トラウマ転売ヤー
雨の気配を含んだ空気が街を包む夕方、澪は制服のまま端末をのぞき込んでいた。
流行の話題にはだいたい触れておきたい性分だった。新しい配信サービスが始まれば試し、話題の菓子が出れば買い、誰かが便利だと言えばひとまず使ってみる。
記憶の売買が合法化されてからも、その好奇心は変わらなかった。
嫌な記憶を手放したい人が金を払い、代わりに引き受ける人が金を受け取る。
最初に聞いたとき、澪はずいぶん気楽な仕組みだと思った。忘れたい人は楽になれる。引き受ける人は金がもらえる。
つらさに値札がついたようで少し気味が悪かったが、同時に、うまくできた商売にも見えた。
掲示板には募集が並んでいた。
失恋の記憶。受験の失敗。職場での叱責。家族との口論。
どれも小遣い稼ぎにはちょうどよさそうだった。澪は軽いものを選ぶつもりでいた。
けれど、表示された報酬額を見た瞬間、考えが鈍った。
高い。高校生の小遣いとしては目がくらむほど高い。
応募条件には、同意書の確認と適性検査、それから「受容後の精神変調については自己責任」とあった。
警告文は、だいたい大げさに書かれるものだと澪は思っていた。
少し気分が沈む程度だろう。映画の胸くそ悪い場面を引きずるようなものかもしれない。そう考えて、彼女は申し込みを済ませた。
記憶の受け渡しは拍子抜けするほど簡単だった。
白い部屋。無機質な説明。署名。機械の起動音。
そのあと、何かが胸の内側に滑り込んでくる感覚があった。
知らないはずの記憶が、知っているものとして根を張った。
暗い空気。乾いた声。逃げたいのに逃げられない緊張。
誰かの表情が焼きついて離れない。
途切れた息。押し殺した悲鳴。
その記憶は映像のように見えるだけではなかった。体のこわばりや喉の詰まりまで一緒に流れ込んできた。
何を思い出しても、その記憶はすぐ背後から手を伸ばしてきた。
その夜、澪は眠れなかった。
目を閉じると、知らないはずの恐怖が待っていた。まぶたの裏に張りつき、体温を奪い、呼吸のたびに存在を主張した。
朝になっても疲れは取れず、授業の言葉は耳を通り抜けた。友人の笑い声が遠かった。
数日もすると、澪は自分の内側にあるものを「借り物」と呼べなくなっていた。
借り物ではない。たしかに自分のものではないのに、体は自分の記憶として反応する。
駅のアナウンスに似た音で肩が跳ねる。誰かの香水に吐き気が込み上げる。知らない人の声色に、理由のない怯えが生まれる。
自分の人生と無関係な傷が、自分の神経だけを確実に削っていく。
澪は記憶を手放す側の窓口を調べた。
当然、費用がかかる。
受け取った報酬のかなりを返しても足りない。
しかも手数料まで乗る。
ばかみたいだ、と澪は思った。
稼ぐために受け取って、苦しくなって、捨てるために金を払う。
こんなものなら最初から手を出さなければよかった。
けれど、もう遅かった。
眠れないまま端末をさまよっていると、検索結果に出てこない掲示板へ誘導する短い文に行き当たった。
「高負荷記憶、歓迎」
「通常窓口より有利」
「事情問わず即日対応」
開いた先は、やけに簡素な画面だった。業者名も所在地も曖昧で、連絡先だけが妙に親切に並んでいる。
危ないに決まっている、と澪は思った。
だが、まともな窓口よりずっと好条件だった。引き取り手がいないような重い記憶でも歓迎する、と書いてある。
しかも、手放す側が金を払うどころか、わずかだが受け渡しの対価まで出るという。
怪しさは、眠れない夜に負けた。
指定された場所で待っていたのは、年齢の読めない男だった。
清潔ではあるが印象に残らない服装で、営業用の笑みだけが妙にうまい。
「つらいでしょう」と男は言った。
その言い方が、慰めより商売に近いことを澪はすぐ感じ取った。
「重い記憶は持っているだけで価値が下がる。新鮮なうちのほうがいい」
まるで食品の話だった。
