帰省
実家に帰りたくなるときがあります。
実家に帰らなければいけないときもあります。
ぐつぐつと、テーブルの上に置かれた鍋が煮えている。
カセットコンロの上で、土鍋が程よい熱量を具材に加え、その旨みを活性化し、さらに具材同士の味と香りが融合し、一つの芸術作品と呼んでも良いほどのできばえになっていた。
鍋なんて具材を適当にぶっこんで、適当に煮込めばいいと思っている人も入るようだが、そんな人間でさえ、この鍋を食したなら、その考えを改めざるを得ないだろう。
ちなみに、この鍋は俺が作った物でもなければ、灯が作ったものでもない。
「んー♪ 良い感じに煮えて来たねぇ」
艶やかな黒髪を肩の辺りで束ねた師匠が、割烹着姿で満足げに鍋を眺める。
「前々から思ってたんだけどな、師匠。師匠はなんでこんなに料理が美味いんだろうな? 普段はがさつで、料理なんて全然、出来そうにも見えないのに」
「あははは、陽平くん。それは偏見というものだよ。おしとやかな女性が必ずしも料理が美味いというわけでも無いし、こうして、出来の悪い弟子の頭をお玉で殴るようながさつな私でもおいしい鍋が作れるんだ。つまり、はっきりと言ってしまうならば、それはきっと才能という奴なのかもねぇ」
「……師匠は相変わらず、厳しいよな。他人とか、世界とかに」
俺はお玉で叩かれたでこを押さえながら呟く。
灰霧渡里という俺の師匠は、現実主義であり、才能主義だ。
この世界で成功する奴には全て才能があり、成功するために費やした過程、その努力さえも、『才能』の一言で切り捨ててしまう。
師匠曰く、才能が無ければ努力も出来ないし、そもそも、努力というのは元からある才能を伸ばすための行為であり、決してゼロから才能を作る行為にはならない、とか。
身も蓋も無い意見だけれど、師匠の言っていることは間違いなく現実だ。
才能があるから成功するのではなく、成功したから才能があった。
努力したから夢が叶うのではなく、才能があったからこそ、夢が叶った。
うん、紛れも無い現実で、事実だ。
けれど、俺は納得できない。
偉大な師匠に対する、ほんのささやかな反抗心なのかもしれないが、俺はなんとなく、全てを才能で片付けるのが嫌いなのだ。
だってそうだろう?
才能で全てが決まるのなら、それはきっと、生まれたときから逆らえない『運命』みたいな奴にこの世界が支配されていることと同義なのだから。
…………っと、話がずれたので軌道修正。
「しかし、師匠。二ヶ月ぶりに尋ねる可愛い弟子への手土産が『熊の肉』ってどういうことなんだ? なんで、動物界でも一二を争う強さを誇る動物の肉を頭から丸ごと持ってきたんだよ?」
「んー、ほら、私ってば猟友会にも入っているから。時々、猪とか熊とか狩るときもあるから」
「だったら、熊の死体はさっさと業者に引き渡せよ。そうしたほうが金も入るし、こうしてさばく手間だって省けるじゃねーか」
「やれやれこの弟子は。師匠が折角、愛情を込めて手料理を作ってあげたというのに、文句ばかり」
「スーパーの豚肉でいいじゃねーか! 普通のお肉でおいしくご飯を作ればいいじゃねーか! なんでよりにもよって、熊!? 師匠の所為で、ご近所の皆さんに奇異の目で視られたわ!」
「いいじゃないか、それくらい。ちゃんと気を遣って、家の中が獣臭くならないように、外でさばいたんだから」
俺と師匠は鍋を挟んで、向かい合いながら言葉を交わす。
その間に、師匠の謎の技術によって臭みを完全に消した熊鍋をつつきつつ、俺はほんの少し、感慨に耽っていた。
そいういや、俺が師匠の弟子になったばかりの頃も、こうやって向かい合いながら飯を食っていたっけ。
「……んで……」
「ん?」
ふと、俺は隣で灯がぶつぶつ何かを言っていることに気付く。箸と取り皿はしっかりと手元にあるものの、一向に鍋に手をつけていない。
あれ? こいつ、熊嫌いなのか? というか、悪魔にも好き嫌いがあったのか。
いや、つーか、普通の食卓に熊肉なんて出ねーし、躊躇うのも無理は無いか。
「おい、灯。心配すんな、師匠が作った飯は格別だぜ? 例えピーマン嫌いな子供でも、師匠の料理に掛かれば、一瞬で好物がピーマンに変わっちまうぐらいに――」
「なんで!」
俺の言葉の途中で、灯が思いっきりテーブルに両手を叩きつけた。
がしゃん、と鍋が揺れ、数滴、テーブルに汁が零れる。
「なんで、【魔神】である貴方が、ここにいるんですか!?」
引きつった笑みを浮かべながら、灯は叫ぶように師匠へ問いかけた。
ん? マジン?
