「無能」と評価された男の本当の価値
防壁ゲートの修理が完了したアレン。だが、仕事の余韻に浸る暇もなく、本社から来た一団が現れた。かつて彼を「無能」と断じ左遷した男たちは、今や自分たちのほうが窮地に立たされている。技術とは何か。合理性とは何か。
アレンは露出した真鍮製の油圧パイプに右手の指先を添えた。
管壁を通じて伝わるのは、不規則な詰まりの解消された、層流に近い滑らかな拍動だ。魔道士の視線が商業地区の奥へと向けられるのとほぼ同時に、僕はバイパスバルブの角度をコンマ数ミリだけ調整した。
「油圧の残圧、安定。リークなし」
指先から『機能定義の書き換え』を流し込む。このゲートに求められているのは、単なる開閉ではない。重厚な装甲板を、自重による摩擦を相殺しながら、最小限の魔力供給で滑走させることだ。
僕の脳内には、巨大な鋼鉄の板とレールの間に介在する摩擦係数が、数値として可視化されている。その数値を、理想的な潤滑状態を示す値へと「書き換える」。
「……これで、旧ギルドの連中が設定していた維持コストの三割は削れるはずだ」
僕を「無能な残飯処理係」としてセクター7に飛ばした連中は、この手の微細な最適化を「手抜き」や「職務怠慢」と呼んだ。彼らにとって、魔法とは派手に魔力を消費して現象を引き起こすものであり、構造そのものに干渉して消費を抑える僕の技術は、理解の範疇外だったのだ。左遷された真の理由は、おそらく政治的なものではなく、単なる彼らの無知と、僕の低い自己評価が招いた認識の齟齬だろう。
「ねえ、アレン! もう終わったの?」
横に立つミーナが、不思議そうにこちらを覗き込んできた。
「ああ、駆動系の最適化まで含めて完了だ。これなら次にスライムが詰まらない限り、百年は持つ」
僕は計器の数値を記録し、作業用の上着で汚れた指を拭った。隣で一部始終を見ていた青いローブの魔道士が、眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、こちらに冷徹な視線を投げかけているのがわかる。彼女は僕の手法が、通常の魔道回路のバイパスではなく、より根本的な「法則の調整」であることを察しているようだった。
「あなたのやっていることは、通常の整備の範疇を越えていますね。なぜそんな技術を、あのような組織で腐らせていたのですか?」
魔道士が、分析するような静かな声で問いかけてきた。
「……単なるメンテナンスですよ。止まっていると、寝つきが悪いので」
僕は素っ気なく答え、ゲートの脇にある古びた管理用詰所へと視線を移した。
その時、門の向こう側から複数の足音が響いてきた。
石畳を乱暴に叩くブーツの音と、苛立ちを含んだ怒号。
現れたのは、見慣れた、そして二度と見たくなかった意匠――本社の紋章を胸に掲げた、一団だった。
「え……アレン、あの人たち……もしかして、本部の?」
ミーナが声を潜め、僕の袖を引いた。ギルドの連絡員として社内の事情にはそれなりに通じている彼女だ。胸元の紋章を見れば、察しはつくだろう。
「ああ。気にするな」
僕は、背後に迫る怒号を無視し、指先に神経を集中させた。
真鍮の管壁を通じて伝わってくるのは、先ほどまでの不快な異音を伴う断続的な揺れではない。
「機能定義の書き換え」によって余剰な摩擦を削ぎ落とした駆動系が奏でる、絹糸が擦れるような繊細で均一な振動だ。
「……完璧だ」
僕は小さく声を漏らした。
数値化された視界の中で、微小な摩擦係数が理想値に張り付いている。
本社の連中が推奨していた「力任せの魔力圧搾」では、決して辿り着けない静謐な領域だ。
「この静寂が理解できない連中に、何が分かるっていうんだ」
彼らはいつも、極限まで最適化されたこの状態を「出力不足」や「職務怠慢」と断じ、僕に無能の烙印を押してきた。
だが、今この指に響く油圧パイプの振動こそが、流体がかつてないほど自由かつ論理的に、門の巨体を押し上げている証拠だった。
「おい、貴様! そこで何をしている!」
鼓膜を乱暴に叩いたのは、整備された機械の拍動を汚す、聞き覚えのある傲慢な声だった。
「……やはり、耳障りだな」
僕は指先を離さぬまま、重い溜息を呑み込んだ。
僕は背後から浴びせられる怒号を、ノイズとして脳の隅へ追いやった。
今、優先すべきは目の前の駆動系だ。視界に展開された不可視の数式群――『開閉速度』のパラメータへと指先を滑らせる。
「定数4.2から6.8へ。ただし、トルクのピークは維持したまま、慣性によるロスを相殺する」
指先を通じて、僕の意図が真鍮の管の奥へと浸透していく。
それは魔法というよりは、プログラムの修正に近い。駆動シリンダーが持つ『反応の遅延』という定義を、構造的な限界値の直前まで削ぎ落としていく作業だ。
「……よし、これで終わりだ」
重厚なはずの装甲板が、まるで重量を失ったかのように滑らかに動き始めた。
軋みも、振動もない。ただ、空気を鋭く裂く風切り音だけが、ゲートが物理的な法則を超えて最適化されたことを告げていた。
