第95話
B級ダンジョン【古竜の寝床】。
その最深部。
神崎隼人 "JOKER" は、巨大な黒曜石の扉をゆっくりと押し開けた。
ギィィィィ…という耳障りな音と共に、彼の目の前に、広大な空間がその全貌を現す。
そこは、もはやただのボス部屋ではなかった。
一つの、巨大なカルデラ。
ドーム状の天井は遥か高く、その頂にはぽっかりと巨大な穴が空いている。そこから差し込む月明かりのような淡い光が、この広大な空間をぼんやりと照らし出していた。
床は、滑らかな一枚岩。
そして、その中央には、まるで小山のように巨大な影が、とぐろを巻いていた。
それは、竜だった。
全長は、50メートルを優に超えるだろうか。
その全身を覆う鱗は、火山岩のように黒く、そして硬質で、ところどころひび割れたその隙間からは、まるでマグマのような赤い光が漏れ出している。
背中には巨大な翼が折り畳まれ、その長い首の先にある頭部には、鋭い角が何本も天を突くように生えていた。
そして、その閉ざされた瞼の奥で、一つの巨大な生命が静かに、しかし確かに脈打っているのを、隼人は感じていた。
【古竜マグマロス】。
このダンジョンの、主。
その圧倒的な存在感を前にして、隼人はゴクリと喉を鳴らした。
彼の背後では、数万人の視聴者たちが、息を殺してその光景を見守っている。
彼がカルデラの中央へと一歩足を踏み入れた、その瞬間。
それまで眠っていた巨大な竜が、ゆっくりとその重い瞼を持ち上げた。
現れたのは、溶けた黄金のように輝く巨大な瞳。
その瞳は、侵入者である隼人を一瞥すると、まるで取るに足らない虫けらを見るかのように、気だるそうに細められた。
そして、その巨大な顎がゆっくりと開かれる。
「グルオオオオオオオオオ」
地響きと共に放たれたのは、咆哮。
それだけで、カルデラ全体がビリビリと震え、天井から岩石がパラパラと降り注ぐ。
そして、マグマロスは動いた。
その初手は、あまりにもシンプルで、そして絶望的だった。
彼はその長い首をゆっくりと持ち上げると、部屋の壁際をぐるっと一周するように、灼熱の炎を吐き出したのだ。
ゴオオオオオオオオオオオオッ!
紅蓮の炎の津波が、カルデラの外周を焼き尽くしていく。
それは、直接的な攻撃ではない。
だが、それ故に悪質だった。
「――さすがに、当たるのはまずいな」
隼人は舌打ちしながら、炎の壁が迫ってくるその直前で、カルデラの中央へと飛び退いた。
炎の壁は、彼を中心として巨大な円を描き、そして消えることはなかった。
床が熱せられ、赤く輝き始める。
そして、その円環の内側の空間、その全てが炎上状態となったのだ。
『うわあああ!なんだ、今の攻撃!』
『部屋全部、燃えてるじゃねえか!』
『気をつけろ、JOKER!床が炎上状態だ!踏むと炎上状態になって、火属性の継続ダメージ(DoT)を貰うぞ!』
『リジェネがあるから大ダメージにはならないだろうけど、リジェネが相殺される!』
コメント欄の有識者たちが、警告の声を上げる。
隼人もまた、そのギミックの意図を瞬時に理解していた。
(なるほどな。初手の炎は、逃げ場を無くすための布石か)
彼は、不敵に笑った。
面白い。
面白いじゃ、ねえか。
このリングの上で、俺とサシでやろうってわけだ。
その挑戦、受けて立つ。
マグマロスはゆっくりとその巨体を起こすと、四本の太い足で大地を踏みしめ、隼人へと歩み寄ってくる。
その一歩一歩が、地響きを立てる。
そして、彼はその巨大な前足の鋭い爪を振り上げた。
それは、ビルを一本なぎ倒すほどの質量を持った、暴力の塊。
それが、隼人ただ一人へと振り下ろされる。
だが、隼人はその圧倒的な攻撃を前にして、一歩も引かなかった。
彼はその攻撃の軌道を完璧に読み切り、その爪が自らの頭蓋を砕く、そのコンマ数秒前。
左手に構えた盾、【背水の防壁】で、その一撃を完璧に【パリィ】した。
キィィィィィィィィィィンッ!!!
