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俺は、薄暗い中、ゆっくりと瞼をあげた。鳥のさえずりが聞こえる。どうやら朝のようだ。
俺は二、三回瞬きをして、ベッドの上に座る。カーテンからはうっすらと朝の日差しが漏れている。俺はベッドを降り、伸びをした。ゆったりとした歩みで机に向かい、その上にある目覚まし時計を掴む。アラームは六時にセットされているが、今の時刻は五時半である。俺は目覚ましが鳴る前に起きてしまう性質なのだ。なのに何故目覚まし時計をかけているかというと――まあ、万が一起きれなかった時のための保険だ。
意外に思うかもしれないが、俺の朝は早い。二人分の朝食と自分の弁当を作らなければならないからだ。
目覚まし時計の裏側にあるアラームスイッチをオフにして、二階の自分の部屋から一階に向かうべく、部屋の扉に向かう。
昨日は夕食を終えた後、やはり門限をやぶることに若干後ろめたさがあったようで、高菜は慌てて家を飛び出していった。鷹木はというと、俺とボードゲームをしてから帰宅した。将棋、チェス、オセロ……当然のことながら、どれも大敗だったが。俺は二人が帰った後、洗い物をして、風呂に入った。その後はまあ、のんびりだらだらと過ごして就寝、今に至る。
部屋を出て、階段を下り切った俺は、洗面所へと向かった。蛇口を捻り、冷たい水を手に救って、顔を洗う。水が滴っている前髪と一緒に、ハンディタオルで乱雑に顔を拭いた。
キッチンへ向かい、水を入れた薬缶をコンロに乗せる。カチリという音の後に、ぼっと火がついた。水が沸騰するのを待つ間、インスタントコーヒーをマグカップに入れておく。まだ少し寝ぼけている体を起こすために、軽くストレッチをした。
薬缶が甲高い音を響かせた。火を止め、マグカップにお湯を注ぐ。
俺は基本的にコーヒーはブラックでもミルクでも砂糖でもいけるクチだが、最近はお湯と豆乳で淹れるコーヒーにハマっている。なので今日も、俺は冷蔵庫から一リットル豆乳を取り出し、お湯で半分ほど満たされたマグカップに注いだ。牛乳よりやや黄色がかったクリーム色の液体を、マグカップに並々と注ぐ。最後に、黒とクリーム色の中間色になった液体を、ティースプーンで軽くかき混ぜた。
コーヒーを持ち、こぼさないようにゆっくりとリビングに運び、テーブルに置いた。俺はソファに座り、マグカップを口元に運ぶ。ふう、と一息つき、朝の静寂を身で感じる。
五分程度かけてマグカップを空にした俺は、キッチンに向かい、マグカップを洗ってしまう。洗い物を溜めるとろくなことにならないというのは、以前身を持って経験した。
すっかり頭も体も冴え切ったので、緩慢だが手馴れた動作で、朝食兼自分の弁当を作り始めた。
一時間ほどたったころ、真昼が階段を下りてくる音が聞こえた。朝食はすでに食卓に並べてある。軽く朝の挨拶をした後、真昼は寝ぼけ眼でソファに座り、朝食を咀嚼し始めた。
俺も朝食を摂り終わり、自室に戻り全ての準備を終え、玄関に向かう。俺が通う高校は真昼が通う中学校より遠いため、家を出るのは俺のほうが早い。途中で居間へ立ち寄り、真昼に声をかけ、玄関で靴を履き替える。
バッグの中から、愛用している真っ白のヘッドフォンを取り出し、装着した。コードの先の携帯型音楽再生機器を操作し、曲をかける。
聴き慣れた旋律に包まれながら、俺は口の中で、いってきます、と小さくつぶやいた。
見慣れた道を歩く。もはやルーチンワークと化したこの作業は、たとえ何も考えていなくても、足が道を記憶しているため、迷うことはない。いつも通り歩き、いつも通り学校に着き、いつも通り教室に入る。いつも通り、高菜と鷹木は先に教室へついていた。俺が自分の席に着き教材を取り出していると、鷹木が俺に気づいたらしく、こちらに歩いてきた。
「おはよう朝治。課題を持ってくるの忘れちゃったりしてない?」
「おはよう鷹木。安心しろ、ちゃんと持ってきてる」
「それは残念……じゃなくて残念」
「張り倒すぞ」
『じゃなくて』じゃないじゃないか。口にしたら噛みそうだからつっこまないが。
