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地下よりの風

民間保守会社「ギア・メンテナンス」の辞令により、最果てのセクター7へ派遣された保守員アレン。

彼の最初の仕事は、停止した給水と、地下から響く不気味な「風切り音」の調査でした。

返事のように響いた金属音は、一瞬で止んだ。

だが、僕の鼓膜には、その余韻が不快な粘り気を持って張り付いている。


「……座標特定」


反射的に唇が動いた。恐怖よりも先に、職業的な習慣が身体を動かす。今の音は、風による共鳴や熱膨張による歪みではない。

明らかに質量の伴う物体が、別の物体と擦れ合った音だ。

音源は、おそらく地下。

僕の足元にある配管スペースの、さらに奥深くから響いてきた。


事務所の中にある通気口ベントに耳を寄せる。


「……風?」


微かだが、空気が流れている。

本来、この事務所の空調は排気設定のはずだ。だが、今は逆に、地下から事務所へ向かって風が吐き出されている。

湿った、鉄錆とカビの臭いを含んだ風。


「逆流しているのか」


単なるファン停止なら無風になるはずだ。逆流するということは、地下で何かが空気を押し上げている。

いずれにせよ、正常な動作環境ではない。


僕は腰のベルトに手をやり、携行灯を引き抜いた。

光の束を床下の点検ハッチへ向ける。

闇の底は何一つ見えない。ただ、先ほどの「金属音」と「逆流する風」が、そこにおいでおいでと手招きしているように思える。


「……業務範囲外だ」


一度はそう呟いて、携行灯を下ろしかけた。

だが、もしこの風が、給水弁を物理的に閉鎖している原因だとしたら?

あるいは、給水を止めた「何者か」が、まだそこに潜んでいるとしたら?


放置すれば、いずれ事務所ごと吹き飛ばされるかもしれない。

不確定要素リスクは、排除しなければならない。

これは好奇心ではない。生存のための、極めて合理的な損益分岐点の計算だ。


「……確認する」


僕は誰にともなく言い訳を呟き、錆びついたハッチの梯子に足をかけた。

温度が下がり、足首の皮膚が粟立った。


梯子の横桟を握りしめた掌に、ざらついた赤錆の感触が食い込む。一歩、また一歩と闇の深淵へ身体を沈めるたびに、肺を充たす空気は重さを増し、湿った鉄錆の腐臭が粘膜にまとわりついた。


「……深度、マイナス三。音源の残響周期から逆算される減衰率、一五パーセント。……まだ近いな」


恐怖で跳ねようとする鼓動を、冷徹な数値という名の重石で無理やり押さえつける。僕にとって、未知とは単に「未入力の変数」に過ぎない。


「座標特定。音源位置をX・Y・Z軸で再固定。誤差、五センチ以内」


唇が勝手に動くのは、長年染み付いた職業的な手癖だ。正体不明の怪異を「三次元座標上の点」へと強引に置換することで、僕は辛うじて理性の輪郭を保っていた。


喉を震わせる自分の呼吸音が、狭い縦穴の中で耳障りなほど大きく反響する。額から滑り落ちた汗が一滴、暗闇の底へと吸い込まれていった。


靴底が、ぬめるような感触と共に湿ったコンクリートの床を捉えた。


携行灯の光軸を水平に振る。縦穴の底から先は、配管が血管のように這う保守点検用の狭隘な通路が、粘りつくような闇の奥へと蛇行していた。


「……ここか」


肺に届く空気は、地上よりもさらに濃度を増した重い鉄錆の味を含んでいる。肌に当たる「逆流する風」の圧力が、深度を増すごとに明確な質量を伴って強まっていた。

本来、この地下区画は一方通行の吸気設定だ。だが、今の風は真逆。闇の深淵から、湿った汚濁を無理やり地上へと押し戻している。


「流体力学を無視した逆流。物理的な閉塞か、あるいは――」


考えたくもない最悪の推論を、僕は苦い唾液と共に飲み下した。

この先にある点検通路。そこから再び、耳を劈くようなあの不快な金属音が這い出してきた。

鼓膜を震わせるその音は、錆びついた巨大な歯車が無理やり噛み合わされたような、あるいは何かが硬質な壁を執拗に掻き毟っているような不快な響きを伴っていた。


僕は左手首に巻いた旧式の環境計器センサーに目を落とした。


「魔力汚染濃度、〇・八九ミリベル。規定値の九五パーセント……。呼吸だけで肺が焼けるわけだ」


空気に混じっているのは鉄錆の臭いだけではない。物理的な因果律を歪める「魔力」の残滓が、この地下空間には高濃度で滞留している。防護処置なしで長居すれば、脳の演算回路に回復不能なノイズが走るレベルだ。

