別れ -3-
……そして。
次の朝、ライトとアンジェが消えた。
なぜとはなく、同行するものだとばかり思っていたみなは揺れたが、どうすることもできない。
ミリアムが目覚めると、枕元に小さな杯が置いてあり、そこにかわいらしい菫の花が揺れていた。
(別れの挨拶なんだ……)
動揺の走る皆にミリアムが言った。
「ライトが言ってました。黒の魔道士のやり方は好きではないが、王家復興にも興味はないと」
「でも、今まであなたを守ってきてくれたのでしょう? しかも、アンジェはあの戦いを経験している。黒の王を憎んでも憎み切れない思いを持っているはずだと思ったが」
バルドロがどうにもわかりかねる、といった声を出した。
「そうかもしれませんが、わたしも、彼らとそこまでの約束をしたわけでもありません。これからは皆さんがいます。ここで、ぐずぐずしているわけにもいかないのですから、行きましょう、山の民の里へ」
ミリアムの言葉にバルドロとミラースは顔を引き締めた。
ミリアムは、守り袋から取り出した指輪を、自分の指にはめた。
今日からは、暁の王家の最後の生き残りの王女として生きていかなくてはいけないのだ。
ミリアムにとってそれは、あきらめのようなものではなかったか。ミラースの息子として生きてきた昨日までを手放すということ。ミラースは偽りを生きることはないと言ったが、昨日までの自分が偽りだったのか? それともこれからの自分が偽りとなるのか? 心の中に不安がよぎる。
そしてもう一つ、彼女の心の奥底に、なんと名前を付けてよいかもわからぬ気持ちがあった。恐れなのか、希望なのか、誰にも言えない秘密。それを思う時、彼女の脳裏に浮かびあがる映像。
冷たい水の中に沈んでいく自分に延ばされた手。夕日に赤い水面から、飛び込んできた。……彼の胸に揺れていた金の鎖と指輪。そこだけが暖かだった背中。
ミリアムはそっと、指輪を撫でた。
(ライト、君もこの指輪を持っているんだね?)
双子のようにそっくりで、でも、違う文様。
ぼくのものは羽を広げた鷲。そしてあなたのものは……円を描く蛇。
(あなたは誰だったのだろう)
ミリアムは秘密をそっと、心の奥へとしまった。
タタール川にそそぐ支流のほとりに人工的に作られた、黒の魔道士タタール地方の砦。
夜の明けきらない靄の中に二つの人影があった。
「行くぞ」
ライトが声をかけると、
剣を抜きその手に握った。
「はい」
アンジェも剣を抜く。
門をくぐりぬけようとする二人の不審者を認めると見張りのものが見張り小屋から転がり出てきた。
「何用でしょうか」
二人を押しとどめようとする。
「グラーヴェに日の出前に会い来ると伝えてあるはずだが」
「あ、ライト・ザーナベルト・リヴァイス様ですね。お話は伺っております。ただいまグラーヴェ殿を呼びますので」
見張りの兵士は敬礼をすると、あわてたように駆け出していく。
遅れて出てきたものが数名。
「申し訳ありませぬが今しばらく……」
ライトの剣がたった今言葉を発したものの喉元に向けられた。
「俺に、ここで待てというのか?」
ぐっと、喉元に向けた剣を押し出す。切っ先が相手の肉に触れる。
「な、何を」
あわてた仲間が、とっさに剣を構えた。条件反射であったかもしれない。
ライトは相手の喉元にあてた剣を引き戻すと、次には迷いなく剣を構えた者の腕を切り裂く。
剣を構えた見張りの兵士は、腕から血をふきだして、崩れ落ち、剣を取り落す。
「俺に剣を向けるな!」
ライトが叫んだ。
騒ぎを聞きつけた兵士たちがテントから数名、這い出してくる。
状況の良く呑み込めていない兵士が目の前の惨状を目の当たりにして、剣を握る。
ライトが、そのものを目でとらえた。
飛び出して剣を交える。
……ガッ!