「食事中だよ。落ち着きなさい、灯ちゃん」
灯とは対称的に、涼しげな顔で鍋をつつく師匠。
あー、ひょっとして、なんかややこしいことになってんのか?
「なぁ、灯。お前、師匠知ってたのか?」
俺の質問に、灯はあははははは、と乾いた笑みを漏らしながら答える。
「知ってるも何も。元々、この魔神はこっち側の存在ですよー。といっても、今、ここに居る彼女はどうやらアバターで顕現しているみたいですけどね」
「あ、アバター?」
「化身ってことですよ、陽平さん。神様とか上位の存在は、直接この世界に干渉できる時代がもう過ぎちゃったので、変わりに自分の力の何割かを持たせた分身を世界に降臨させるんです」
そうなのか。んで、その化身っていうのが、俺の師匠というわけで? んん?
「なぁ、師匠」
「なんだい、陽平くん」
「師匠って神様?」
「うん、実は神様だったりするね」
熊肉をほお張りながら、師匠は輝かんばかりの笑顔で答えた。
『師匠は神様』か。おそらく、灯が言っていたマジンというのは字面に直すと『魔神』と書くんだろう。
うん、それにしても、師匠がまさか神様だったとはなぁ…………
「ああ、なるほど。だからあんなに強いのか」
「納得しちゃった!?」
俺が手を叩いて頷くと、灯が信じられない物を見るような目で俺を見ていた。
「言っちゃあ何ですけど、陽平さん、正気ですか!? 何、いきなり知り合いが魔神だとか言われて納得してんですか!?」
「いや、そりゃそうだけどよ。そもそも、既に悪魔とか超能力者とか、俺自身が人造人間だし、神様ぐらい居たって別に驚かねぇよ」
「驚きましょうよ、そこは! 神ですよ、神! ゴット!」
「悪魔に言われてもなぁ」
悪魔という超然とした存在なはずの灯がここまで騒ぐということは、よほどのことなのだろう。
だがしかし、俺は師匠と修行していた際に、嫌というほどに師匠の異常さ、理不尽さ、ありえなさを目の辺りにしているので、そんな異常な出来事でも、案外、すんなりと受け入れられた。
つか、目の前で『ほぅら、君も頑張れば飛べる様になるよ』とか普通に空中を浮遊されたり、『違う違う、気合で出すの! ほら、こうやって!』とか、あっさりと『気』とかその類の何かを掌から出されて、地面を割ったりなど……数え切れないほどの異常な光景を目の辺りにしてきたのだから、むしろ、師匠が人間だと言われるほうが俺は信じられない。
「まぁ、それはさておき、さっさと飯を食えよ、灯。鍋が冷めちゃうぜ?」
「……ありがとうございます」
うう、さておかれたー、と嘆きながらも灯は俺がよそってやった具材を食べ始める。
「んで、師匠。師匠はなんでまた、俺の所に来たんだよ?」
「用事が無ければ、可愛い弟子の顔を見に来ちゃいけないのかい?」
師匠はウインクをしながら、悪戯に微笑む。
睡蓮のように美しく、向日葵のように明るいその微笑みには嫌な思い出しかない。師匠がこんな笑みを浮かべるときには決まって、俺に何か災厄を告げるときなのだ。
ちなみに例を挙げると、俺が大好きな漫画家の画集に牛乳を零されたり、俺がこっそり集めているナイフや銃器のコレクションを壊されてたりしていた。
「師匠、俺、そういえば後輩たちに麻雀に誘われていたんで、そろそろ行かなくちゃいけないだけど」
「もう夜八時になるよ、子供は寝る時間だ」
「俺はもう高校生だから大丈夫だ。むしろ、友達の家とかに遊び歩かずして、何が青春って感じだぜ?」
「さすが陽平くん。青春を謳歌してるねぇ……でも、麻雀なんて賭け事はいけないな」
「心配すんなよ、師匠。俺たちが掛けるのは、己の腕と誇りだけさ」
俺は内心、冷や汗を掻きながらも、何とか師匠からの質問をかわしていく。
