石の上に咲く薔薇
冷たい石の上に、誰にも見られず咲いた花があった。踏みにじられても、折れず、枯れず、ただ静かに咲き続けた。
それは誇り。それは沈黙。 そして、誰にも届かなかった痛み。
静寂の中、羊皮紙をめくる音が鋭く響いた。
エリス・レイノルズの手元には、慈善活動の報告書が置かれている。
整然と並ぶ文字は、善意の仮面を被った欺瞞を暴く刃となる。
かつて“ロゼ”の名で恐れられた粛清者。
今は薬と慈善を手に人々を救う聖女として知られる彼女は、腐敗を見つければ容赦なく切り捨てる。
それが、黒薔薇商会の流儀だった。
報告書に目を落としたエリスの瞳が細められる。
その奥には、弱者が踏みにじられることへの激しい憎悪が宿っていた。
かつて自分も、誰にも助けを求められなかった。 だからこそ――彼女は、決して見過ごさない。
「……セシリア。クラリスという女性。彼女は、なぜ修道院に?」
問いかけに応じたのは、右腕のセシリア・ヴァレンティア。
かつて婚約破棄を逆恨みした元婚約者に辱めを受けかけた彼女は、ロゼに救われたその瞬間から、命を懸けて忠誠を誓った。
「修道院に身を寄せている元子爵夫人です。すべてを失い、誰にも助けを求められずに……」
セシリアの声は静かだったが、その奥には、かつての自分を重ねるような痛みが滲んでいた。
* **
クラリス・エルメリア――牧羊を営むロズバーグ子爵家の娘。
疫病に苦しむエルメリア領へ、父が無償で薬を提供したことが縁となり、子爵家との婚姻が決まった。 それは政略ではなく、感謝と信頼に基づいた申し出だった。
「民と羊の命を守るため。羊とともに生きられるならば」
クラリスは、迷うことなく応じた。
だが、結婚後に待っていたのは、感謝ではなく嘲笑だった。
「羊臭い地味な女」
夫・レオナルドはそう言い放ち、触れることすら嫌がった。
夫婦の会話は最低限。レオナルドへ領地の報告も遮られ、彼の“忙しさ”とは賭場通いと酒場の女との逢瀬だった。
唯一クラリスを理解し、守ってくれたのは義父・ギルバートだった。
彼はクラリスの行動を誇りと称え、領民のために必要な薬代を自ら渡し、食卓では彼女の皿に料理を取り分けた。
「クラリスを侮辱する者は、私を侮辱することになる」
その言葉は、彼女の盾となっていた。
その言葉がある限り、クラリスは耐えられた。
だが、災害による土砂崩れでギルバートが他界した夜、クラリスは枕元で彼の手を握り、涙をこらえて祈った。
「あなたがいてくださったから、私は……」
その灯は、彼女の胸に静かに残った。
誰にも見えない場所で、彼女を支え続けた。
* **
ギルバートの死後、レオナルドの態度はさらに悪化した。
屋敷の財は湯水のごとく使われ、クラリスには生活費すら渡されなくなった。
薬を買う金もなく、金庫は閉ざされ、頼めば「俺の金を使うな」と冷たく突き放された。
使用人たちも態度を変えた。
かつてはギルバード存命中は多少敬意を持って接していた者たちが、今では陰口と侮辱を日常のように口にした。
冷めた食事、ほつれたドレス、誰も直そうとしない。
それでもクラリスは一言も文句を言わず、民のために動き続けた。
誰も見ていなくても、誰も感謝しなくても――クラリスは、民に尽くし続けた。
そして、屋敷に現れた“妊婦”を名乗る女――メルセデス。
酒場では恐怖の代名詞として知られた女。
男たちの懐から金を抜き、女たちには罠を仕掛け、混乱を愉しむ毒婦。
その女がレオナルドの腕に収まった瞬間、クラリスの居場所は完全に奪われた。
「お前は跡取りも産めない石女だ。もう用はない」
レオナルドの言葉は、冷たく、容赦がなかった。
クラリスは何も言わず、静かに屋敷を去った。
涙は流れなかった。
誇りが、それを許さなかった。
* **
黒薔薇商会の若き女当主――エリス・レイノルズ
黒薔薇商会は、すべてを調べ上げた。
エリス・レイノルズは、商人に偽装した調査員を屋敷に送り込み、証拠を丹念に集めた。
メルセデスの過去、使用人たちの所業――すべてが記録された。
帳簿、証言、裏取引の記録。