剣と剣のぶつかる衝撃。ライトはその衝撃ごと相手にぶつかった。
相手はライトの攻撃を受けて倒れる。
高まる緊張。その場は小さな戦場と化した。
(まだだ……)
ライトの後ろで双刀を構えたまま、アンジェはまだ一太刀も振るってはいない。
自分に向かってくるものを悪鬼のような形相でライトはなぎ倒していく。
(まだだ。まだ彼は己を律している)
アンジェは用心深く周囲に気を配りながら、自分の主を観察した。
そこへ、グラーヴェが現れる。
「控えろ! 何をしている!」
あわてて部下へ向かって叫ぶと、その場にいた者の動きが止まる。
グラーヴェは自らライトの前に進み出ると、ひれ伏した。
あたりには数名、血を流しながら呻いているものがいたが、どれも致命傷ではないようだ。グラーヴェの様子を見ると皆がそれに倣いライトの前にひざまずいた。
「お待ちしておりました、ライト・ザーナヴェルト・リヴァイス様」
グラーヴェは顔をあげてゆっくり大きな声で言った。
ひざまずく兵士たちの前に血塗れた剣をだらりと下げ、無表情で立つ少年。少し後ろに控える双刀の大柄な女。
これが、黒の魔王の子、黒い悪魔が、タタールの砦にてその姿を現した最初である。
グラーヴェはそしてまた、ライトの前に深く頭を垂れた。
ライトは、アンジェとグラーヴェ、それに数名の主だったものと共に、砦の奥まった場所にある、白く、大きなテントの中にいた。会議室として使われているテントだ。
中央のテーブルの上には一枚の地図。
「ミリアム王女は、数名の共を連れ、リヴィエリの町を今日立つ」
ライトが言う。
「山中に差し掛かったあたりで、山の民の里からの迎えの者と合流。今夜はこのあたりで野営の予定」
ライトが、地図の一角を指し示す。
「迎えに誰が来るのかは知らないが、魔道士数名は入ると思う。この、野営地に奇襲をかける」
グラーヴェたちが地図を確認する。
「ただし、ミリアム王女、ハヤブサのバルドロ、白の魔道士……は、自らは出てこないと思うが、その者達には危害を加えるな。あいつらは、山の民の里へ無事にたどり着いてもらわねばならない」
「どうしてですか?」
話を聞いていた一人が、勇気を出して尋ねた。
「王女が里へ入れば、我々黒の王の支配に反感を持っていた者たちが、それを旗印にまとまるだろう。あちこちに点々と存在していた王家に仕えていた者達の残党、一部の山の民。反乱分子が王家復興という大義名分に群がる。そこをたたく。その時、白の魔道士ともども王女を亡き者とすればよい」
数名から、納得のいったようなため息が漏れる。
「ライト様、わたくしは今回の指揮をとらせていただくキャメロットと申します」
一人の男が一歩前に進み出る。先ほど、問いを発した男だ。若く、きびきびとした印象で、切れ長の目に短く刈り込まれた茶色がかった黒髪。
「その者たち以外には犠牲は出ても構わぬということでよろしいでしょうか?」
「もちろんだ。楽々と逃げおおせたなどとは思わせるな。恐怖を味あわせてから逃げ込ませろ」
ライトはキャメロットに笑顔を向けた。
「かしこまりました。では、早々に出立いたします」
キャメロットは一礼すると、テントの入り口幕を跳ね上げて退出していった。
「別れたな……」
ライトとアンジェは二人のために小ぶりなテントを一つ用意されていた。アンジェはライトの世話をする侍女としての役目もあるからと、同じテントで、寝起きをする。
小ぶりのテントの中で二人きりになると、ライトの顔に疲れの色が見えた。
ベットのわきに腰を掛けつぶやきが漏れた。
アンジェがそばに控える。
ライトはアンジェの手を取ると、自分の額にそれを押し当てた。
アンジェは空いた方の手でそっと、ライトの背をさすった。
しばらくの間。
ライトは手を放してアンジェに顔を向けると、少し笑顔を見せた。
「少し休む」
「はい」
アンジェは静かにライトのそばを離れた。
テントを出ると、陽が高く上り始めている。
目の前に広がるのは黒の魔道士の砦。
数日間過ごしたミリアム王女との時間は、そう、少しずつ離れていく。
別れた。
またいつか、この道が交わるときが来るのだろうか。
アンジェは一歩踏み出した。