鷹木と雑談していると聴きなれた音が響いた。チャイムだ。鷹木は俺に向かって軽く手をあげ、自分の席へ戻った。
担任による十分のホームルームの後、授業開始までの五分間の空き時間が訪れる。いつもはみんな騒ぎまわるのだが、昨日の課題を提出する授業――数学は今日の一時限目である。あの憎たらしい数学教師、伊藤は授業開始時間にほぼ後れたことがないため、それを知っているこのクラスの生徒達は、既に全員着席していた。
まもなく教室の扉が開き、伊藤が入ってきた。号令がかかり、授業が始まった。
「さて、昨日の課題を集めるぞ。できてる奴は持ってこい」
椅子を引く音がところどころから鳴り響き、生徒達が次々と課題を提出しに教卓へ向かう。後ろの席の俺は、人波を避けるため、あえて一呼吸おいてから教卓へ向かった。得意顔で課題を教師に渡すと、驚いた顔でこちらを見られた。
「ほう、お前が提出期限を守るとはな……何か起きるんじゃないか?」
「失礼だな先生。ちょっと本気をだせばこんなもんさ」
俺は自慢気にそう言い、自分の席へと戻る。
「よし、今日は提出率がいいな。欠席した山田を除けば、ほぼ全員が提出している。さて、授業を始めるとする。教科書の……」
いつも通りの授業が始まる。提出期限を守ったこと以外、今日は朝からいつも通りの生活を送っている。
だが。
非日常は。
まったくもって唐突に。
俺達の元へやってきた。
教師が数式を説明する低い声だけが響く静まり返った教室に、ふいに、唐突に、聴いたことのないメロディが流れ出した。
生徒達は顔を上げ、辺りを見回す。授業中は携帯電話を鳴らすと没収されるので、そんな馬鹿な輩は誰かと探しているのだろう。
俺だ。
聴いたこともないメロディが自分のポケットの中で鳴り響いている。音の発信源に気付いた伊藤は、俺に向かって机の間を縫うように歩いて来た。
「朝治。授業中に携帯が鳴ったら、どうなるかわかっているよな? これは没収する。放課後職員室に取りに――」
先程の、聞いたことの無いメロディが流れ出した。
それは教師のポケットから響いている。
「……先生も没収ですね」
「いや……それはおかしいぞ。俺は確かに電源を切っていた筈なんだが……」
「……そういえば俺もマナーモードの筈です。ちょっと見せてもらえますか?」
俺は怪訝そうな顔をしている伊藤の手から自分の携帯電話を受け取り、画面を見た。
そこには確かに、マナーモードになっていることを示すアイコンが表示されていて。
俺は、皮膚が粟立つのを感じた。
――瞬間。
教室の至る所から同じメロディが流れだした。
いや、このクラスだけではない。隣のクラスからも――この学校内の至る所で流れているようだ。
生徒達は怪訝そうな顔で携帯電話を確認している。いや、違う、携帯電話だけじゃない。携帯音楽再生機器を手に取っているやつも居るし、ノートパソコンや携帯型ゲーム機を――おいおい授業中だぞ。だがそうも言ってられない状態だ。教師である伊藤も緊張した表情をしている。
クラスを見渡すと、一人だけ肩身が狭そうにしている奴を見つけた。高菜だ。高菜は携帯電話持っていないために、この状況から浮いた存在になっているのだろう。いち早く冷静になった伊藤は、教室に響き渡る声で言った。
「俺は教師達と連携を取り、何が起きているか調べる! お前らはここでパニックにならず待っていろ! 生徒を守るのは教師の務めだからな!」
伊藤の叫びが俺達を少し落ち着かせた。伊藤が教室から出て行こうとした、その時。
耳元に声が聞こえてきた。
『転送ヲ開始シマス。転送開始マデ三秒……』
転送……転送だって!? 訳が分からない。しかもこの合成音声は……! 俺は慌てて鷹木と高菜を見た。鷹木は額に汗を浮かべて険しさに満ちた顔をしており、高菜は訳が分からず慌てふためいている。
『二秒……一秒……開始』
視界が激しい光に包まれ、俺は何も見えなくなった。
☆ ☆ ☆
激しい光は徐々に薄れていき……視界が回復した俺の目に入ってきたのは、見慣れた壁と天井だった。
ここは……高校の体育館だ。何故か全校集会と寸分たがわぬ位置に、全校生徒が位置している。
