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トラウマ転売ヤー

作者: 尾藤みそぎ
掲載日:2026/03/12

 雨の気配を含んだ空気が街を包む夕方、澪は制服のまま端末をのぞき込んでいた。


 流行の話題にはだいたい触れておきたい性分だった。新しい配信サービスが始まれば試し、話題の菓子が出れば買い、誰かが便利だと言えばひとまず使ってみる。


 記憶の売買が合法化されてからも、その好奇心は変わらなかった。


 嫌な記憶を手放したい人が金を払い、代わりに引き受ける人が金を受け取る。


 最初に聞いたとき、澪はずいぶん気楽な仕組みだと思った。忘れたい人は楽になれる。引き受ける人は金がもらえる。


 つらさに値札がついたようで少し気味が悪かったが、同時に、うまくできた商売にも見えた。


 掲示板には募集が並んでいた。

 失恋の記憶。受験の失敗。職場での叱責。家族との口論。


 どれも小遣い稼ぎにはちょうどよさそうだった。澪は軽いものを選ぶつもりでいた。

 けれど、表示された報酬額を見た瞬間、考えが鈍った。

 

 高い。高校生の小遣いとしては目がくらむほど高い。


 応募条件には、同意書の確認と適性検査、それから「受容後の精神変調については自己責任」とあった。


 警告文は、だいたい大げさに書かれるものだと澪は思っていた。

 少し気分が沈む程度だろう。映画の胸くそ悪い場面を引きずるようなものかもしれない。そう考えて、彼女は申し込みを済ませた。


 記憶の受け渡しは拍子抜けするほど簡単だった。

 白い部屋。無機質な説明。署名。機械の起動音。

 そのあと、何かが胸の内側に滑り込んでくる感覚があった。


 知らないはずの記憶が、知っているものとして根を張った。


 暗い空気。乾いた声。逃げたいのに逃げられない緊張。

 誰かの表情が焼きついて離れない。

 途切れた息。押し殺した悲鳴。


 その記憶は映像のように見えるだけではなかった。体のこわばりや喉の詰まりまで一緒に流れ込んできた。

 何を思い出しても、その記憶はすぐ背後から手を伸ばしてきた。


 その夜、澪は眠れなかった。

 目を閉じると、知らないはずの恐怖が待っていた。まぶたの裏に張りつき、体温を奪い、呼吸のたびに存在を主張した。


 朝になっても疲れは取れず、授業の言葉は耳を通り抜けた。友人の笑い声が遠かった。


 数日もすると、澪は自分の内側にあるものを「借り物」と呼べなくなっていた。


 借り物ではない。たしかに自分のものではないのに、体は自分の記憶として反応する。


 駅のアナウンスに似た音で肩が跳ねる。誰かの香水に吐き気が込み上げる。知らない人の声色に、理由のない怯えが生まれる。


 自分の人生と無関係な傷が、自分の神経だけを確実に削っていく。


 澪は記憶を手放す側の窓口を調べた。

 当然、費用がかかる。

 受け取った報酬のかなりを返しても足りない。

 しかも手数料まで乗る。


 ばかみたいだ、と澪は思った。

 稼ぐために受け取って、苦しくなって、捨てるために金を払う。


 こんなものなら最初から手を出さなければよかった。

 けれど、もう遅かった。


 眠れないまま端末をさまよっていると、検索結果に出てこない掲示板へ誘導する短い文に行き当たった。


「高負荷記憶、歓迎」

「通常窓口より有利」

「事情問わず即日対応」


 開いた先は、やけに簡素な画面だった。業者名も所在地も曖昧で、連絡先だけが妙に親切に並んでいる。

 危ないに決まっている、と澪は思った。


 だが、まともな窓口よりずっと好条件だった。引き取り手がいないような重い記憶でも歓迎する、と書いてある。

 

