嵐の前に -3-
タタール川のほとりにある、リヴィエリの町。各地から荷が集まり、南にある王都へ川会を使って船での物資を運ぶ要所である。川のほとりには蔵が立ち並び、桟橋には大きな船が着岸する。物資が集まれば、人も集まり、このリヴィエリの地は王都に次ぐ大きな町と言ってよい。
いつもならば猥雑で喧騒に包まれているこの町が、今は息をひそめたようにひっそりとしている。湖の里へと行軍中の黒の王の軍隊が、一時の休息のためにリヴィエリの町とその周辺に駐留しているのだ。
この町を治める領主ギルガロンの館には、今宵、黒の軍の指揮官が招待されていた。
その指揮官は供を館の外へ待機させると館の中へはたった一名の共のみを連れてやってきた。
「ギルガロン殿、今宵はいろいろお骨折りいただき申し訳ない」
年若い指揮官がギルガロンへ言った。
「いえ、殿下を我が家にご招待できるとは光栄の極みでございます。さあ、こちらへ」
ギルガロンが先に立って、ドアを開ける。二人が入っていくと、そこには先客があった。
ゴブレットの館の女主人オリーヴと大輪の花のようなプリムローズ。
ギルガロンがドアを閉めるとプリムローズがこちらをにらんだ。
「ライト・ザーナヴェルト・リヴァイス!?」
真紅のドレスを着て金髪を美しく結い上げたプリムローズから怒気を含んだ声が発せられる。
「いったいどういうことなの! あんたが、黒の兵隊たちの指揮官で、黒の王の息子だってのは本当の話なの?」
上目遣いの瞳が怒りに揺れていた。
「ねえ、なら何であの子を助けたりしたのよ。……待って! 狩るためだとか言わないでちょうだい」
まくしたてるプルムローズをギルガロンが制する。
「プリムローズ、彼は今日は私の客人です。そんなに激高しないで」
プリムローズはフン! と眉をあげて見せると、落ち着こうとしてかすー、はー、と深呼吸をしてみる。
「いえ、ギルガロン殿には感謝しています」
ライトが言った。
「こういう場を作って頂けるようにお願いしたのは私からですし、今回の作戦に当たっても、ギルガロン殿とリヴィエリの町の全面的な協力が無くては、作戦自体が成り立ちませんから。
ギルガロン殿のことを、ここにいるアンジェから聞き及んでおりました。不逞の輩に追われているところを助けて頂いたことがあると?」
ギルガロンとは、リヴィエリの町でアンジェがしつこい男につけまわされたときに「ゴブレットの館」から船で、朱門の外まで送らせた、あの者である。
プリムローズはライトの言葉にまた声を上げた。
「作戦って。作戦って。結局兵隊引き連れて、あの子を潰しに行くんじゃないの。わたしは、何のためにあんたに利用されてたの?」
「プリムローズ」
背後から、老女オリーヴの声がかかる。
束の間彼女は口を閉じたが、結局また言葉をつなぐ。
「私平気よ。煮るなり焼くなりすればいいんだわ! あんたのこと、わたしだって、あの子だって、信用してたのよ。ねえ、あなた本当に黒の悪魔なの?」
沈黙が下りる。
ライトは静かに彼女を見つめているが、その瞳の中にはほの暗い何かが燃え立つようだった。プリムローズは恐ろしくなったが、負けじと彼の瞳を見返していた。
そしてライトは自分をにらむプリムローズの手をとり、両手で包んだ。
「ほんとうだよ」
プリムローズが顔をあげるとライトが見下ろしている。
その顔に浮かぶ冷たい笑顔にプリムローズはぞっとした。
噛んで含めるように、プリムローズの耳に口を寄せるとライトが言った。
「ほんとうだよ。プリムローズ」
包まれた手が冷たくてプリムローズはあわててその手をひきぬいた。
「君の言うとおりだよ? プリム……。俺は黒い悪魔だ。ああ、君のきれいな白い手が俺の血の染みついた手に触れて汚れてしまったかな?」
静かに歌うように話すライトが恐ろしくて、プリムローズの顔から血の気が引いた。その時、それまで一度も声を発しなかったアンジェが言った。
「ライト、遊んでいる場合じゃない。プリムローズ。あなたがあまりうるさいから、彼が怒ったんだ」
その言葉にプリムローズの腰がへなへなと崩れる。
ライトが崩れそうになるプリムローズを支えると、ソファへ座らせた。
