第92話
神崎隼人 "JOKER" は、その世界の裂け目の前に立っていた。
B級ダンジョン【古竜の寝床】。
その入り口は、巨大な竜の頭蓋骨がそのままゲートとなった、禍々しいデザインだった。
空虚な眼窩の奥からは、C級ダンジョンとは比較にならないほど濃密で、そしてどこか神聖な魔素の空気が、生暖かく吹き出してくる。
空気中に漂う匂いも、違う。
硫黄の匂い。
そして、遠い雷鳴のような地響き。
この奥に広がる世界が、これまでのどの場所とも違う次元にあることを、彼の五感の全てが告げていた。
彼の背後では、数万人の視聴者たちが、固唾を飲んでその挑戦を見守っている。
コメント欄は、期待と、不安と、そしてわずかな興奮が入り混じった、独特の緊張感に包まれていた。
『ついに来たか…B級…』
『JOKERさん、本当に大丈夫なのか…?耐性105%になったばっかりだろ…?』
『無理はするなよ!まずは、偵察からだ!』
隼人は、その声援を背中に感じながら、静かにその覚悟を固めていた。
彼は自らのステータスウィンドウを開き、最後の確認を行う。
全属性耐性、105%。
パッシブスキルとルーンによって、完璧に補強されたその数値。
それこそが、彼がこの地獄の門を叩くための、唯一の資格だった。
「…行くか」
彼は短く呟くと、その巨大な竜の顎の中へと、その第一歩を踏み出した。
その瞬間、彼の全身を、これまで感じたことのないおぞましい悪寒が駆け巡った。
まるで、魂そのものに冷たい枷をはめられたかのような、不快な感覚。
彼の視界の隅に、システムメッセージが表示される。
【世界の呪いを受けました】
【効果: 全ての属性耐性 -30% (永続)】
その無慈悲な宣告。
彼のステータスウィンドウに表示された全属性耐性の数値が、一斉に75%へと引き下げられる。
だが、彼は動じない。
想定内だ。
これこそが、B級の洗礼。
彼は、むしろその呪いを歓迎すらしていた。
このハンデを乗り越えてこそ、真の強者。
その証明をするために、彼はこの場所へ来たのだから。
ダンジョンの内部は、広大な溶岩地帯だった。
足元には、赤黒く熱を帯びた岩盤がどこまでも続き、その裂け目からは、灼熱の溶岩が川のように流れている。
空気は乾燥し、呼吸をするだけで喉が焼けるようだった。
彼は、その過酷な環境の中を、慎重に歩みを進めていく。
そして彼は、ついにその軍勢と遭遇した。
広大な、台地。
その中央に、完璧な陣形を組んで彼を待ち受けていたのは、10体の【竜人族の精鋭部隊】。
その圧倒的な威圧感と、統率の取れた佇まい。
それは、これまでのどのモンスターとも比較にならない、絶対的な「格」の違いを隼人に感じさせた。
前衛には、巨大な塔の盾と戦斧を構えた【竜鱗の守護者】が二体。
その両脇を、二本の曲刀を携えた【竜血の剣士】が四体固めている。
そしてその後方、高台の上には、竜の骨で作られた長弓を構える【竜眼の射手】が二体。
さらにその背後で杖を構え、静かにこちらを観察している【竜の巫女】が二体。
タンク、アタッカー、スナイパー、ヒーラー、デバッファー。
完璧な、役割分担。
それは、もはやただのモンスターの群れではない。
明確な指揮系統と戦術思想を持った、少数精鋭の「軍隊」だった。
「…なるほどな」
隼人は、ゴクリと喉を鳴らした。
「これは、確かに骨が折れそうだ」
だが、彼の瞳には恐怖の色はない。
ただ、最高の獲物を前にした狩人の光だけが、爛々と輝いていた。
彼は、動いた。
C級ダンジョンで無敵を誇った、自らの「黄金パターン」。
それが、このB級のテーブルでどこまで通用するのか。
試させてもらう。
初手、【スペクトラル・スロー】。
彼の右腕から放たれた三つの霊体の剣が、後方の巫女を目掛けて飛翔する。
だが、その霊体の剣は、巫女に届くその遥か手前で、巨大な壁に阻まれた。
前衛の【竜鱗の守護者】が構える、塔の盾。
キィン、という甲高い金属音と共に、彼の攻撃は、いとも簡単に弾き返されてしまったのだ。
「…何!?」
隼人は、目を見張った。
C級のグラディエーターの盾とは、比較にならない絶対的な防御力。
ならば、と彼は次なる手を打つ。
必殺の、【衝撃波の一撃】。
彼は地面に長剣を叩きつけ、その衝撃波で敵の陣形を破壊しようと試みる。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
凄まじい轟音と共に、大地が揺れる。
だが、竜人たちはその衝撃波を軽やかなステップで回避し、あるいは盾で受け流し、その陣形を一切崩さない。
彼の必勝パターンが、初めて完全に通用しない。
その事実に、隼人は戦慄した。
B級とは、こういう場所なのか。
彼の思考が一瞬停止した、その隙を、竜人たちが見逃すはずもなかった。
「グルアアアアアッ!」
開戦の合図は、前衛の【竜血の剣士】たちの咆哮だった。
四体の剣士が、同時に地面を蹴る。
その動きは、もはや人間の目には捉えきれない、神速の領域。
彼らは四方から隼人へと殺到し、その手に持つ二本の曲刀で、嵐のような斬撃を叩き込んできた。
シュン、シュン、シュン、シュンッ!