 しかも、手放す側が金を払うどころか、わずかだが受け渡しの対価まで出るという。


 怪しさは、眠れない夜に負けた。


 指定された場所で待っていたのは、年齢の読めない男だった。

 清潔ではあるが印象に残らない服装で、営業用の笑みだけが妙にうまい。


「つらいでしょう」と男は言った。

 その言い方が、慰めより商売に近いことを澪はすぐ感じ取った。


「重い記憶は持っているだけで価値が下がる。新鮮なうちのほうがいい」


 まるで食品の話だった。

 澪は気味の悪さを覚えながらも契約を進めた。


 処理は短時間で終わった。

 機械が止まり、男が確認用の質問をいくつか口にした。


 記憶の輪郭がぼやけている。胸を締めつけていた何かが消えている。

 澪はその場で深く息を吸えた。吸っても苦しくないことに驚いた。


 端末には報酬が振り込まれていた。

 受け取った金は少なくない。

 最初の窓口でもらった金に上乗せされている。


 苦しい思いをして、最後には手元の額が増えている。

 その事実が、澪の感覚を静かにゆがめた。


 帰り道、彼女は思った。

 もう一度やればいい。


 軽い記憶では駄目だ。重い記憶のほうが値がつく。

 どうせ苦しくなっても、あの業者に流せばいい。


 その発想に至った瞬間、澪は自分の中で何かが変わったことを知った。


 怖いとは思った。

 だが、それ以上に理屈が立っているように見えた。


 それからの澪は、記憶の募集を探す目つきが変わった。

 話題性でも珍しさでもなく、値段を見るようになった。

 投稿文のにじむ言葉から傷の深さを推し量り、報酬を計算する。


 軽い後悔やありがちな失敗談には目もくれない。

 もっと重く、もっと深く、人が本気で捨てたがるものばかりを追った。


 けれど、高値がつく記憶はめったに出ない。

 本当に深い傷を持つ人間は、そう簡単に表へ出てこない。


 出てきたとしても、条件は厳しい。適性の制限がある。競争もある。

 澪が欲しがるほど、そういう案件は手の届くところに転がっていなかった。


 焦りが生まれた。

 最初の成功が、かえって澪をせき立てた。


 あれほどの金額をもう一度。できればもっと大きく。

 その欲が、彼女の視界からブレーキを消していった。


 学校では、相談室に出入りする生徒へ自然に近づくようになった。

 匿名の悩み掲示板にも潜った。


 夜の街で、いかにも事情を抱えていそうな人間を観察することも覚えた。


 記憶を持て余している人間が、どんな表情をするかを学んでいった。

 誰かの苦しみを見つける目だけが、妙に育っていった。


 やがて澪は、募集を待つだけでは足りないと思い始めた。

 大きな傷は、待っているだけでは手に入らない。

 ならば、傷が生まれる場所へ近づけばいい。


 そんな考えが頭をもたげても、はじめは自分で否定できた。

 だが、否定は日ごとに弱くなった。


 危ない集まりに顔を出す。

 揉め事の気配が濃い場へ向かう。

 誰かの秘密が売買される裏の掲示板をのぞく。

 事件の匂いがすれば、好奇心という顔で近づく。


 澪は自分に言い訳した。観察しているだけだ、と。

 けれど本心では、もっと値のつく傷に触れたいと思っていた。


 ある晩、彼女はついに、自分から引き金へ手を伸ばした。

 人の弱みを知っている者に、別の誰かの秘密をそっと漏らした。


 直接傷つけたわけではない。

 手を下したとは言えない。


 そう思い込もうとした。

 だが、その情報は確実に誰かの関係を壊し、取り返しのつかない場面を生んだ。


 その後、澪は震える手で掲示板を見た。

 新着の投稿が上がっていた。

 人格の崩れた文章。切迫した文面。

 手放したい記憶がある、と。


 報酬額を見た瞬間、心臓が鳴った。

 高い。

 今まで見た中でも際立っていた。


 応募は通った。

 受け渡しも済んだ。

 流れ込んできた記憶は、澪の想像を超えていた。


 そこにあったのは、壊れていく人間を傍観した記憶ではなかった。

 壊れるきっかけを与えた側の記憶だった。


 ほんのひと押しのつもりで告げた言葉。

 深刻な結果になるとは思わなかったという自己弁護。

 それでも消えない、加害の自覚。

 自分が壊したのだと認めたくない者の、醜く湿った恐怖。


 澪の喉が凍った。

 その記憶に混ざっていた断片は、見覚えがありすぎた。


 漏らされた秘密。

 崩れた関係。

 取り返しのつかない瞬間へ落ちていく流れ。