澪は気味の悪さを覚えながらも契約を進めた。
処理は短時間で終わった。
機械が止まり、男が確認用の質問をいくつか口にした。
記憶の輪郭がぼやけている。胸を締めつけていた何かが消えている。
澪はその場で深く息を吸えた。吸っても苦しくないことに驚いた。
端末には報酬が振り込まれていた。
受け取った金は少なくない。
最初の窓口でもらった金に上乗せされている。
苦しい思いをして、最後には手元の額が増えている。
その事実が、澪の感覚を静かにゆがめた。
帰り道、彼女は思った。
もう一度やればいい。
軽い記憶では駄目だ。重い記憶のほうが値がつく。
どうせ苦しくなっても、あの業者に流せばいい。
その発想に至った瞬間、澪は自分の中で何かが変わったことを知った。
怖いとは思った。
だが、それ以上に理屈が立っているように見えた。
それからの澪は、記憶の募集を探す目つきが変わった。
話題性でも珍しさでもなく、値段を見るようになった。
投稿文のにじむ言葉から傷の深さを推し量り、報酬を計算する。
軽い後悔やありがちな失敗談には目もくれない。
もっと重く、もっと深く、人が本気で捨てたがるものばかりを追った。
けれど、高値がつく記憶はめったに出ない。
本当に深い傷を持つ人間は、そう簡単に表へ出てこない。
出てきたとしても、条件は厳しい。適性の制限がある。競争もある。
澪が欲しがるほど、そういう案件は手の届くところに転がっていなかった。
焦りが生まれた。
最初の成功が、かえって澪をせき立てた。
あれほどの金額をもう一度。できればもっと大きく。
その欲が、彼女の視界からブレーキを消していった。
学校では、相談室に出入りする生徒へ自然に近づくようになった。
匿名の悩み掲示板にも潜った。
夜の街で、いかにも事情を抱えていそうな人間を観察することも覚えた。
記憶を持て余している人間が、どんな表情をするかを学んでいった。
誰かの苦しみを見つける目だけが、妙に育っていった。
やがて澪は、募集を待つだけでは足りないと思い始めた。
大きな傷は、待っているだけでは手に入らない。
ならば、傷が生まれる場所へ近づけばいい。
そんな考えが頭をもたげても、はじめは自分で否定できた。
だが、否定は日ごとに弱くなった。
危ない集まりに顔を出す。
揉め事の気配が濃い場へ向かう。
誰かの秘密が売買される裏の掲示板をのぞく。
事件の匂いがすれば、好奇心という顔で近づく。
澪は自分に言い訳した。観察しているだけだ、と。
けれど本心では、もっと値のつく傷に触れたいと思っていた。
ある晩、彼女はついに、自分から引き金へ手を伸ばした。
人の弱みを知っている者に、別の誰かの秘密をそっと漏らした。
直接傷つけたわけではない。
手を下したとは言えない。
そう思い込もうとした。
だが、その情報は確実に誰かの関係を壊し、取り返しのつかない場面を生んだ。
その後、澪は震える手で掲示板を見た。
新着の投稿が上がっていた。
人格の崩れた文章。切迫した文面。
手放したい記憶がある、と。
報酬額を見た瞬間、心臓が鳴った。
高い。
今まで見た中でも際立っていた。
応募は通った。
受け渡しも済んだ。
流れ込んできた記憶は、澪の想像を超えていた。
そこにあったのは、壊れていく人間を傍観した記憶ではなかった。
壊れるきっかけを与えた側の記憶だった。
ほんのひと押しのつもりで告げた言葉。
深刻な結果になるとは思わなかったという自己弁護。
それでも消えない、加害の自覚。
自分が壊したのだと認めたくない者の、醜く湿った恐怖。
澪の喉が凍った。
その記憶に混ざっていた断片は、見覚えがありすぎた。
漏らされた秘密。
崩れた関係。
取り返しのつかない瞬間へ落ちていく流れ。
自分が軽く押したはずのものが、他人の心を深く裂き、その裂け目から別の惨事を呼び込んでいた。
受け取ったのは他人の記憶のはずだった。
なのに、その痛みは自分の行動とつながっていた。
