ではなく、ただの貴族の娘という設定でキリヤの護衛につくことが命令であったからだ。誰の目があるかも分からないため、挨拶から念を入れる。
地毛の白銀の髪も目立つため、デリウスに用意された栗色のウィッグをつけて貴族のあいだに紛れ込んだ。それでもその美しい顔は貴族の娘を相手でも紛れ込むことなく人の目を引いてしまう。
「では殿下、私は殿下の代わりに伯爵方の挨拶を請け負いますので、楽しいひと時をお過ごしくださいませ」
そう言ってデリウスがリリアをキリヤに託し、その場からいなくなる。デリウスがいなくなると、途端に心細くなってリリアは着慣れないドレスを握りしめ、恐る恐るキリヤの顔を見上げる。
先ほどからキリヤは一言も喋らない。
「あの、王子殿下」
恐る恐る口を開くと、キリヤがリリアの腕を掴む。鍛錬でついた筋肉のせいで貴族の娘ほど細くはない手首を握り、キリヤはテラスの方までリリアを連れて行く。
もちろんキリヤの動きを見逃すはずもない貴族の面々が騒ぎ出すが、それをデリウスが収めにかかる。キリヤ王子に至ってはそのどよめきにすら興味を示していない。
「キリヤ王子、あの……」
テラスに出ると、そこに人はほとんどいない。王族が皆広間にいるのにわざわざテラスに出てくる貴族はいないのだ。
リリアが心配げにキリヤへ声をかけようとすると、それを塞いでキリヤが言葉を被せた。
「リリ。何その格好」
「えっと……デリウス様が用意して」
「聞きたいのはそういうことじゃない」
切羽詰まったような様子のキリヤの口調は常より少し厳しい。リリアが返事に困っていると、目の前でキリヤが大きな深呼吸をした。すると、キリヤのまとう雰囲気が少しだけいつもの優しいものに近づく。
「俺に直接護衛がつくとはデリウスから聞いてたし、ラスのことだから変な気回してリリを任につかせることも頭にはあったけど……まさかこんな形での護衛なんて予想にもしないだろ」
キリヤはそう言って大きく息を吐き、リリアの肩にコツンと額を預けた。
「キリヤ王子?」
「リリのそういう格好見慣れないから……心臓に悪い」
キリヤの声が肩で震え、くすぐったくてリリアは少しだけ体を捩る。それをリリアが自分から離れようとしていると勘違いしたのか、キリヤが腰に手を添えて固定した。
「王子…っ、さすがにここでは」
「大丈夫だ。これ以上は寄り添わないし……昼のようなこともしない」
スカート捲りの件を躊躇いがちにキリヤが謝る。それを聞いて、リリアは忘れかけていたその事件を思い出し、顔を赤く染め上げた。
「……私のほうこそ、思わず平手してごめんなさい」
「あれは痛かった」
けれど、原因がキリヤにあることには変わりない。リリアは平手打ちをしたことを謝るけれど、それ以上の謝罪はしない。それがリリアとキリヤの関係において唯一無二の決め事のようなものなのだ。
キリヤの顔がゆっくりと離れ、今度は正面から向き合うことになる。リリアは赤くなった顔を隠すように俯こうとするが、その前にキリヤから頬を支えられ、赤い顔をマジマジと見つめられてしまう。
「綺麗だよ、リリ」
キリヤが優しい顔でそう伝えてくる。たとえそれがキリヤのお世辞なのだとしてもリリアは嬉しさと恥ずかしさで顔の赤の色を濃くしてしまう。
「リリのこんな姿は五本の指どころか、国一番だろ」
キリヤが大きなため息をつくが、リリアにはその言葉の意味がよく分からない。けれどキリヤにこの姿を喜んでもらえていることだけは分かって、それが嬉しくてリリアは幸せそうにクスクスと小さく笑った。
「リリ」
