第91話
新宿の夜の喧騒が、嘘のように遠ざかっていく。
神崎隼人 "JOKER" は、自室のギシリと軋む古びたゲーミングチェアに、その身を深く沈めていた。
彼の頭の中は、先ほど水瀬雫から授けられた、あまりにも鮮やかな「解法」でいっぱいだった。
B級の壁。
全属性耐性、105%。
その絶望的と思われた数字が、今や彼の目の前で、解き明かされるべき最高のパズルへとその姿を変えていた。
彼のギャンブラーとしての魂が、歓喜に打ち震える。
勝負のテーブルは、整った。
あとは、どのカードをどの順番で切っていくか。
それだけだ。
「…面白い」
彼の口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。
彼は、もはや一秒たりとも待つことはできなかった。
彼はその興奮のままに、再び情報の海…日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』へと、その意識をダイブさせた。
彼の目的は、明確だ。
雫が教えてくれた、二つの解法。
その一つ一つを自らの目で確かめ、そしてその価値を正確に値踏みすること。
彼がまず向かったのは、『クラフトアイテム考察スレ』。
その検索窓に、彼は雫が口にしたあのキーワードを打ち込んだ。
『ルーン』。
エンターキーを押すと、彼の目の前におびただしい数の情報が、洪水のように現れた。
そこは、まさに錬金術師たちの秘密の工房。
彼がこれまで知らなかった、世界の新たな一面がそこにはあった。
スレッドの冒頭には、ギルドの公認アドバイザーによる丁寧な解説が固定されていた。
1 ギルド公認アドバイザー
新人探索者の皆さん、こんにちは!
今回は、装備強化のもう一つの深淵…「ルーン」について解説します。
ルーンとは、装備に空けられた「ソケット」にはめ込むことで、その装備に新たな力を付与する特殊な魔石のことです。
その種類は多岐にわたり、攻撃力を上げるもの、防御力を上げるもの、あるいは特殊な効果をもたらすものまで様々です。
そしてルーンには、その力の大きさに応じて、「小」、「中」、「大」という三つの階級が存在します。
当然、階級が上がるほどその効果は絶大になりますが、その分、入手は困難になり、市場価格も跳ね上がります。
まずは、皆さんが最初にお世話になるであろう、「小ルーン」のいくつかを見ていきましょう。
その解説の下に、隼人が求めていた情報が記されていた。
彼は、その一つ一つのテキストを食い入るように見つめていく。
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名前: 砂漠のルーン(小)
効果:
マーシャルウェポン(近接武器): 4から6の火ダメージを追加する
アーマー(防具): 火耐性 +10%
ワンドまたはスタッフ(魔法武器): ダメージの8%を追加火ダメージとして獲得する
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名前: 氷河のルーン(小)
効果:
マーシャルウェポン(近接武器): 3から5の冷気ダメージを追加する
アーマー(防具): 冷気耐性 +10%
ワンドまたはスタッフ(魔法武器): ダメージの8%を追加冷気ダメージとして獲得する
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名前: 嵐のルーン(小)
効果:
マーシャルウェポン(近接武器): 1から10の雷ダメージを追加する
アーマー(防具): 雷耐性 +10%
ワンドまたはスタッフ(魔法武器): ダメージの8%を追加雷ダメージとして獲得する
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「…なるほどな」
隼人は、深く頷いた。
これだ。
これこそが、俺が今必要としている、最後の10%を埋めるためのピースだ。
防具にはめ込めば、それぞれの属性耐性を10%ずつ上昇させる。
なんとシンプルで、なんと強力な効果。
彼は、すぐさまマーケットでこれらの小ルーンの相場を調べた。
表示された価格は、一つ5万円。
決して、安くはない。
だが、何百万円単位の装備を買い換えることに比べれば、誤差のような金額だ。
彼は次に、もう一つの重要なパーツの価格を調べる。
ソケットを空けるための、あのオーブ。
【熟練工のオーブ】。
こちらの相場もまた、一つ5万円。
彼は、脳内で高速の計算を始めた。
(必要な耐性はあと30%。つまり、三つの属性耐性を、それぞれ10%ずつ上げる必要がある)
(そのためには、三つのソケットを空け、三つのルーンをはめ込む)
(【熟練工のオーブ】が三つで、15万円)
(三種のルーンが、それぞれ一つずつで15万円)
(合計、30万円か…)
彼の現在の資産は、50万円を超えている。
十分、手が届く範囲だ。
(装備を更新することを考えたら、安いもんだ)
彼は、そう結論付けた。