無数の銀色の閃光が交差し、隼人の全身を襲う。
彼は、その猛攻を必死に【鉄壁の報復】でいなそうとする。
キィン、キィンと、パリィの音が連続で響き渡る。
彼のHPが回復し、カウンターのリポストが自動で放たれる。
だが、その一瞬の硬直。
それを狙い澄ましたかのように、後方の【竜眼の射手】から、貫通する竜の矢が彼の体を襲った。
ズドン、という重い衝撃。
彼の肩を矢が貫き、HPバーがごっそりと削られる。
「ぐっ…!」
さらに遠距離からは、【竜の巫女】が的確に隼人に耐性を下げる呪いをかけ続け、彼の鉄壁の守りをじわじわと蝕んでいく。
一体一体が、強い。
そして、その個の力が、完璧な連携によって何倍にも増幅されている。
隼人は、初めて本当の「パーティ戦」の恐ろしさを、その肌で味わっていた。
それは、もはや戦闘ではない。
一方的な、リンチだった。
彼のHPバーはみるみるうちに削られていき、ついに3割を切った。
コメント欄は、もはや阿鼻叫喚の地獄絵図。
誰もが、彼の敗北を確信していた。
『ダメだ!強すぎる!』
『連携が、完璧すぎるだろこいつら!』
『JOKERさん、逃げてくれ!』
だが、その絶体絶命の状況こそが、彼のギャンブラーとしての魂を最高に燃え上がらせる燃料だった。
HPが3割を切った、その瞬間。
彼のクラススキル【不屈の魂】が、発動した。
彼の全身を黄金の光が包み込み、彼にかかっていた全ての呪いが浄化される。
そして、彼の体は一時的に鋼鉄の硬さを得た。
さらに、何よりも、彼の盾【背水の防壁】が、その真の力を解放する。
秒間100を超える驚異的なHPリジェネが彼の体を包み込み、死の淵から彼を引き戻していく。
彼は、死なない。
この状況で、彼は死なない。
その事実が、彼に絶対的な精神的アドバンテージをもたらした。
(…面白い)
彼は、血の味のする口の中で笑った。
(これだ。これこそが、B級か。最高じゃねえか)
彼は、悟った。
この完璧な軍隊を、正面から打ち破ることは不可能だと。
ならば、どうするか。
答えは、一つ。
この完璧な連携の鎖を断ち切る、最も脆弱な一点。
その「核」を叩き潰す。
彼のターゲットは、定まった。
後方で味方を回復させ、敵を弱体化させる、全ての戦術の起点…【竜の巫女】。
彼は、もはや防御を捨てた。
全ての攻撃をその身に受けながら、ただ一直線に、巫女ただ一人を目指して突撃する。
そのあまりにも無謀で、狂的な特攻。
それこそが、この膠着した戦況を打ち破る、唯一の「解法」だと彼は確信していた。
「――道を開けろ、トカゲどもッ!」
彼は、雄叫びを上げた。
その声は、もはや人間のそれではない。
追い詰められた、獣の咆哮。
彼は、殺到する【竜血の剣士】たちの斬撃をその身に受けながら、一歩、また一歩と前進していく。
鎧が裂け、肉が斬れる。
だが、彼のリジェネが、それを上回る速度で傷を塞いでいく。
彼は、もはや歩く要塞。
そして、その進軍を阻むものは、何もなかった。
彼はついに前衛の壁を突破し、後衛の巫女の目の前へとたどり着いた。
「なっ…!?」
巫女が、驚愕に目を見開く。
だが、もう遅い。
「――お前の回復は、もういらねえんだよ」
彼は、そのありったけの魔力と魂を込めて、長剣を叩き込んだ。
【必殺技】衝撃波の一撃。
巫女の脆弱な体は、その質量の暴力の前に、なすすべもなく吹き飛ばされ、光の粒子となって消滅した。
一人。
そして、彼は間髪入れずに、隣にいたもう一人の巫女へと向き直る。
その瞳には、絶対的な殺意が宿っていた。
物語は、主人公がB級の圧倒的な力の前に一度は絶望の淵に立たされながらも、その不屈の魂と常識外れの戦術で反撃の狼煙を上げた、その最高の瞬間を描き出して幕を閉じた。