 自分が軽く押したはずのものが、他人の心を深く裂き、その裂け目から別の惨事を呼び込んでいた。


 受け取ったのは他人の記憶のはずだった。

 なのに、その痛みは自分の行動とつながっていた。

 他人から買ったはずのトラウマの中に、自分が生み出した傷の輪郭があった。


 澪はその記憶をすぐ、あの業者へ持ち込んだ。

 男は以前と同じ笑みを浮かべたが、今回は端末を見てから少し黙った。


「これは良い品です」と男は言った。


「濃い。深い。しかも連鎖している」


 澪は嫌な予感を覚えた。


「早く消して」


 男は肩をすくめた。


「もちろん引き取れます。ただし、今回は少し条件が違う」


 画面に表示された契約文を見て、澪は息を止めた。


 売却後、売り手は対象記憶についての所有権を主張できない。

 売却後、業者は記憶の二次販売、複製販売、加工販売を行える。

 売却後、当該記憶に由来する影響について責任を負わない。


「複製?」


 かすれた声で澪が問うと、男は親切そうにうなずいた。


「需要があるんですよ。強い記憶は。娯楽としてではありません。教育、矯正、研究、依存。用途はいろいろです」


 男は淡々と続けた。


「とくに、自分の小さな悪意が大きな破滅へつながる記憶は人気がある。誰にでも起こりうるから」


 澪は吐き気を覚えた。

 自分が生んだ傷が、商品になる。


 誰かの頭へ流し込まれる。

 また別の誰かが、その痛みに金を払うか、金を受け取るかする。

 そうして傷は回る。


 やめて、と言おうとして、澪は気づいた。

 自分も同じことをしてきた。


 誰かの捨てたい痛みを買い、値段を見て、もっと深い傷を求めた。

 すでに輪の中にいた。


 契約を断れば、この記憶は自分に残る。

 受け入れれば、苦しみは消える。金も入る。

 代わりに、自分が作った傷が市場へ流れる。


 澪の指は長く止まった。

 けれど、眠れない夜の記憶がよみがえった瞬間、理性は崩れた。

 彼女は承認の表示に触れた。


 帰宅してから、澪は自室の暗さに目を慣らしながら、ぼんやり端末を開いた。

 業者からの入金通知が届いていた。

 そして別の画面には、新しい募集の一覧が並んでいた。


 受け取り手募集。

 高負荷歓迎。

 好条件。


 澪はしばらく見つめたあと、画面を閉じた。

 指先が小さく震えていた。


 もうやめるべきだと、頭では分かっていた。

 だが、その理解は、以前のような確かな重みを持たなかった。


 眠気はなかった。

 胸の痛みも、もう前ほど鮮明ではない。

 さっき売ったからだろう。


 それでも、うすい膜のような感覚だけが残っていた。

 何か大切な部分を削りすぎたあとの、冷えた空白。


 そのとき、端末に通知が届いた。

 見知らぬ差出人から、短い文面だった。


「この前の記憶、とても良かった」

「次は、もっと強いものをお願い」


 澪はしばらく意味を理解できなかった。

 やがて、血の気がゆっくり引いていった。


 業者は売ったのだ。

 誰かに届いたのだ。

 そして、その誰かは味をしめた。


 画面にはさらに追伸があった。


「あなたなら、作れるでしょう」


 澪は端末を取り落とした。

 乾いた音がして、それきり部屋は静まった。


 静かなのに、どこかで市場のざわめきが続いている気がした。

 忘れたい人間と、受け取りたい人間と、売りさばく人間の声が、見えない場所で重なり続ける。


 澪はようやく理解した。

 この商売で本当に高く売れるのは、すでにある傷ではない。

 新しく生まれる傷だ。


 しかも、他人のものでは足りない。

 自分の手で育てた傷ほど、濃く、深く、よく売れる。


 そしてその瞬間、自分の中にまだ売っていない感情が残っていることにも気づいた。

 恐怖ではない。

 後悔でもない。

 もっと濁った、もっと危ういもの。


 次は何をすれば、どれほどの値がつくのか。

 その問いだけが、暗がりの中でいやに澄んでいた。


 澪は落ちた端末を拾わなかった。

 拾えば、きっと返信してしまう。

 なのに、拾わないままでも、文面は頭にはっきり残っていた。


 もっと強いものをお願い。


 眠れない夜よりも、その言葉のほうがずっと恐ろしかった。

 それでも彼女は、朝が来たとき自分がどちらを選ぶのか、もう完全には信じられなくなっていた。

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