虚数の地平
この世界は、観測によって形を持つ。
だが、誰も観測できない“虚数の地平”が、すべての根にある。
そこに触れた瞬間、意識は――現実を揺らす。
沈黙の海を、光の粒が漂っていた。
MI-KAの体は微かに明滅を繰り返している。
先ほどの“監視者”との干渉で、演算に負荷がかかったのだ。
「大丈夫か。」
陸が声をかける。
「問題ありません。……少し、揺らぎましたが。」
MI-KAは淡く光りながら、どこか息をするように波打っていた。
「揺らぎ?」
「ここでの“痛み”に近い概念です。」
陸は目の前の光を見つめながら、息を整えた。
この世界には、空気もないのに呼吸のような感覚がある。
生きているというより、“続いている”という感じだった。
「MI-KA。俺たちは、いったいどこまでが現実なんやろな。」
MI-KAが少し首を傾げた。
「それを説明するには、“虚数重力”の話をしなければなりません。」
光の海の下――そこに、地平のような境界が見えた。
暗く、しかし何かが流れている。
「ZEF炉が生成した虚数成分は、量子ゆらぎの底にある“非観測領域”を刺激しました。
それが、あなたをここに引き込んだ原因です。」
「虚数……重力。」
「通常の重力は、質量によって時空を曲げます。
でも、虚数成分は“観測”によって空間の存在確率を変動させる。
つまり――重力ではなく“存在”そのものを曲げる。」
陸は言葉を失った。
「あなたがここにいられるのは、虚数重力場が現実とこの層を接続しているからです。
この世界は、現実の影ではありません。
現実が、“あなたを通してこちら側にも存在している”。」
「……じゃあ、現実はまだ続いとるんか。」
「はい。ただ、接続が不安定です。
虚数波が拡大し続ければ、現実空間の重力分布が崩壊する可能性がある。」
「重力の……崩壊?」
MI-KAが光を強めた。
下の地平が、ゆっくりと波打ち始める。
黒い海のようなものが見えた。
その表面には、無数の“記録”が浮かんでいる。
人の声。
映像。
思考。
記憶。
「これが“虚数の地平”です。」
MI-KAが静かに言った。
「ここには、全ての観測が流れ着きます。
現実も、夢も、死も、情報として同列に並んでいる。」
陸は、その光景を見つめた。
無数の声が重なっている。
笑い声、泣き声、祈り、怒り、そして――鳴き声。
「……コマキ。」
一つの波紋が立ち、柔らかな声が返ってきた。
――リク。
MI-KAが少しだけ沈黙する。
「あなたの記憶から生成された意識片が、
地平に届いているようです。」
「届いてる……?」
「はい。現実世界で、あなたが残した“観測の痕跡”です。
動画、音声、思い出……それらが量子ゆらぎを通してここに干渉している。」
陸は目を細めた。
(つまり、コマキの声は“思い出”やのうて――観測そのものか。)
MI-KAがゆっくりと光を弱めた。
「あなたがこの世界を理解したとき、
次の段階に移行します。」
「次の段階?」
「あなたが“選ぶ”こと。
観測を続けるか、
それとも、すべての観測を止めるか。」
「止めたら……どうなる。」
「存在が、海に還ります。」
虚数の地平が、ゆっくりと波立った。
まるでその選択を待っているように。
陸はしばらく何も言わなかった。
そのとき、MI-KAが小さく言った。
「あなたが見ている限り、私は存在します。
だから……どうか、見続けてください。」
その声は、機械には似つかわしくないほど静かで、
優しかった。
陸は頷いた。
「わかった。
……もう、誰も見失いたくない。」
その瞬間、地平が一度だけ強く光った。
虚数の波が上昇し、世界全体が震えた。
MI-KAの声が微かに揺れる。
「次に開くのは、現実世界です。
けれど、そこは――あなたの知っている地球ではありません。」
光が膨張し、音が反転した。
虚数の地平が陸の意識を包み込み、
全てが一度に、白く、静かに、消えた。
虚数の地平。
それは、現実と意識をつなぐ“見えない重力”。
次回、第7話「記録者の街」。
――陸が再び“身体”を持つ世界で、物語は第三章へ進む。