「……驚きました。魔力の変換効率が、理論上の限界値に張り付いています」
青いローブの魔道士が、僕の手元を凝視したまま、低く呟いた。
彼女の瞳には、僕が放つ魔力の「余剰のなさ」が映っているのだろう。通常の魔道士がこの規模の質量を動かせば、周囲には行き場を失った熱や光、衝撃波が散るはずだ。だが、僕の作業半径には、塵一つの乱れも生じていない。
「技術……いえ、これは精密機械の設計そのものです。あなたは、魔力という不確定要素を完全に制御していますね」
「……過大評価です。ただ、無駄な摩擦が嫌いなだけです」
僕は作業用の上着で手を拭い、ようやく背後の闖入者たちへと体を向けた。
僕が向き直った先では、本社から来た連中が顔を真っ赤にして喚いていた。だが、隣に立つ青いローブの魔道士は、彼らの存在など眼中にないらしい。彼女は僕が先ほどまで触れていた真鍮の配管を凝視し、静かな興奮を押し殺した声で問いを重ねてきた。
「……通常の魔導回路のバイパスではありませんね。あなたは、事象の根底にある『定義』そのものを弄ったのですか?」
「……大仰な話じゃない。ただのメンテナンスですよ。数値が歪んでいたから、適正な値に戻しただけだ」
僕は興味なさげに短く返し、手元の記録用端末を起動した。
「定義:駆動摩擦係数、目標値0.003。実測値0.0028。維持コストの削減率は当初の予測を超え、三十二%で確定……と」
淡々と数値を入力していく。ゲートの駆動音は、今や絹糸が擦れ合うような繊細で均一なものへと変わっている。この静寂こそが、僕の『書き換え』が成功した何よりの証拠だった。
「……完了だ」
僕は端末を閉じ、ようやく目の前で怒号を撒き散らす元同僚たちへと、冷めた視線を固定した。
彼らが囲んでいるのは、荷崩れしかけた巨大な搬送馬車だ。車輪が石畳の溝に深く沈み込み、十数人の構成員たちが魔法糸で強引に引き上げようと無駄な怒号を上げている。リーダー格の男が叫ぶたび、注ぎ込まれる過剰な魔力が大気を震わせ、彼らの胸元で鈍く光る本社の紋章が、その無策な力押しを象徴しているようだった。
「出力を上げろ! 魔法触媒を惜しむな!」
「……無策だな」
僕の視界には、摩擦熱で臨界点を示す車軸の数値が、警告色で点滅して映る。焦げ付く油の臭いすら、彼らには届いていないらしい。
「力任せの魔力圧搾」を至上とする彼らの手法では、抵抗を増やすだけで馬車は一ミリも動かない。かつて僕を「効率厨の無能」と切り捨てたその傲慢さが、今の彼らを無様に縛り付けていた。
「……おい。見ろ、何が転がっているかと思えば」
濁った声が、石畳の熱気に混じって耳に届いた。
馬車を囲んでいた一団の中から、一際派手な、金の縁取りが施された外套を纏った男が歩み寄ってくる。かつての僕の上司であり、僕を『無能』と断じてセクター7への左遷を主導した男だ。
「左遷された無能が、何故こんなところをうろついている」
「ちょっと! 何よその言い方! アレンは今、このゲートを直したばかりなのよ!?」
ミーナが一歩前に出て、僕を庇うように両腕を広げた。連絡員としての立場も忘れたその行動は、彼女らしい直情的な反応だった。
「ミーナ、いい。相手にするだけ時間の無駄だ」
男の嘲笑と同時に、背後の部下たちが一斉に杖を掲げた。彼らが展開したのは、出力の数値だけを追い求めた『剛力付与』を幾重にも重ねた、極めて粗雑な強化術式だ。
「馬鹿の一つ覚えだな」
僕は内心で切り捨てると、怒号の飛び交う馬車へと静かに歩み寄った。
「貴様、何のつもりだ! その薄汚い手で触れるなと言っているのが――」
金縁の外套を揺らして詰め寄る男を、僕は視線すら合わせずに無視した。
膝を突き、泥にまみれた車輪の接地面に指を触れる。
「定義:静止摩擦係数、目標値0.001。同時に、車軸の熱膨張を相殺」
指先から流し込んだ意思が、物理的な抵抗という『壁』を概念ごと剥ぎ取っていく。あれほど執拗に車輪を噛んでいた泥の溝が、今は滑らかな氷の坂道も同然だった。
「……押せ」
僕の言葉に応じるように、巨大な質量が氷の上を滑るような軽やかさで動き出した。
背後で、金縁の外套の男が間の抜けた声を漏らすのが聞こえたが、振り返る価値もない。
「す、すごい……あんなに動かなかったのが、一瞬で……!」
ミーナが目を丸くしている。隣の魔道士は、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、僕の指先から車輪の接地面へと視線を走らせていた。
「……やはり、既存のどの体系にも属さない手法ですね。興味深い」
僕はミーナと魔道士を促し、ゲート横にある石造りの詰所へと足を踏み入れた。
「力任せの魔力圧搾」を至上とする本社の連中と、「定義の書き換え」で摩擦を根本から削ぐアレン。その対比は、単なる技術論ではなく、世界観そのものの衝突です。かつてアレンを左遷した男たちは、今や自分たちが壊れた馬車に縛られていました。