これまでのどの金属音とも比較にならない、甲高く、そして美しい音が、カルデラ全体に響き渡った。
マグマロスの渾身の一撃が、信じられないというように、明後日の方向へと弾かれる。
そして、そのカウンターとして、隼人はこの瞬間のために温存していた全ての魔力を解放した。
【必殺技】衝撃波の一撃。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
彼の長剣が、マグマロスの硬い鱗の腹部へと、深々と突き刺さる。
だが、その手応えは、これまでのどの敵とも違っていた。
硬い。
あまりにも、硬すぎる。
彼の視界に表示された、ボスのHPバー。
その赤いゲージは、彼の渾身の一撃を受けてもなお、わずか1割しか減っていなかった。
「…硬えな」
隼人は、思わず呟いた。
これが、B級の主。
これが、古竜の格。
その、圧倒的な耐久力。
「グルオオオオオッ!」
手痛い反撃を受けたマグマロスが、怒りの咆哮を上げた。
そして、彼はその巨大な翼を広げ、轟音と共に宙へと舞い上がった。
カルデラの上空で旋回しながら、彼はその口から再び灼熱のブレスを放つ。
今度は、ただの炎ではない。
凝縮されたマグマの塊が、雨のように降り注いでくる。
それは、もはや回避不能な飽和攻撃。
隼人は舌打ちしながら、部屋の端まで全力で走り、その爆撃の範囲からかろうじて逃れた。
そして、マグマロスは次なる一手へと移る。
彼は上空から隼人ただ一人をその黄金の瞳で捉えると、その巨体を急降下させてきたのだ。
滑空しながら突っ込んでくるその姿は、もはや一つの巨大な隕石。
あれに激突されれば、彼の体など一瞬で塵となるだろう。
絶体絶命。
誰もがそう思ったその瞬間、隼人は笑っていた。
その瞳は、歓喜に輝いていた。
これだ。
これこそが、俺が待ち望んでいた、最高のギャンブルの瞬間だ。
彼は、動いた。
だが、その動きは回避ではなかった。
彼は、あろうことか、その死の隕石へと真正面から駆け出したのだ。
そして、彼は跳んだ。
自らの身体能力の全てを賭けて、天へと跳躍した。
そのあまりにも無謀な行動に、コメント欄が悲鳴を上げた。
『JOKERさん!?』
『何やってんだ!』
『自殺行為だ!』
だが、彼の狙いは別にあった。
彼は、急降下してくるマグマロスの、その巨大な首筋へと飛び乗ったのだ。
そして、その鱗にしがみつきながら、彼はその首を駆け上がっていく。
風圧で、体が吹き飛ばされそうになる。
だが、彼は決してその手を離さない。
そして、彼はついにたどり着いた。
マグマロスの、巨大な頭部。
その首の付け根。
そこが、この古竜の唯一の弱点。
逆鱗。
「――もらったぜ、ドラゴン!」
彼は、その逆鱗のわずかな隙間へと、長剣【憎悪の残響】の切っ先を突き立てた。
そして、彼は自らの持つ全ての魔力と魂を、その一撃に注ぎ込んだ。
【必殺技】衝撃波の一撃。
だが、それはもはやただのスキルではなかった。
彼の全てを賭けた、最後のギャンブル。
彼の、魂の咆哮だった。
そして、その瞬間。
奇跡は、起こった。
彼のその一撃が、神の気まぐれか、あるいは運命の必然か、クリティカルヒットしたのだ。
ズッッッッ
これまでとは比較にならない、凄まじい破壊音。
マグマロスの硬い逆鱗が、まるでガラスのように砕け散る。
そして、そこから青黒い冷気のオーラが、奔流となってその体内へと流れ込み、その生命の炉心を内側から破壊していく。
マグマロスの巨大なHPバーが、一瞬でその輝きを失っていく。
9割、8割、7割、6割…。
そして、ついに5割まで一気に減少した。
「ギシャアアアアア」
マグマロスが、これまでにない苦痛と屈辱に満ちた雄叫びを上げた。
その巨体はもはや空中に留まることができず、轟音と共に地面に墜落した。
後に残されたのは、おびただしい粉塵と、そしてその中心で静かに佇む、一人の悪魔の姿だけだった。
物語は、主人公がその神がかった一撃で、絶対的な格上との戦況を完全にひっくり返した、その最高のカタルシスと共に幕を閉じた。




