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崩壊までの残り時間

命懸けのメンテナンスを終え、セクター7に戻ったアレン。しかし手にした報酬はわずか銀貨三枚――工具の消耗費と食費で消える端金でした。翌朝、ギルドの連絡員を名乗る少女ミーナが現れ、新たな依頼を持ち込みます。商業地区の防壁ゲート不具合調査。物流の要所を握るこの案件は、報酬交渉の好機となるか――

指先でページをめくると、長年の湿気でふやけた紙が不快な音を立てた。前任者が記した文字は酷く走り書きで、一部は油脂のような汚れで判別不能だが、そこに並ぶ数値の羅列は、このセクター7がどれほど絶望的なパッチワークによって維持されてきたかを雄弁に物語っていた。


「……このセクターの配管系統は、設計上の耐用年数をとっくに三倍は超過しているな」


僕は肺の奥に溜まった重い空気を吐き出し、手帳を閉じた。これ以上の解析は明日の自分に任せるべきだろう。視界の端で「構造解析アナライズ」の残滓が火花のように散り、意識が急速に泥のような眠りへと沈んでいった。


翌朝、僕はセクター7の外縁部に位置する、簡素というよりは荒廃に近い自室で目を覚ました。

窓から差し込む薄暗い光が、剥げかかった壁紙を照らしている。僕は起き抜けの重い体を引きずり、使い込まれた作業服を羽織った。布地は至る所が擦り切れ、昨日の水路作業で付着した泥の匂いが微かに残っている。


僕は机の上に、昨日の報酬である銀貨を並べた。


「……三枚。これだけか」


手元にあるのは、わずか銀貨三枚と、数枚の銅貨。

僕は頭の中で冷徹に数値を弾き出す。次回の配給までの食費、暖房用の燃料代、そして大型レンチや保守用工具といった道具のメンテナンス費用。それらを差し引けば、手元に残る余裕など無に等しい。昨日の命懸けの水路修理、そして「機能定義再設定」に伴う精神的な摩耗を考慮すれば、この報酬はあまりにも不当だった。


「リスクとリターンが釣り合っていない。今のままでは、装備の更新どころか、明日食うものにさえ困る。もっと継続的で、かつ『技術的難易度』に見合った対価が得られる仕事を見つけないと、この街のインフラが崩壊する前に僕が潰れるな」


そう結論づけたとき、板切れを打ち付けたような粗末なドアが、遠慮のない音を立てて叩かれた。


「おっはよー! 誰かいますかー? ギルドの連絡員でーす!」


聞き覚えのない、やけに明るい声だった。僕は警戒しつつドアを薄く開けると、そこには息を弾ませた少女が立っていた。歳は僕より二つほど下だろうか。使い古されたギルドの革鞄を肩から斜めにかけ、その上に羊皮紙の束が溢れんばかりに詰め込まれている。


「あ、いた! あなたがアレンさんね? 昨日のセクター7主弁の緊急整備、すごかったって管理区で話題になってるわよ! 私、ギルドの連絡員をやってるミーナ。今日からこのセクターの担当になったの。よろしくね!」


少女――ミーナは、僕の沈んだ表情など意に介さない様子で、快活に片手を差し出してきた。僕はその手を握り返す代わりに、彼女の背後に人影がないことを確認した。


僕は溜息を一つついて、銀貨を乱雑にポケットに突っ込んだ。


「……朝から騒がしいな。それで、話というのは」


ミーナはこちらの素っ気ない態度など気にする様子もなく、革鞄から一枚の羊皮紙を引き抜いて振ってみせる。


「昨日の水路の件、管理区の連中が驚いてたんだから。あんな古いバルブを動かせる人なんて、もう他にいないって。だからこれ、もっと『ましな』案件だと思うわよ?」


差し出された依頼書に目を落とす。そこには「商業地区・防壁ゲートの不具合調査」と記されていた。


「防壁ゲート……。もしあそこが止まれば、物流の停滞による損失は水路の比ではないはずだ。ならば、こちらの言い値を通す余地もあるということか」


僕は手近な棚から、油の馴染んだレンチと潤滑剤、そしてボロボロになった道具鞄を掴んだ。


「話だけは聞こう。ただし、次はボランティア同然で動く気はないからな」


「わかってるって! さあ、管理事務所に行きましょう。交渉は私が手伝ってあげるから!」


僕はミーナの快活な背中を追い、埃っぽい通路へと踏み出した。


通路の天井から滴る重い水滴が、作業服の肩に染みを作る。セクター7の空調システムは、もはや空気ではなく錆と湿気を循環させるための装置に成り下がっていた。


隣を歩くミーナの足取りは、この澱んだ空気には不釣り合いなほど軽い。


「アレン! そんなに難しい顔してたら、仕事の運まで逃げちゃうよ?」


「運などという不確定要素を計算に入れたことはない」


僕は腰の道具鞄で揺れる大型レンチに視線を落とした。ジョー部の摩耗率は一五%を超えている。研磨によるメンテナンスは既に限界で、次に高トルクの作業を行えば噛み合わせが滑って使い物にならなくなる。だが、銀貨三枚では新品への更新はおろか、部品の交換すら心許ない。