引き返すべきだ、という生存本能が警鐘を鳴らす。だが、地下から吹き上がる「逆流」の風が、僕の首筋を湿った熱で舐めていく。


「……この異常な気圧差が、給水弁を物理的にロックしている直接原因だとすれば」


放置して戻れば、水という生命線ライフラインを失う。それは遅効性の死と同義だ。ならば、ここでリスクを取る方がまだ「計算」が合う。


「これは好奇心じゃない。業務命令オーダーの遂行だ」


自分に言い聞かせるように呟くと、僕は携行灯の光軸を一段下げ、闇が凝固したような通路の先へと足を踏み出した。


壁面に這う配管の隙間から、粘りつくような淡い燐光が漏れ出していた。

携行灯を向けると、そこには湿ったコンクリートを浸食するように、不気味な「蛍光苔けいこうごけ」が群生している。

病的な緑色の光が、視覚野の隅で脈打つように揺れていた。


「……ただの植物じゃない。魔力変異体アノマリーの類か」


左手首の環境計器が、乾いた音を刻み始める。


ジッ、ジジッ――。


不規則な「クリック音」が、静寂を切り裂くように狭い通路に響き渡る。

数値が上昇するたびに、肺の奥がチリチリと焼けるような感覚に襲われた。これは単なる酸素不足ではない。大気そのものが、物理的な毒へと変質しつつある証拠だ。


「汚染深度が予想より深い。このペースだと、撤収限界まで一五分か」


不快感から、思わず短く舌打ちが漏れた。

僕は口元を袖で覆い、さらに奥へと慎重に歩を進めた。

「逆流」してくる風の圧力はますます強くなり、闇の奥から這い出してくる不快な金属音は、もはや巨大な獣が喉を鳴らすような低い唸りへと変貌していた。


鼓膜を叩く唸り音が、不意に意味のある音節へと結びついた。

湿った風が耳元を掠めるたび、粘りつくような残響が言葉の形を成して脳髄へ直接突き刺さる。


『……帰れ……』


脳の奥で、誰かが警告を発している。


『……見るな……』


冷たい指先で脳細胞を直接撫で回されるような、生理的な嫌悪感を伴う悪寒。

僕は足を止めず、意識的に呼吸を深く整えた。


「聴覚神経への干渉ノイズか」


吐き捨てるように呟き、冷徹な論理で這い上がる恐怖を磨り潰す。

耳の奥がキーンと痛み、平衡感覚がわずかにブレる。物理的な実体のない警告に、演算リソースを割くつもりはない。


「帰れ」と言われて引き返すほど、僕の人生は平穏な損得勘定の上に成り立ってはいないのだ。


「……音源まで、推定距離一五メートル」


靴底にへばりつく粘液状の汚泥を、一歩ごとに剥がすようにして進む。

通路の分岐点を曲がった瞬間、携行灯の強力な光軸が、乱反射する白い霧を捉えた。

視界を埋め尽くすほどの高圧蒸気が、配管主管の深い亀裂から凄まじい勢いで噴出している。

その激流が、固定の外れた古い遮熱板を激しく叩き、あの不快な金属音を地下空間に撒き散らしていたのだ。


「……なんだ、ただの物理現象ノイズか」


肺の奥に溜まっていた重い空気を、安堵と共に吐き出す。

幽霊の正体を見破った時のような、白けた納得感が胸を支配した。

正体が分かれば、それはもはや「恐怖」ではない。対処すべき「故障」に過ぎない。


だが、その納得を僕の演算回路が即座に否定した。


「待て。この熱、この圧力……一体どこから供給されている?」


僕は携行灯の光を、噴出口の根元へと近づける。

給水系統は上層で物理的にロックされているはずだ。それを駆動させるためのボイラー室も、数ヶ月前に予算凍結で停止したはず。

それなのに、なぜこの死んでいるはずの配管には、僕の体を容易に焼き切るほどの「生きた圧力」が満ちている。


さらに、光に照らされた蒸気の色に、僕は息を呑んだ。

それは純粋な水蒸気の白ではなかった。

先ほど見た変異苔と同じ、毒々しい燐光を孕んだ「緑色の霧」が、まるで意思を持つ蛇のように空間をのたうっていた。


噴出する緑色の蒸気に目を細めながら、僕は携行灯の光軸を壁面へとスライドさせた。