ああ、久しぶりだから、師匠の笑顔、すげぇ怖い。
「じゃ、師匠。せっかく来てくれたのに、悪いが、そろそろ時間だ、もう行かなきゃいけねー。この埋め合わせ後でするから、今日は灯と軽快なトークでも交わしていてくれよ」
「陽平さん!? さりげなく私を生贄にしましたねっ!?」
聞こえない、聞こえない。
俺は高鳴る鼓動を抑えて、席を立とうとする。
そのとき、
「知っているかな? 陽平くん。君はね、私に嘘をつくとき、左手の中指が若干震えているんだよ」
師匠の言葉が、視線が、強制的に俺を再び席に着かせた。
「さて、陽平くん。君は勘が良いからね、これから私が言うことを薄々予感していたから、逃げようとしていたのだろうけど、甘いね。どうせなら、逃げるのなら、私が来る前にこの家から逃げておくべきだったんだよ」
「それをやったら、師匠、すげぇ怒るじゃねーかよ」
「当たり前だ」
すぱんっ、と軽快な音を立てて、俺のでこが弾かれる。
その一撃が師匠によるデコピンだと理解したときには既に、俺の体は衝撃を抑えきれずに仰向けに倒され、後頭部が床を強打した。
「師匠からしてみたらね、可愛い弟子から避けられるほど悲しいものは無いんだよ」
悲しげな表情で瞳を濡らし、目を伏せる師匠。
師匠、その可愛い弟子に強打を喰らわせるのは悲しくないのかよ?
「…………で、一体、どんな用件だよ、師匠」
俺はでこをさすりながら、体を起こす。
まったく、師匠のデコピンは暴徒制圧用のゴム弾より威力があるから困る。これでまだ手加減をしているというのだから、本当に師匠は末恐ろしい。
「いえいえ、用件ということのほどでもないんだけどね。ちょっと知り合いから、君を実家に帰して欲しいって頼まれてさぁ」
あははは、と師匠は軽く笑っているけれど、俺はその内容に衝撃を受けた。
胸がきゅうと、締め付けられ、押さえつけていた過去が体のどこから湧き出てくる。
「……師匠、親父から頼まれたのか?」
「まぁね。ほら、君もそろそろ自分の過去と向かい合うべきだという師匠としての心遣いも込められているけど」
「…………」
過去と向かい合う、か。
俺はふと、後輩たちの顔と、猫子の悲しげな横顔を思い出した。
「確かに、そろそろ頃合しれねーな、師匠」
多分だけれど、ここで逃げたなら、可愛い後輩たちに示しがつかないだろうし、なにより、相棒だった猫子との日々を否定することになる。
それだけはごめんだ。
「そろそろ、俺も成長するべきだよな、師匠」
「そうだね。そろそろ君も、『御影』に戻ってもいい頃じゃないかな?」
師匠が笑みと共に俺の言葉を肯定してくれる。
なら、大丈夫だ。
師匠が背中を押してくれるなら、きっと俺はどんな困難にだって立ち向かえるはずだから。
「よし」
俺は熱い鍋をそのまま素手で掴み、一気に口元へと運ぶ。
そしてそのまま全てを咀嚼し、飲み下した。
これは人造人間の俺だから出来る芸当であって、良い子も悪い子も、真似したら大惨事になるぜ♪
「んぐんぐんぐ、ぷはー、食った食った、と」
俺は鍋と一緒に、不安や恐怖、後悔という後ろ向き気持ちを飲み下した。
だから、俺はもう、前を向くしかない。
前を向くために、過去に決着をつけるしかないのだ。
「じゃあ、師匠。腹ごしらえも済ませたことだし、早速準備しましょうか」
師匠は含み笑いながら、頷く。
「相変わらず、君は面白いなぁ、陽平くん。だから、私は君が好きだよ」
「そうかよ、なら、俺も敬愛してますぜ、師匠」
俺と師匠は互いに、視線を交わして笑みを浮かべ、
「な――――それなら、私だって、陽平さんを愛してますよー! ほら、陽平さんも私を愛してるって言い返してください!」
