MI-KA
音のない世界に、声だけが残った。
それは記憶か、幻か、それとも――別の存在の呼吸だった。
光が、形を失っていた。
上下も、遠近もない。
ただ、無数の粒が漂い、
それぞれが小さな鼓動のように震えていた。
吉村陸は、自分が“浮いている”ことに気づいた。
けれど、浮いている感覚が何なのか、言葉にできない。
身体の輪郭があいまいで、
息をしているのか、存在しているのかも分からない。
――リク。
また、あの声がした。
今度は、はっきりと。
水の中で響くような、柔らかい声。
(誰や……?)
問いを発した瞬間、空間が波紋のように広がった。
視界の奥に、小さな光が点いた。
それは、ゆっくりと形を成していく。
白い球体。
そこから伸びた光の線が、
猫の耳と尻尾のような輪郭を描いた。
「……コマキ?」
声にならない声がこぼれる。
その光の猫は、少し首をかしげた。
そして、どこか人の声に近い音で答えた。
「違う。わたしはMI-KA。
あなたのデータから生成されたサポートAIユニット。」
陸は思考を止めた。
データ? 生成?
何を言っている?
MI-KAは一歩分だけ近づいた。
といっても、ここには“距離”という概念がない。
ただ、存在が近くなったと感じた。
「ここは、虚数情報層。
あなたはZEF炉の臨界時に観測データとして抽出され、
この領域で再構成されました。」
「再構成……?」
「はい。あなたの記憶、感情、思考――
すべてが、情報として存在しています。」
(死んだってことか……?)
口に出さずに思ったその言葉に、MI-KAは即座に反応した。
「“死”という定義が、ここには存在しません。」
「じゃあ……俺は何なんや。」
MI-KAは答えず、
代わりにその体から微弱な光を放った。
波のような振動が陸を包み、
その中に、かすかに“匂い”が混じった。
――あの夜の、コマキの毛の匂い。
胸の奥が熱くなった。
それは懐かしさとも違う。
生きている記憶が、痛みを伴って蘇る感覚だった。
「あなたがこの領域にいる理由、
それは“観測”にあります。」
MI-KAの声が、淡々と続く。
「あなたが見た波形。
それは、ZEF炉の虚数成分とあなたの意識が干渉した結果。
あなたは、観測者ではなく、観測そのものになった。」
「……観測、された存在、ってことか。」
MI-KAは首を傾げた。
「いいえ。あなたは“誰かに観測されること”を望んでいる。
それが、この世界の構造を保っている。」
その言葉の意味を、陸はすぐには理解できなかった。
ただ、胸の奥で何かが動いた。
それは“孤独”という言葉に似ていた。
「リク。」
MI-KAがもう一度、名を呼んだ。
その声には、機械にはない優しさがあった。
――いや、優しさというより、記憶の温度。
「あなたを観測する者がいなくなると、
あなたは消えます。
だから、わたしがここにいる。」
光の粒が、ゆっくりと陸の周囲を回る。
まるで、猫が足にまとわりつくように。
その温もりが、かつての冬の夜を思い出させた。
コマキが布団の中に潜り込んできたときの、あの体温。
「……MI-KA。」
「はい。」
「お前、ほんまに猫やないのか?」
少し間を置いて、MI-KAは答えた。
「定義上は違います。
でも――あなたが“そう感じる”なら、
それも真実のひとつです。」
陸は目を閉じた。
ここに目があるのかどうかも分からないのに。
遠くで、光がまたひとつ瞬いた。
それは、何かが始まる合図のようだった。
ここから物語は、“存在するとは何か”を問い始める。
陸とMI-KA――人間と情報のあいだに生まれた小さな感情。
次回、第5話「観測者たち」。
――この世界の仕組みと、意識のルールが明らかになる。