最初の修繕
地下の暗闘は佳境を迎えます。前回、半壊したバルブにレンチを叩きつけたアレン。しかしその衝撃音は、鉄扉の向こうに潜む「何か」を目覚めさせてしまいました。崩落寸前の区画で戦闘は許されない。残された手段は、物理法則の隙間を縫う『定義の書き換え』のみ。
命懸けのメンテナンスがもたらす収支決算は、果たして黒字か赤字か――。
レンチの一撃が、半壊したバルブの軸を震わせた。固着した機構が軋みを上げてわずかに緩む。だがその乾いた金属音は、暗闇の深淵へと容赦なく拡散していった。
脈動に合わせるように、配管の奥から金属を掻き毟るような不快な音が返ってくる。鉄扉の向こうに潜んでいた「何か」が、僕の座標を捉えて動き始めている。
「……まずいな。完全に気づかれたか」
亀裂から噴き出す緑の蒸気は止まっていない。この「道標」を黙らせるには、歪んだバルブを最後まで回し切るしかなかった。
僕はハンドルに全体重を預け、無理やり一回転させた。劣化したグリスが焼ける臭いと共に、掌に微かな、しかし決定的な手応えが返る。
頭上から噴き出す緑の蒸気が、僕の作業服を湿らせ、皮膚に刺すような熱を帯びていく。周囲のマナ汚染濃度は0.89ミリベル。鼓膜の奥で高周波のノイズが爆ぜ、反響する怪物の足音と、自分自身の心拍音の区別がつきにくくなる。
僕は腰のベルトに差した大型レンチに指をかけ、コンマ数秒でその選択肢を切り捨てた。ここで戦闘による物理的衝撃を加えれば、この老朽化した区画そのものが崩落し、セクター7への供給ラインは永久に失われる。それは僕の「仕事」ではない。
「……戦う必要はない。仕様を書き換えれば済む話だ」
僕の持つ能力『機能定義書換』――既にそこにある物質の定義を書き換え、物理法則の範囲内でその挙動を最適化する力。無から有を生み出す奇跡ではないが、今の状況には十分だ。
目の前に漏れ出た緑の蒸気。本来は熱媒体として循環するためのものだが、今の僕には別の「機能」が必要だった。
(対象:漏洩蒸気。現在の定義:熱媒体。新規定義:吸音遮断材)
脳内のシステム・インターフェースに記述を上書きする感覚。
直後、脈打っていた緑の霧が、その質感を劇的に変化させた。気体としての拡散性を保ちながら、音波を吸収・減衰させる高密度の膜へと変貌を遂げる。
数メートル先まで迫っていた「掻き毟る音」が、分厚い真綿の壁に吸い込まれたかのように急速に遠のいていった。怪物は標的の音を見失い、困惑したように配管の外壁を叩いている。
その隙に、僕はさらにハンドルを回し込み、完全に弁を閉鎖した。最後の一回し。バルブの奥で金属同士が噛み合う鈍い衝撃が、防護グローブ越しに腕の骨まで響いた。
「これで、セクター7の連中が凍え死ぬことはない」
僕は呼吸を整え、額から流れ落ちる脂汗を汚れた袖で拭った。
視界を埋めていた緑の蒸気は、定義を書き換えられた影響で粘り気のある沈殿物へと変わり、ゆっくりと床の錆びたグレーチングへ滴り落ちていく。吸音遮断材としての機能は間もなく自然消滅するはずだが、配管の狂ったような鳴き声はすでに止んでいる。
「……マナ濃度、〇・九二ミリベル。これ以上は、僕の肺が持たないな」
鼓膜を刺すような高周波のノイズは、今や遠くの区画で蠢く「何か」の気配をぼやけさせていた。僕は腰のベルトに指をかけ、大型レンチの重量を再確認する。戦闘は避ける。それがこの掃き溜めのような地下で、エンジニアとして生き延びるための唯一の最適解だ。
配管を叩く硬質な音が、厚い吸音の壁に遮られ、歪んだ残響として足元に伝わってくる。
マナ汚染濃度〇・九二ミリベル。この域に達した聴覚干渉は、実在しない「虚音」を脳に叩き込み、現実の距離感を狂わせていく。
僕は耳鳴りの奥に潜む、奴の真の動作音――金属と組織が擦れる特有の周期を拾い上げ、その位置を特定した。
「右前方の主管に一体、後方のダクトに微かな爪音。計二体か」
網膜に投影された内部マップに、仮想の移動曲線を引く。
僕の『機能定義書換』によって定義を書き換えられた蒸気が、再び熱媒体へと回帰するまでの猶予は、あと四十二秒。
その間にこの蒸気が滞留している「音の空白地帯」を抜け、セクター8への連絡ハッチに滑り込む。
「計算上は余裕があるが……この汚染度だ。演算のラグを考慮して三秒は前倒しにする必要があるな」
僕は静かに、だが淀みのない足取りでグレーチングを蹴った。