いや、正確には高菜だけが居ない。それが既に異常である。今日休んでいた筈の山田も、訳が分からないといった顔で、列に並んで立っているのだ。体育館はざわめきで包まれていた。教師達は集まって話をしている。
キーン、と耳を劈くような音が流れた。体育館のざわめきは一瞬静まる。
続いて、体育館のスピーカーから、ノイズとともに音声が流れ出した。
『ゲームノ説明ヲシマス。今カラアナタ達ハ三百体ノアンドロイドニ襲ワレマス。ライフバーガ零ニナルト、死ニマス』
体育館はまたざわめき始めた。俺は耳を疑った。三百体のアンドロイド? 何を言っているのか訳が分からない。
だが、ライフバーという発言から――これはバトルシュミレータなのだと分かる。今までは瞬間移動した事態に対しての驚きで気が付かなかったが、視界の端には自分のライフバーが映っている。本来なら対戦者全員のライフバーが見えるはずなのだが、何故か今は自分のしか見えない。
しかし……死ぬという発言が気になる。ゲーム内での死を意味していると思いたいが、今回の事態は異常だ。何かのサプライズ企画だとは到底思えない。
ふと思い、ポケットから携帯電話を取り出す。シュミレーションの中断操作をしようとしたのだが、携帯電話は電源が落ちており、何度やっても起動しなかった。
とうとう意味が分からない。俺一人で考えても答えが出そうに無かったので、列の合間を縫って鷹木の元へ向かった。
「鷹木!」
「朝治……。まったく、どうなっているんだろうね……」
「ああ。とりあえずこれがバトルシュミレータだとは分かったんだが……バトルシュミレータのアップデートに伴ったレクリエーション、って訳じゃあなさそうだしな」
「いや――それは絶対にありえない」
俺は首を傾げた。鷹木は何故そうだと断定できるのかが分からなかった。
「確実にありえないのか?」
「確実にありえないんだ。いや、そもそも――この事態が起きていること自体がありえないんだ。」
何故なら、と鷹木は続ける。
「このバトルシュミレータには、製作者である平川昇と坂田降地が、彼らの天才的頭脳を持ってして作った、厳重なロックがかかっているんだ。二人が死んだ今、このバトルシュミレータのプログラムを変更するなんて行為――誰にもできるはずが無いんだ」
「おいおい、ちょっと待てよ。そもそも俺はそんなロックがかかっているなんて知らなかったぞ」
「意外と知られていないんだ。教科書にも載っていない。……みんな現状のプログラムで満足できていたからね。改良なんて思いもしなかったのさ」
「なら……新しい天才が出てきたって事になるな。製作者二人を超える天才が。転送機能なんて今まで無かったんだし、誰かが手を加えたことは確実だろう」
「その可能性が高いね。だけど、そしたらもっと世間に名が知られていてもいい筈なんだ。ある歳で急に天才になる訳じゃないんだしね。それに、何のためにこんなことをするのかも分からない。全く持って謎だらけだ」
やはりこの状況は鷹木の頭脳を持ってしても解明できないらしい。俺は不安と焦りで、頭をかきむしった。
突然、俺の視界が赤で埋まった。
といっても血ではない。無数のライフバーによってだ。プレイヤー人数が多すぎるからか、自分以外のプレイヤーの頭上にライフバーが浮かんでいる。これも今までは確実に無かったプログラムだ。これで、誰かがプログラムを弄ったという線が強くなったわけだ。体育館に居る面々が、突然現れたライフバーにさほど驚いたそぶりを見せないということは、放送で説明されていたのだろう。俺は鷹木との会話によって、その説明をすっかり聞きそびれてしまったということだ。
これ以上聞き漏らしてはいけないと思い、放送に耳を傾けた。
『デハ、今カラ再度転送ヲ始メマス。転送開始マデ後三秒……』
何だって? また転送? これも聞いて無いうちに説明があったのか?
『二秒……一秒……』
俺は、俺にしては珍しく、不安という感情に包まれた。
何か、嫌な予感がする。
『転送ヲ開始シマス』
無感情な合成音声がそう告げた途端、視界は再び白く塗りつぶされた。