「プリムローズ、言いたいことはわかるけれど、俺の話も聞いてほしい。ここへはギルガロン殿を通じて、以前、貴女とともに過ごしたライトとしてやってきたのだ。おれは、アレンを助けたいと思っている。だが、一方でこのまま白の魔道士とミリアム・ガーランド、湖の里を捨て置けば、いずれ大きな戦いが起きることも事実だ。その前にたたく。これは父の意思だが、俺自身もそう思っている」
プリムローズはその言葉を聞くと、顔をあげてじっとライトを見返した。ライトはソファに腰を下ろしたプリムローズを腰をかがめて見下ろしている。
「本当ね。あの子を助けるのね?」
何かを読み取ろうと、ひとみを覗き込む。
ライトはその視線を受け止めたまま、うなずく。
「いいわ、話してちょうだい」
周りにいた者たちがみな、ほっと安堵の息を漏らした。
客人が帰った、ギルガロン亭のサンルームに、この館の当主とゴブレットの館のプリムローズがいた。整えられた庭がよく見えるガラス張りのサンルーム。プリムローズは大きな窓の前にたたずみ、ガラス越しに庭を見るともなく見ている。自分の後ろに立った、ギルガロンの顔がガラスに映る。
「プリム、寒くないか?」
大きな窓のサンルームは、昼間は暖かく、そろそろ夏と言ってよかったが、夜になればそこそこに冷える。
「アルスベルト。わたし、あなたにご迷惑をかけて、申し訳ないわ」
この館の主人ギルガロンのファーストネームはアルスベルトといった。
「いや、君にはいつも支えてもらっているよ?」
ギルガロンは後ろから彼女の腰に腕を回した。
プリムローズはそっと、彼に体を預ける。
ゴブレットの館。
そこに集まる娘たち。みな花の名前を呼び名として持つ。館は、裏の社交場とも呼ばれ権力者たちの、表向きにはできないパーティーなどを催されることもあったし、そこで働く娘たちは、そういった者達を相手とする高級娼婦としての顔を持つ。彼女たちは人並み以上に勉学を身に着けていたし、歌舞音曲にも秀でている。そういう性格上、外に出せない機密に触れることもあるから、自由に町外に出ることは禁じられていた。
その中でも、館の華、プリムローズと町の領主ギルガロンの恋はひそかに有名な話だった。ギルガロンは一時期、彼女を引き抜き妾として自分のもとへ置くことを望んでいた。それを、プリムローズは断り、相変わらず「ゴブレットの館」で働いていたが、今ではプリムローズはギルガロンの愛人として認知されている。プリムローズを指名したければ、ギルガロンの了承が要ったし、もちろんギルガロンは了承するはずもないので、プリムローズを自由にできるものは彼だけだった。
ギルガロンは自分より十五ほども年下の恋人の肩に顔をうずめると口づけをした。
プリムローズが身を固くする。
「だめ。アルス。わたし、このお館であなたとそうゆうことはしたくないの」
「奥はもう、王都にある実家に戻ったまま何か月も留守なのだけれどね」
「それでも、ここの奥さまはちゃんといらっしゃるわ」
ギルガロンは名残惜しそうに恋人から手を放す。すぐ後ろにあったソファの背に腰をのせた。
プリムローズが彼を振り向く。
「わがままばかり言ってごめんなさい」
この町の領主はそっと、恋人の頬に触れる。
「そういう君が好きなのだからしょうがない」
「ねえ、アルス、あの小さな恋人たちは、うまくやってくれるかしら?」
「ぼくたちは待つことしかできないけどね。もし、これから始まる嵐を抜け出てくることが出来たら、ぼくは先も言ったとおり、助力を惜しまないつもりだよ」
「わたし、あなたのそういうところが好き」
にっこり笑ってプリムローズが言った。
「いま、どこかに褒められるようなポイントがあったかな?」
ギルガロンが怪訝な顔をする。
「声高に断言したり、言いきったりしないところが私は好きなの。変かしら?」
ギルガロンは少年のように笑い声をあげた。
「ぼくは君の、年齢やら身分やらを無視して、嫌なことは嫌とはっきりいうところが好きなんだけれどね」
しばらく、恋人同士は笑いあった。そして、これから始まる、最後の嵐にまだ十六歳と十七歳の小さな恋人たちがさらわれてしまわないようにと、心ひそかに祈るのだった。