キリヤに名を呼ばれ、リリはキリヤの姿を見つめ返す。絡まった視線の先、キリヤの黒い瞳は色めき、その瞳の熱を感じたリリアの心臓は大きく音をたてて跳ねた。
「王子殿下」
「こういうとき、そう呼ぶのは俺への牽制?」
耳元で響き始めるキリヤの声は甘い誘惑となってリリアの心に沈みこむ。本当は拒みたくなどない。けれどどんなに望もうとも、2人のあいだにある明確な身分の違いは2人を容易く線引きしてしまう。譲歩の末によき友人となれてもよき恋人になることは許されない。
7年の恋は互いに実を結んだまま、熟していくばかりだ。
「今のリリは貴族の令嬢という設定なんだろ。なら、俺の妃になりたがる健気な令嬢を演じ切ればいい」
「そういう意図で任についたわけじゃ……っ」
「リリだって、俺のこと好きだろ」
キリヤの切なげな顔がリリアから反論を奪う。近づくキリヤの顔から自らの顔を背けることもできない。否、できないのではなく背けようとしていないだけ。
トクンと一際大きな音をたて、閉じかけたリリアの瞳が大きく開いた。
「リリ?」
「お下がりを! キリヤ王子!」
リリアはキリヤの腕を引き、ドレスの裾をすばやい手つきで捲りあげる。そうして白い太腿に巻きつけた即席の折りたたみ式の金属の棍棒をすばやくその腕に携えた。
キリヤを背にかばい、リリアは辺りに意識を飛ばす。
「いいところで邪魔が入ったか」
キリヤもリリアが感じた殺気を感じとったらしく、剣に手を携える。しかし、それを横目に見たリリアはキリヤを制止するようにして彼の前に手を突き出した。
「王子は隙を見て中へお戻りください」
「な……っ、リリ!」
「護られることが王子の仕事で、護ることが私の仕事です」
そう告げるリリアの顔は先ほどまでの恋する女のものではない。騎士団の師団長たる強気な顔だ。
キリヤがリリアを助けるためにここへ残ることは、リリアの師団長としての名誉を傷つけることになる。それを察したキリヤは渋々了解せざるをえない。
「リリ。無理はするな。ラスをすぐに寄越す」
キリヤはそう言ってリリアに背を向ける。するとテラスの向かいにある木々の一つが怪しげに揺れ、その動きをリリアは見逃さない。
「させないっ」
リリアはすばやく右足のヒールを脱ぎ、揺れる木々の中へ手にした靴を勢いよく投げ込む。リリアの靴は見事狙いの的へとぶつかり、木から刺客の1人を突き落とした。木の下に男が1人転がるのを確認すると、リリアは木々の中に他の気配が残っていないのを確認し、邪魔なドレスの裾を破く。左のヒールも脱ぎ捨て、テラスからそのまま階下へと飛び降りた。
飛び降りる瞬間、広間から悲鳴が聞こえたのはおそらく飛び降りるリリアの姿を広間から目にしていた貴族が多くいたからなのだろう。
しかし、そのおかげで少なからずデリウスやラスターク、他の配置された騎士団員にも事態は伝わったはず。
風圧でウィッグは飛んでいき、地毛の白銀の髪が夜空に舞う。月光を浴びるその髪はまさに月のようだ。
「……っ」
素足のまま階下に着地したため、鈍い痛みが足に走る。幸い降りた場所が芝の上であるため、痛みは軽減されているが、リリアは痛みを我慢するべくほんの少し眉を寄せた。
「くそっ、城の者にばれたぞ!」
周囲で騒がしく何者かが叫んでいる。木から落ちて気絶した男がその場から逃げられないよう、まずその男の腕と足をすばやく縛り上げて、リリアは仲間の姿を探す。
「く……っ、誰かいる! 見つかった!」
そう時間も労力もかけないうちに、リリアは仲間と思しき男たちを見つける。僅かな足音を正確に聞き分け、リリアは逃げようとする男たちの道を塞ぐようにして立った。