指先が、腰のベルトに下げた大型レンチの冷えた鋼鉄を掠める。四十五センチの鋼鉄塊は、握りしめるだけで生存への確信をくれる物理的な「回答」だ。だが、僕はその誘惑をコンマ数秒で切り捨てる。
「……いや、悪手だ。ここで一撃でも叩き込めば、腐食した支持架が自重で爆ぜる」
網膜に投影された構造解析データは、この区画が耐震限界をとうに超えていることを示していた。物理的な衝撃は、怪物を屠る前にセクター7への供給ラインそのものを「粉砕」するだろう。それはエンジニアとしての、最も無様な敗北に他ならない。
指先は、漏れ出す熱気と緊張で感覚を失いかけていた。
僕は武器を振るうことを諦め、代わりに掌を熱い霧の中へと差し出した。
「暴力ではなく、調整を」
脳内のインターフェースに、定義を上書きするための論理コードが高速で展開されていく。『機能定義書換』の起動準備。
この蒸気が本来持っている、配管内部の磨耗を防ぐ「潤滑剤」としての側面を、僕は冷徹に切り捨てた。
その滑らかさを否定し、音響エネルギーを物理的に捕縛して熱へと変換する「吸音材」としての定義を、記述コードの最上位に固定する。
「……摩擦など不要だ。今はこの霧に、奴らの感覚を食い潰す壁になってもらう」
書き換えられた定義に従い、緑の霧は不可視の「音の檻」へとその性質を完成させた。
数メートル先、怪物の爪が配管を叩く硬質な音が、霧に触れた瞬間に濡れた布で叩いたような鈍い残響へと変質していく。
「捉えた。……迷っているな」
高感度な聴覚に依存する捕食者にとって、この不自然な「音の空白」は猛毒に等しい。
怪物は目の前に獲物がいるはずの空間を、ただ困惑したように、あるいは恐怖を覚えたかのように虚空を掻いている。
「物理法則の範囲内だ。あの耳には、もう僕の鼓動一つ届かない」
僕は静かに、だが確実に、レンチの重みを確認しながら、この「沈黙」が維持されている隙にセクター8への連絡ハッチへ向かうための足場を選別した。
沈黙に包まれた区画を、僕は影のように滑る。目指すセクター8への連絡ハッチの直前、主管から枝分かれした吸気弁が、脈打つ有機的な塊に覆われているのが見えた。
バイオスライム――マナ汚染を糧に増殖するこの「生きたヘドロ」が、弁の開閉機構を完全に埋め立てている。
「邪魔だ。退け」
粘つくバイオスライムの層に、僕は迷わず大型レンチの先端を叩き込んだ。半ば炭化した有機組織が嫌な音を立てて砕け、弁の隙間に食い込んでいた触手が千切れる。
ハンドルのスポークにレンチを噛ませ、全体重を預ける。錆び付いた金属が悲鳴を上げ、ミリ単位で回転を始めた。
ギチリ、と金属が断末魔のような音を立てて屈服した。弁が完全に開放され、高圧の蒸気が連絡通路側へと吸い込まれていく。僕は滑り込むようにハッチを抜け、背後で重厚な円盤を再び閉鎖した。
「……これでセクター7の心肺停止は免れた」
重圧から解放された配管が、心臓の鼓動に似た規則的な振動を壁の向こうで刻み始める。僕は大型レンチを腰に収めると、湿り気を帯びた連絡通路を抜け、セクター7の居住区へと足を向けた。
通路の先にある広場では、街灯代わりの発光苔が放つ弱々しい光の下、住民たちが枯れ果てた公共水栓を囲んでいる。
住民たちの期待に満ちた、だがどこか絶望の混じった視線を無視し、僕は広場の隅に設置されたギルドの自動受付端末へと向かった。
油汚れと煤にまみれたその金属筐体は、この地下都市の過酷な現状を象徴するように、低く不快な駆動音を立てている。
端末の画面が琥珀色に明滅し、僕のIDタグを読み取ると、無機質な報酬額が表示された。
「セクター7主弁緊急整備」に対する報酬は、わずか銀貨三枚。工具の消耗費と数日分の食費で消える端金だ。
だが、僕はこの額に不満を漏らすほど情緒的ではない。
僕は端末から離れ、作業着の懐から一冊の薄いノートを取り出した。あの地下通路で拾った、前任者のログブックだ。
「……『最深部、第四階層。供給ラインの根幹は、物理的な弁ではなく、未知の力学的干渉によって断絶されている』……か」
ページを繰る指先に、冷えた紙の感触が伝わる。
アレンの能力『機能定義書換』は、奇跡を呼ぶ魔法ではなく、既存の物質に別の「仕事」を割り当てる実務的なスキルです。蒸気を吸音材に、潤滑剤を音の檻に。華やかさとは無縁の、しかし確実にインフラを延命させる地味な技術。
報酬はわずか銀貨三枚――工具の消耗費と食費で大半が消える端金です。




