第2話 セシルと領民たち
目を覚ますと、知らない女性に抱きしめられていた。柔らかな感触と共に、耳元で声が聞こえる。
「よかった……本当によかったわ……」
金色の髪をした美しい女性だった。だが俺はその顔に見覚えがない。
そもそもここがどこなのかも分からない。病院ではないことだけは確かだった。豪華な調度品が並ぶ部屋。ふかふかのベッド。そしてメイド服を着た女性たち。どう考えても日本ではない。
混乱する俺をよそに、女性は嬉しそうに俺を抱きしめ続けている。何か聞こうとして口を開く。
「あー」
しかし出てきたのは間抜けな声だった。その瞬間、自分の手が視界に入る。小さい。驚くほど小さい。まるで赤ん坊のような手だった。そこでようやく気付く。
俺は死んだのだ。
そしてどこか別の場所で生まれ変わったのだと。
◇◇◇
最初は夢かと思った。
だが何日経っても目は覚めないし、見知らぬ言葉だったはずの会話も不思議と理解できるようになっていく。
何より、俺を抱きしめていた女性の存在が現実だと教えてくれた。
彼女の名前はエレノア・クリストフ。
クリストフ伯爵家の正妻であり、俺――セシル・クリストフの母親だった。
そして俺はというと、生後間もない赤ん坊である。
最初は戸惑った。
だが前世で死ぬほど苦しんだ身としては、健康な体があるだけで十分だった。
痛くない。苦しくない。息を吸える。食べられる。それだけで幸せだった。
◇◇◇
月日はあっという間に流れ、気が付けば俺は三歳になっていた。
「セシル様! お待ちください!」
屋敷の廊下を全力で駆け抜ける。後ろからメイドたちの悲鳴のような声が聞こえた。だが止まらない。
今日も領地へ遊びに行くのだ。
俺は玄関を飛び出した。護衛騎士たちが慌てて後を追いかける。
「坊ちゃん! 一人で行ってはいけません!」
「街じゃ一人じゃないよ!」
「そういう問題ではありません!」
確かにその通りである。だが前世での最期が病室あった反動なのか、外へ出ることが楽しくて仕方なかった。
屋敷を抜け、石畳の道を走る。すると見慣れた顔が見えてきた。
「おお! セシル坊ちゃんじゃねえか!」
大きな声を上げたのは鍛冶屋の親方だ。筋骨隆々の大男で、一見怖そうだが実際はとても優しい。
「おはよう!」
「元気だなあ!」
頭をわしゃわしゃ撫でられる。少し痛い。でも嫌ではなかった。
前世では近所付き合いなんてほとんど無かった。だからだろうか。領民たちとの交流がとても新鮮だった。
「親方、今日は何作ってるの?」
「農具だな」
「剣じゃないの?」
「剣なんて滅多に作らねえよ」
言われてみればその通りだ。平和な領地である。農具の方が需要は遥かに多い。
親方は熱した鉄を叩きながら言った。
「坊ちゃんも将来は立派な領主様になるんだろうな」
「どうかなあ」
「なるさ」
親方は笑った。
「坊ちゃんは人の話をちゃんと聞くからな」
そんな大したことをした覚えはない。だが嬉しかった。領民たちはみんな俺によくしてくれる。
貴族だからではない。子供だからでもない。一人の人間として接してくれている気がした。
◇◇◇
鍛冶屋を後にした俺は畑へ向かった。麦畑が風に揺れている。
この世界の主食はパンだ。残念ながら米は見当たらない。正直かなり残念である。
転生したら米を腹いっぱい食べようと思っていたのだが、現実はそう甘くなかった。
「セシル様!」
畑で働いていた女性が手を振った。
「こんにちは!」
「今日はお野菜食べますか?」
「食べる!」
即答した。前世では好き嫌いなんて言っていられなかった。食べられるだけでありがたい。
差し出されたトマトをかじる。みずみずしくて美味しい。
「うまい!」
「ははは!」
農民たちが笑う。その笑顔を見るのが好きだった。人が笑っている。
それだけでなんだか幸せな気持ちになる。
前世では病室の天井ばかり見ていた。だから今の毎日は宝物のようだった。
◇◇◇
夕方になると屋敷へ戻る。そして必ず母の部屋へ向かった。
「お母様!」
「お帰りなさい、セシル」
母はいつも優しく迎えてくれた。
今日あったことを話す。鍛冶屋のこと。農家のこと。商人のこと。
母は嫌な顔ひとつせず聞いてくれる。
「みんな元気そうで何よりです」
「うん!」
「領民を知ることは大切ですよ」
そう言って母は微笑んだ。
「領主は領民を守るものです」
「守る?」
「ええ」
母は俺を膝の上に乗せた。
「貴族とは偉い人ではありません」
「そうなの?」
「責任を負う人です」
前世の感覚からすると少し意外だった。
貴族というのは偉そうで選民思想のイメージがある。
だが母は違った。
「苦しい人がいれば助ける」
「うん」
「困っている人がいれば手を差し伸べる」
「うん」
「それが本来の貴族です」
その言葉は幼い俺にも強く印象に残った。
母はいつもそうだった。使用人にも優しい。領民にも優しい。誰かを見下すことがない。
だから皆に慕われていた。
◇◇◇
夜。
家族で食事を取る。父は仕事で忙しく、あまり家にいない。
それでも母がいるだけで食卓は温かかった。
「今日も元気でしたね」
母が笑う。
「うん!」
その光景を見ながら思う。幸せだな、と。
前世で死んだ時は人生に未練ばかりだった。
もっと生きたかった。もっと食べたかった。もっと色々な場所へ行きたかった。
だが今は違う。やり直せている。新しい人生を歩いている。このまま平和に育っていける。
そう信じていた。