湿ったコンクリートの表面に、あからさまな「異物」が刻まれいる。

赤黒いスプレーで乱暴に描かれた、円と十字を組み合わせたような歪な「マーキング」。


「……公式の点検記録にはない符号サインだ。この異常を、意図的に隠蔽、あるいは管理しようとした『先客』がいたのか?」


喉の奥に張り付くような不快な熱を感じながら、僕は周囲の配管をさらに詳しく照らし出す。

主管の背後、入り組んだバイパス管の隙間に、不自然な白が混じっていた。

手を伸ばし、指先を汚泥に汚しながら引きずり出したのは、厚手の保護膜で密閉された「防水ログブック」だった。


「……こんな場所に、わざわざ隠すように。これは遺留品か、それとも後続への『警告』か」


ケースの表面に付着した油汚れを拭い去ると、中には一冊の薄い、使い古されたノートが収められている。

それは、この沈黙した地下空間が抱える「致命的な計算違い」を記した、唯一の物証であるかのように見えた。


指先に力を込め、密閉された保護膜の縁を裂く。中から溢れ出したのは、数ヶ月前の冷たく澱んだ空気と、微かなカビの臭気だった。

僕は携行灯を首と肩の間に挟んで固定し、湿り気を帯びたページを慎重にめくる。


「……まともな精神状態で書かれたものじゃないな。これは記録ログではなく、遺書だ」


紙面に踊る文字は、まるで凍死寸前の人間が震える指で地面を掻き毟ったような、無残な軌跡を描いている。日付は三ヶ月前。このプラントの閉鎖が決定した直後の記述だ。

そこには、物理学の法則を無視した「絶望」の断片が、滲んだインクで叩きつけられていた。


『奴らが来る。影の届かない場所から、音もなく這い出してくる』


『水を止めなければ。湿り気こそが、あいつらの道標ビーコンだ』


『最深部を封印した。鍵は捨てた。あそこはもう、僕たちの領域じゃない』


「……封印、だと?」


僕は顔を上げ、今も目の前で「生きた」圧力を噴出させている配管の亀裂を見つめた。


「この蒸気がその『道標』だというなら……招かれざる客は、もう目の前まで来ているはずだ」


肺を焼くような緑の霧が、僕の輪郭を侵食するように密度を増していく。


「……事故でも老朽化でもない。こいつは、自らライフラインを切り捨ててここへ隠れたんだ。あるいは、その逆か」


やはり人為的なものだ。

携行灯の光が、乱暴に閉じられ、物理的に破壊された手動バルブの残骸を捉える。

さらに決め手があった。破壊されたバルブの切断面に残る、特徴的な溶接痕ビード。地上の給水弁を固定していたものと、波のピッチが完全に一致している。


同一人物による「防御措置」だ。

前任者は、プラントを維持しようとしたのではない。地下の深淵から這い上がる「何か」を物理的に遮断し、その侵攻を食い止めるために、この湿った檻へ自分ごと蓋をしたのだ。


「……この緑の霧が『道標ビーコン』だというなら、奴らは既に僕の座標を読み取っているはずだ」


霧の向こう側、重厚な鉄扉の奥底から、硬い爪が金属を削り取るような異音が響いた。それは蒸気の圧力による物理現象ではない。意思を持った何かが、侵入者の心音を、あるいは演算回路の発する微かなノイズを、じっと聞き取っている気配だった。


僕は汚泥に塗れたログブックを、作業着の内ポケットへ深く押し込んだ。心臓の鼓動が、演算回路のクロック数を確実に追い越していく。


「……まずは、このうるさい『道標』を黙らせる」


腰のレンチを引き抜き、半壊した手動バルブの軸へ叩きつける。

乾いた衝撃音が響いた瞬間、緑の霧が生き物のように脈打った。

恐怖を「脳のノイズ」と断じ、生存のために業務を遂行する彼のスタイル。

しかし、前任者が遺したログは、その計算を根底から覆す「意図的な封印」の存在を告げていました。


次回、緑の霧の正体と、深淵からの「返答」

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