他人から買ったはずのトラウマの中に、自分が生み出した傷の輪郭があった。
澪はその記憶をすぐ、あの業者へ持ち込んだ。
男は以前と同じ笑みを浮かべたが、今回は端末を見てから少し黙った。
「これは良い品です」と男は言った。
「濃い。深い。しかも連鎖している」
澪は嫌な予感を覚えた。
「早く消して」
男は肩をすくめた。
「もちろん引き取れます。ただし、今回は少し条件が違う」
画面に表示された契約文を見て、澪は息を止めた。
売却後、売り手は対象記憶についての所有権を主張できない。
売却後、業者は記憶の二次販売、複製販売、加工販売を行える。
売却後、当該記憶に由来する影響について責任を負わない。
「複製?」
かすれた声で澪が問うと、男は親切そうにうなずいた。
「需要があるんですよ。強い記憶は。娯楽としてではありません。教育、矯正、研究、依存。用途はいろいろです」
男は淡々と続けた。
「とくに、自分の小さな悪意が大きな破滅へつながる記憶は人気がある。誰にでも起こりうるから」
澪は吐き気を覚えた。
自分が生んだ傷が、商品になる。
誰かの頭へ流し込まれる。
また別の誰かが、その痛みに金を払うか、金を受け取るかする。
そうして傷は回る。
やめて、と言おうとして、澪は気づいた。
自分も同じことをしてきた。
誰かの捨てたい痛みを買い、値段を見て、もっと深い傷を求めた。
すでに輪の中にいた。
契約を断れば、この記憶は自分に残る。
受け入れれば、苦しみは消える。金も入る。
代わりに、自分が作った傷が市場へ流れる。
澪の指は長く止まった。
けれど、眠れない夜の記憶がよみがえった瞬間、理性は崩れた。
彼女は承認の表示に触れた。
帰宅してから、澪は自室の暗さに目を慣らしながら、ぼんやり端末を開いた。
業者からの入金通知が届いていた。
そして別の画面には、新しい募集の一覧が並んでいた。
受け取り手募集。
高負荷歓迎。
好条件。
澪はしばらく見つめたあと、画面を閉じた。
指先が小さく震えていた。
もうやめるべきだと、頭では分かっていた。
だが、その理解は、以前のような確かな重みを持たなかった。
眠気はなかった。
胸の痛みも、もう前ほど鮮明ではない。
さっき売ったからだろう。
それでも、うすい膜のような感覚だけが残っていた。
何か大切な部分を削りすぎたあとの、冷えた空白。
そのとき、端末に通知が届いた。
見知らぬ差出人から、短い文面だった。
「この前の記憶、とても良かった」
「次は、もっと強いものをお願い」
澪はしばらく意味を理解できなかった。
やがて、血の気がゆっくり引いていった。
業者は売ったのだ。
誰かに届いたのだ。
そして、その誰かは味をしめた。
画面にはさらに追伸があった。
「あなたなら、作れるでしょう」
澪は端末を取り落とした。
乾いた音がして、それきり部屋は静まった。
静かなのに、どこかで市場のざわめきが続いている気がした。
忘れたい人間と、受け取りたい人間と、売りさばく人間の声が、見えない場所で重なり続ける。
澪はようやく理解した。
この商売で本当に高く売れるのは、すでにある傷ではない。
新しく生まれる傷だ。
しかも、他人のものでは足りない。
自分の手で育てた傷ほど、濃く、深く、よく売れる。
そしてその瞬間、自分の中にまだ売っていない感情が残っていることにも気づいた。
恐怖ではない。
後悔でもない。
もっと濁った、もっと危ういもの。
次は何をすれば、どれほどの値がつくのか。
その問いだけが、暗がりの中でいやに澄んでいた。
澪は落ちた端末を拾わなかった。
拾えば、きっと返信してしまう。
なのに、拾わないままでも、文面は頭にはっきり残っていた。
もっと強いものをお願い。
眠れない夜よりも、その言葉のほうがずっと恐ろしかった。
それでも彼女は、朝が来たとき自分がどちらを選ぶのか、もう完全には信じられなくなっていた。