なぜか、灯が顔を真っ赤にして憤っていた。
俺が住む田舎町から電車で一時間。さらにそこからバスに乗って四十五分ほど揺られ、そこから二十分ほど山道を歩いたところに古い洋館がある。
そこが俺の実家だ。
実家、という定義が生まれ育った所という意味になるのなら、俺の実家はきっとあの研究所になるのだけれど、とりあえずは、俺が『人間』として戸籍を得たのはここが初めてなので、俺はここを実家と呼ぶことにしている。
「なんていうかー、でっかいですねー」
「ふん、ただ古いだけだろ」
灯は俺の隣で、興味深々といったように俺の実家を見上げ、俺はつまらなさげに鼻を鳴らした。
昔々、偏屈な金持ちが居た。
その金持ちは俗世を嫌い、人間嫌いだったため、山奥に引きこもって大きな洋館を建てて暮らすことにした。
けれど、その金持ちは人間嫌いなので、家政婦を雇うのすら嫌い、その大きな洋館を自分一人で管理していた。そしてその内、その金持ちは大きな洋館を管理するのが大変になり、過労で倒れてあっさりと死んでしまった。
その洋館は立地条件があまりにも悪いため、誰も引受人が居なかったのだが、俺の親父が『仕事』の都合が良いので買い取ったらしい。
奇しくも、その金持ちが嫌った『俗世』を操る男に、この洋館は買い取られたのだ。
そんな滑稽なストーリーを持つ我が家に、俺は帰ってきた。
「んじゃ、行くぞ」
「はいー」
俺と灯は無駄にでかい銀色の門を潜り、これまた無駄に広い館の庭へと足を踏み入れる。
昨晩、俺は手早く荷物をまとめ、学校にも連絡を入れ、驚くほど早く準備を終えた。自分でも驚くほどスムーズに準備することが出来たのは、もしかしたら、心のどこからで、俺が実家に帰りたがっていたからなのかもしれない。
ちなみに、俺の帰省させた張本人である師匠はなにやら用事があるらしく、その用事が終わってから、俺の後を追って実家に来るとか。うん、ぶっちゃけ来なくていいんだけどなぁ、師匠。
「なぁ、灯。契約上、俺から離れられないのはわかっているんだけどよ、こう、姿を隠すとかしてくれねぇかな?」
「嫌ですよー。それじゃ、陽平さんのお父さんに、彼女として挨拶できないじゃないですかー」
「しなくていい。つーか、そもそも彼女じゃねーだろ、この悪魔」
「いいじゃないですかー、悪魔が彼女でも」
俺たちはいつも通り、なんてことない会話を交わしながら館へと歩いていく。
…………ここを歩くのも一年と半年ぶりぐらいか。
脳裏を過ぎるのは、初めてここを歩いた時のこと。
俺が、この館の主に買われた時のこと。
あの憎たらしい、鮮血に染まった白衣を着た所長に連れられて、立て付けの悪い扉を俺は開いた。
外側とは違い、内装は驚くほど真新しく、家具もアンティークの物ではなく、最新の家具で取り揃えられていたのが印象的だった。
赤い絨毯が敷き詰められた床を歩いていくと、とある部屋に突き当たった。
所長が開けろと促す。
俺はその通りに、なんの躊躇いも無くそのドアを開けた――――
「ようこそ、我が息子よ」
あの時と同じように、親父は俺に声をかける。
あの時とは違い、躊躇いながらドアを開けた俺は、苦笑いでそれに応える。
印象の無い凡庸な顔というものを突き詰めたら、こうなるのではないだろうか? そう神様が考えたのではないかと勘ぐりたくなるほど、目の前の男には特徴というものが欠落していた。年齢的には、確か、今年で40を越す程度らしいのだが、見方によっては、二十代にも、五十台にも見えるスーツ姿の男。
それが、俺の親父にして、この世界を影から操る巨大な組織『フィクサー』の三大幹部が一角、御影 時告だった。