黒い悪魔 -1-
「父さん、無事で良かった……」
ゴブレットの館につくと、娘の声にソファに腰かけていた武骨な男が立ち上がった。
男は言葉もなく軽く娘の肩を抱いた。
「助けて頂いたそうでありがとうございます」
アンジェとライトに向き直ると深々とこうべを垂れた。
静かな再会が終わると、プリムローズがまあまあと、みなを店のソファへと座らせる。
ひとり掛けのソファには、昨晩も店にいた白髪の老女が、腰を掛けていた。
「みなさま、よくこのゴブレットの館へ。この館の女主のオリーヴと申します」
老女ではあるが、物腰といい話し声といい、上品で人を引き付けるものがある。アンジェがあいさつとともに昨晩の礼を述べる。
「こちらのお嬢様が、今は亡き暁の国王たった一人の姫様であるということはあなたの育ての父上からお聞きしました。聞けば白の魔道士が身を寄せている、山の民の里へ向かう途中とか……。そして、途中黒の魔道士に発見され襲われたところをこの、旅人に助けられたというわけですね?」
「はい」
アレンが答える。
「失礼ながら一点、確認をさせていただきたいのですが」
老婆はそう前置きしながらも躊躇なく切り出した。
「皆様から聞いたお話、アレン様の生い立ち、併せて考えると、もちろん、貴方が亡き先の王の忘れ形見とは思うが、なにか、みなを納得させることができるような印はお持ちなのでしょうか?」
「アレン、渡してある守り袋を出してごらん」
ミラースがアレンに声をかける。
アレンはみなの見ている前でベルトを外すと、裏に縫い付けてあった、布をといてゆく。
そこから現れた、小さな守り袋を父に渡した。
ミラースがその守り袋を開けると指輪がころん、とミラースの手に乗った。それはそれぞれの王家の血をひく者が持つことを許されている王家のしるしと言われているものだ。その指輪には表に翼を広げた鷲の模様が描かれている。すべてを統べる暁の鷲の王家のしるしだ。裏を見るとミリアムの名が彫られていた。
「それを、彼女と一緒に託されたのだ」
ミラースが言うと、老女オリーヴはうなずいた。
「おそらくその黒の魔道士は、体勢を立て直して、再びあなたを狙うでしょう。手勢をそろえ、今にもこのあたり一帯に探索の手を伸ばしているかもしれない」
プリムローズが老婆の後を引き継ぐ。
「あなたたちだけで湖の里へ行きつくのは難しいと思ったのよ。私が黒の魔道士だったら、山の民の里への道を押さえておくわね。なんたって、ここらではあそこが一番大きな生き残りの魔道士が集まる場所なんだから。余計なことかもしれないけれど、私、あの里に身を寄せているひとりの魔道士と昔馴染みなの。言っておくけれど、ゴブレットの館としてあの里に肩入れしているということは全くないわ。あくまで私個人の付き合いの範囲よ。彼はもともと、王家直属の魔道士隊の隊長だったし、私も彼に剣を習ったこともあるのよ。今はこんなだけれど、あの戦の前は城で魔道士隊に入るための訓練を受ける子どもだったのよ。まあ、それはさておき使いを出したのは剣の腕は王国一と言われていた男で……」
「ハヤブサのバルドロ……」
アンジェがつぶやいた。
「あら、あなたも知ってるの? あなたは?」
「私は人間だ。ただ、子どものころからバルドロに剣の腕を買われて直接指導を受けたのさ。長じてからは一時期は第一連帯に属したが、その後要人警護のための特殊部隊に入った。あの戦で死にぞこなったのさ」
みなが遠い目をした。
「いや、ここにいるものはみな、生き残ってしまったものなのですよ」
ミラースが言う。
「あなたは生きるのが務めだったはずだ。その、ミリアム王女を守るために」
「僕は、自分のことを王女だなんて思ったことはないし……別に山の民のもとへ行きたいわけじゃなかった」
アレンが言った。ミラースが静かに首を振る。
「だが、いつまでも欺けるものではない。私の亡くなった子が男の子だったこともあって、敵を欺くにも良いのではと、安易に男の子として育ててしまった。お前も、もう、偽りを生きることはないのだ。今日から、ミリアムと名乗るのがよいだろう」
「そうよミリアム! 二階へあがりましょう」