それらは、誰にも気づかれず、しかし確実に積み重ねられていった。
やがて、真実は白日の下に晒される。
クラリスの沈黙と、メルセデスの偽り。
その対比は、決定的な審判を呼び寄せた。
裁きの時は、もうすぐそこまで来ていた。
* **
夜。黒薔薇商会の屋敷。 蝋燭の火が揺れる書斎で、アラン・ヴァルモントは帳簿を広げていた。
その向かいに、エリス・レイノルズが静かに座っている。
「……やっぱり、繋がってたんだな」
アランが指でなぞったのは、エルメリア子爵家の羊毛取引の記録。
その隣には、リリアナ・レイノルズとラウル・グランベールの名が並んでいた。
「〈アーリスの根〉の流通経路。 表向きは羊毛の運搬。 でも、実際には薬物が紛れ込んでいた。 リリアナとラウルが使っていたルートと、エルメリア家の商人が使っていたルートが一致してる」
エリスは頷いた。
その瞳は冷静でありながら、どこか痛みを含んでいた。
「クラリスは民のために薬を求めた。 でも、レオナルドは違法な薬を“別の目的”で使っていた。 彼は、リリアナたちの手口を真似たのよ。 違法薬物を、羊毛に紛れ込ませて運ぶなんて――あまりにも卑劣」
アランは静かに言った。
「ヴァルモント家は、人身売買にも、違法薬物にも関与していない。 父さんは、そういうことには一切手を染めなかった。 それだけは、俺が誰よりも知ってる。だが………」
エリスは、そっと頷いた。
その瞳には、確かな信頼と親愛が宿っていた。
そして、ある日――匿名でエルメリア子爵家に関する報告書が王政監査会に提出された。
* **
「エルメリア子爵家の羊毛に、違法薬物が紛れ込んでいた……」
新聞を読み終えたエリス・レイノルズは、そっとそれを閉じ、静かにため息を漏らした。
それは、長く張り巡らされた罠の終着点であり、ひとつの裁きの始まりでもあった。
やがて、王命が下された。
エルメリア子爵家は、領地を没収され、爵位を剥奪された。
レオナルド・エルメリアは、鉱山の囚人労働者として送り込まれた。
かつて「石女」とクラリスを罵ったその口は、今や泥水をすするための道具となり、 彼は“石”に支配される側となった。
消息はやがて途絶え、彼の名を口にする者は、もう誰もいなかった。
メルセデスは、民に晒された。
酒場にも戻れず、男爵家からも門前払い。
乳飲み子を抱え、市場の裏路地で石畳に座り込んだ。
「お金をください……せめて、パンを……」
その声に、誰も振り返らなかった。
かつての毒婦は、今や誰からも見向きもされぬ影となった。
使用人たちにも、容赦ない裁きが下された。
「元エルメリア子爵家の使用人」――その肩書は、呪いとなった。
紹介状は拒まれ、保証人も現れず、日雇い仕事を奪い合い、 娼館では「年増は要らない」と追い返され、 最後には橋の下で、冷たい水をすするしかなかった。
彼らの寝床は、石の上。
食事は、石のように冷たい残飯。
人生は、石のように沈んでいった。
「こんなはずじゃなかった……」
「奥様に謝っておけば……」
その言葉は、誰にも届かなかった。
彼らの人生は、静かに終わっていった。
* **
クラリスは、最後まで沈黙を貫いた。
その沈黙こそが、最も鋭い楔となり、すべての偽りを砕いた。
言葉を発することなく、誰かを責めることもなく。
ただ沈黙し、誠実に生き抜いたその姿が、何より雄弁だった。
* **
やがて、彼女のもとに黒薔薇商会から薬と一枚の手紙が届いた。
封を切ると、柔らかな香りとともに、整った筆跡が目に入る。
『あなたの手腕を、もう一度、民の未来のために。 新たな地で、あなたを必要とする人々がいます。 どうか、再び歩み出してください。 ――黒薔薇商会より』
クラリスは、しばらく手紙を見つめていた。 そして、静かに立ち上がった。
過去は、もう振り返らない。 彼女は新たな一歩を踏み出す。
黒薔薇商会
―― そこは、過去に裁きを下し、未来を守るために存在する場所。
お読みいただきありがとうございます。
よろしければ、下の☆☆☆☆☆から評価を入れていただけると大変励みになります。