しかし、リリアの前に現れた5人の男たちは人影に出くわしことで一瞬顔を歪めたものの、リリアの姿を視界に映すなり侮るようにして笑みを浮かべる。
「騎士かと思えば、これまた上玉じゃねぇか。ビビらせやがって。……ちょうどいい。何もないよりはこの女でも持ち帰るか」
ニヤリと男どもが笑う。リリアはそんな男どもの姿を蔑むような目で見つめた。見るからに盗賊と思しき彼らの姿はこの煌びやかな城に余りにも似合わない。
「あなたたちが、この宴に乗じて王子殿下を狙おうなどと馬鹿げた計画を立てた輩?」
リリアは怒りの眼差しを盗賊たちに向ける。
デリウスとラスタークが城下で掴んだ情報によれば、今日この宴で開放的になった城に忍び込み、第1王子キリヤを襲って、彼の珍しき黒の髪と瞳を闇市で売り捌く計画だったのだと。
「だったらどうする? そんなに怖い顔じゃあせっかくの綺麗な顔が台無しだ。ほら、おとなしく俺たちについてきな」
リリアの前に男が5人。しかし、隠れて背後から1人の気配、そしてもう1人頭上からの気配しをリリアは感じ取る。
「あいにく、私の売りは顔じゃないわ」
リリアは一時折り畳んでいた金属の棍棒を再びすばやく装備し、クルリと一回しすると、すぐ背後まで押し寄せていた男に向かって金属の棍棒をなぎ払うようにしてぶつける。
「う……っぐ!」
普通の女が振り回した程度じゃこんな打撃音は響かない。確実に男の肋骨が5、6本折れた音がした。
「何……っ!」
リリアは男たちの反応を気に留めることもなく、次に頭上に降ってくる男のほうへと意識を向ける。リリアが只者ではないことを悟った頭上の男は即座に胸元からくないを数本取り出し、投げつけた。
「死ねぇっ!」
降ってくるくないは勢いを止めることなく、リリアの頭上に降り注ぐ。しかし、リリアはそれにさえも動じることなく落ちる1本1本のくないをとらえ、金属の棍棒を回し、すべてかわしてみせる。それでも落ちるくないがリリアの白い頬や腕を掠め、赤く血をにじませた。
「……っ、やあーーっ!」
すべてのくないをかわし終えると、リリアは重力任せに落ちてくる男へそのまま金属の棍棒を振り下ろし、地面に叩きつけた。
それがもし、リリアの愛用している細剣の刃だったならとうにその男は地獄行きだ。リリアが隠しもっていたのが金属の棍棒だったのが彼らにとって不幸中の幸いだ。
「お前…っ、まさか、女騎士か!」
リリアの常人ならざる身のこなしに盗賊の1人が叫ぶ。城壁に反射した声は木々のざわめきとともにシンとした空気に響き渡る。
「お、お頭……こいつ、ただの女騎士じゃありませんよ」
そしてどうやら盗賊一味の後方に構える男は顔を青くしてリリアのことを指差した。リリアはその男に覚えなどないが、男のほうはリリアを知っているらしい。
「こいつは王国騎士団第7師団団長……。団長になってたった半年で郊外の盗賊団3つを吊るし上げた……《月狂のリリア》!」
初めて耳にする二つ名にリリアは眉を寄せるが、立ち尽くしている5人の盗賊にはその名前ですべてに納得がいったらしい。
とはいえ、二つ名がどうであろうともリリアのなすことに変わりはない。
「なら、4つ目の盗賊一味捕獲といきましょうか」
リリアの口角があがる。それも束の間、動揺している5人の盗賊の中にリリアは単身突っ込んでいった。相手の隙をついてすばやく金属の棍棒を振り回す。まるでその棍棒がリリアの体の一部であるかのように正確に美しく月夜に舞う。
大人の男5人を軽々と相手し、なぎ倒す。
その二つ名が示すとおり、リリアの姿は月夜に狂い舞う姫を思わせた。