しんみりとした雰囲気を断ち切るようにプリムローズが言った。
「バルドロの到着は早くとも明日になるはずよ。それまでは、ここでゆっくりしていって。ここは秘密部屋もあるのよ」
プリムローズはなぜかうきうきとミリアムを伴って部屋を出て行った。
「まったくあの子は気が多いというか移り気というか……」
女主人がプリムローズの消えた方を見て微笑んだ。みなの方に向き直ると言葉をつづけた。
「気になるのは、黒の魔道士側の動きが鈍いことでしょうか? ここから一番近いタタール地方の黒の魔道士達の砦までは東へ十五キロほど。タタール川の支流にあり、船を使えば川を下って、この町へすぐにも入ってこれるはずです。まあ、相手がミリアム王女だったと気づいていたわけではないであろうし、行先もリヴィエリだとわかっていなかったと言えばそれまでですが」
重苦しい厚い雲が、部屋の中へ入る日光を遮り、人々の気分も柚鬱にさせていくようだった。
黒の魔道士は、自分の配下にならない魔道士の全滅を公言している。相手の軍門に下るのでなければ、いかに勝機が少なかろうとも戦う以外に道はなかったのだ。
その時二階からやけに大きながたがたいう音が聞こえてきた。女たちのにぎやかな声が降ってくる。何やら、アレン=ミリアムのものらしい叫び声もする。
ライトが腰をあげようとするが老女オリーヴが手をあげて制した。
「大丈夫ですよ。少し待っていてごらんなさい」
にっこり笑いながらライトにうなずいてみせる。
「今日は店を開けますが、二階と、裏の庭は自由に使っていただいて構いません。そうですね、ミリアム様と、アンジェ様はプリムローズの部屋を使えるようにいたしましょう。男性二人は手狭となりますがプリムローズの部屋とラベンダーの部屋の間から出入りできる秘密部屋をお使いいただけるようにいたします。あの子は秘密部屋と言いましたが、ただの屋根裏部屋ですよ。隠し扉の中に階段を作って行き来できるようにして、屋根裏を部屋として使えるようにしているだけですから。明日になれば、バルドロ様も到着なされるかもしれませんし、幸い予約もございませんので、貸切、ということにして、一般のお客様は入らないようにしようかと思っております」
そうこうしているうちに二階からこの場に不自然なほどの女たちのうきうきとした華やかな声が近づいてくる。
一番先に部屋に顔を見せた娘が言った。
「お母さん、見てあげて、動かないでくれるとなかなかのものなんだけど!」
「あら、かわいいわよ。この初々しさがいいんじゃないのよ」
「あんたにはないわよね」
「なんですって!」
「ちょっと、静かにしてよ」
部屋の中にプリムローズにがっちりと手をつかまれたアレン=ミリアムが入ってきた。
「ミリアム……!」
どうやら感極まったのは父親だけのようだった。
今にも逃げ出したそうに腰の引けたミリアムがプリムローズにきつく手首をつかまれ、引きずられるように立っている。淡いオレンジ色のドレスを着せられていた。
ライトは懸命に、吹き出しそうになる自分を抑えた。
似合っていないわけではないのだ。ミリアムの一挙手一投足が、その姿になじんでいないのだ。着せられてしまった感がいっぱいなのである。とらえられて、引き出された野生の小鹿のようだ。
ミリアムは不意を衝いてプリムローズの手を振り払うとダダダーッと裏庭へ向けて脱兎のごとく逃げ去ってしまった。その姿も、とても恥じらう女子という感じではない。
ライトの我慢もここへきて限界に達し「ぶーっ」っと、思い切りよく吹き出してしまっていた。しかも、今までこらえていた分たいそうたいそう勢いよく体を二つに折って肩を震わせた。
ぎょっとしたアンジェが隣から手を伸ばし、これまた勢いよくライトの頭をひっぱたいた。
「お前のそのバカみたいな上戸をなんとかしろ! 聞こえたぞ、今の。きれいとか、似合ってるとか……言えとは言わないが、吹き出すとは! さっさとなんとかしてこい」
あごで裏庭の方を示す。
「えー、わざわざけりを入れられに行くのかよ」
しょうがないなあ、などと言いながらも部屋を出てゆく少年を、大人たちはそれこそ「やれやれ」というように暖かく見守っているのだった。