「道具が劣化すれば作業効率が落ち、報酬が減る。報酬が減れば道具を直せない。……この悪循環を断ち切るには、防壁ゲートで相応の技術料を認めさせるしかないな」


足元を這う錆びた配管の振動が、靴底を通じて僕に訴えかけてくる。このセクターは、悲鳴を上げる余裕すらなく、静かに崩壊の時を待っている。


僕はポケットの中で冷たい銀貨を転がし、管理事務所へと続く錆びた扉を見据えた。


管理事務所の扉を抜け、僕たちは商業地区へと続く連絡通路へ足を踏み出した。

歩みを進めるたびに、視界の端で青白いグリッドが明滅する。「機能定義書換コア」とは別に僕が持つもう一つの能力――「構造解析アナライズ」。物質の内部構造を透視し、劣化や歪みを数値として可視化する診断スキルだ。天井の不気味な亀裂や配管の末期的な腐食が、警告の赤いノイズとして視界を埋めていく。


「……左翼支柱の疲労破壊まで、あと四五〇時間といったところか」


目に入るすべてが、設計寿命を三倍以上超過したガラクタの集積体にしか見えない。

剥離したコンクリート。脳内のリストには、このセクターが「全壊」に至るまでの秒読みが蓄積されていく。

商業地区への道は、僕にとって腐りかけた巨大な街の死体解剖に等しかった。


通路の奥から、胃の底を揺さぶるような重低音が響いてきた。セクターを隔てる巨大な鉄塊――「防壁ゲート」が、湿った霧の向こうからその威容を現す。


高さ十五メートルを超えるそれは、都市の安全を保障する盾というより、巨大な墓標のように僕の視界を塞いでいた。


巨大なゲートの付け根、厚い錆に覆われたヒンジへと視線を固定する。


構造解析アナライズ


視界を走る青白いグリッドが、表面の腐食を透過し、鋼鉄の深層に眠る「歪み」を可視化した。内部の軸受けにかかる応力集中は設計限界の二〇〇%を超え、微細な亀裂が網目状に広がっている。


僕は解析結果を脳内の非揮発性領域へ叩き込み、重い足取りで管理事務所の受付へと向かった。


「おい。防壁ゲートの担当員に繋げ。手遅れになる前にな」


カウンターの奥、淀んだ空気の中で退屈そうに書類を捲っていた事務員が、煩わしそうに顔を上げた。


「防壁ゲート? 悪いが予算なら底をついてる。不具合なら来期の定期メンテナンスまで待て」


事務員は手元の端末から目を離さず、吐き捨てるように言った。その声には、この街の至る所で耳にする「あきらめ」という名の錆がこびりついている。


僕は手にしたばかりの「作業許可証」をポケットにねじ込み、カウンターを離れた。事務員の顔は、僕が突きつけた「ゲート崩壊予測時刻」の衝撃で青ざめたままだ。


「……アレン、本当にやるの? あんなにボロボロなのに」


「直すのではない。最適化オプティマイズするだけだ」


僕は腰の道具鞄から、使い古されたレンチを引き抜いた。


巨大な防壁ゲートの基部、油と錆が混じり合った黒い泥がこびりつくヒンジの隙間に、躊躇なく手を差し込む。

指先に伝わるのは、設計上の摩擦係数を遥かに逸脱した、粘りつくような不気味な違和感だった。


前回の地下探索・戦闘回避から一転、今回はアレンの日常と経済的な苦境を描きました。銀貨三枚という報酬は、命懸けの労働に対してあまりにも不当です。道具の劣化は作業効率を下げ、さらに報酬を押し下げる――この悪循環を断ち切るため、アレンは防壁ゲートという大型案件に賭けます。


新たに登場したギルドの連絡員ミーナ。アレンの沈んだ世界に飛び込んできた彼女は、物語にどんな変化をもたらすのでしょうか。

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