これで、B級への道筋の一つは、完全に見えた。
次に、彼はもう一つの解法…パッシブスキルツリーの検証に移った。
彼は、自らのパッシブツリーの広大な星空を、モニターに表示させる。
そして、雫が示してくれた、あの光の道筋を改めて確認した。
戦士と盗賊のクラスエリアの境界線。
そこに輝くキーストーン、【ダイヤモンドスキン】。
そして、そこへと至る最短ルート。
たった、3ポイントの消費。
その経路上にある小ノードも、『全属性耐性+5%』と『毎秒最大HPの0.6%を自動回復する』という、極めて有用なもの。
無駄がない。
あまりにも美しく、そして完成されたルート。
「…決まりだな」
彼の心は、完全に固まった。
この二つの解法を、組み合わせる。
それこそが、今の彼が取るべき最善の一手。
彼は、椅子から立ち上がった。
もはや、迷っている暇はない。
善は急げ。
ギャンブルの鉄則だ。
彼はその足で、再び夜の街へと繰り出した。
向かう先は、上野アメ横。
混沌の市場。
彼はそこで、自らの鑑定眼と交渉術を武器に、必要なパーツを揃えることを決意した。
◇
翌日の夜。
神崎隼人は、自室で静かにその儀式を執り行っていた。
彼の目の前には、昨日アメ横の市場で手に入れてきた戦利品が並べられている。
三つの【熟練工のオーブ】。
そして、砂漠、氷河、嵐、三種の【小ルーン】。
彼はこの日のために、C級ダンジョンを数時間周回し、軍資金をさらに上乗せしていた。
彼の資産は、潤沢だ。
そして彼の心は、これ以上ないほど静かに、そして熱く燃えていた。
彼はまず、インベントリから三つのユニーク装備を取り出した。
彼のビルドの核とも言える三つの至宝。
【不動の王冠】。
【万象の守り】。
そして、【影歩きのブーツ】。
彼は、これらの装備にソケットを空け、新たな力を宿らせることを決めていた。
なぜ、この三つを選んだのか。
理由は、シンプルだ。
この三つの装備は、彼が今後ビルドを変更したとしても、おそらく使い続けるであろう、最も汎用性が高く、そして強力なパーツだからだ。
ここに投資することこそが、最も費用対効果が高い。
彼の、ギャンブラーとしての判断だった。
「さてと」
彼はまず、【熟練工のオーブ】を一つ手に取った。
そして、それを黒鉄の王冠…【不動の王冠】へと、静かに近づけていく。
オーブが兜に触れた瞬間、パリンという軽やかな音と共にオーブが砕け散り、その魔力が兜へと吸い込まれていく。
そして、兜の額の部分に、これまで存在しなかった一つの小さな空洞…「ソケット」が、確かに生まれていた。
彼は続けて、残りの二つのオーブも、同じように【万象の守り】と【影歩きのブーツ】に使用した。
彼の三つの至宝に、それぞれ一つずつ、新たな可能性の器が用意された瞬間だった。
次に、彼は三つのルーンを手に取る。
まず、【不動の王冠】に空けられたソケットに、彼は【嵐のルーン(小)】をはめ込んだ。
彼のビルドで唯一不足していた、雷耐性を補うためだ。
次に、【万象の守り】のソケットには、【氷河のルーン(小)】を。
そして最後に、【影歩きのブーツ】のソケットには、【砂漠のルーン(小)】を。
三つのルーンがそれぞれの器に収まったその瞬間、三つの装備がそれぞれ淡い光を放ち、新たな力をその身に宿したことを告げた。
彼のステータスウィンドウが、更新される。
火、氷、雷、それぞれの耐性値が+10%ずつ上昇していた。
これで、合計30%の耐性を確保した。
だが、まだ足りない。
彼は、最後の仕上げに取り掛かった。
彼は、自らの魂の内側…パッシブスキルツリーの広大な星空を開いた。
そして、彼は迷いなくその光の道筋をなぞっていく。
彼が持つ、残りのパッシブスキルポイント4ポイント。
そのうち3ポイントを使い、彼はあのキーストーン【ダイヤモンドスキン】へと至るルートを解放した。
彼の星空に、新たな星座が描き出されていく。
そして、彼が最後のキーストーンに触れたその瞬間。
彼の全身を、これまでにないほどの硬質で、そして力強い光が包み込んだ。
彼の皮膚が、まるでダイヤモンドのように輝き、その存在そのものが一つ上の次元へと昇華していくような感覚。
彼のステータスウィンドウが、再び更新される。
全ての元素耐性が、さらに+20%(キーストーン15% + 小ノード5%)上乗せされた。
彼の現在の耐性値は、75%。
それに、ルーンによる各属性+10%、パッシブによる全属性+20%が加わり、合計で105%。
B級ダンジョンの呪い「-30%」を受けてもなお、75%。
B級の壁は、完全に崩壊した。
「…よし」
彼は、短く、そして力強く呟いた。
「これで、明日にもB級ダンジョンに足を踏み入れることができる」
彼の心は、高揚していた。
明日という未来への期待に。
新たなテーブルへの挑戦権を手に入れた、その達成感に。
彼はその夜、久しぶりに深く、そして穏やかな眠りについた。
彼の夢の中では、すでにB級の未知なる強敵たちを、蹂躙する自らの姿が映し出されていた。
物語は、主人公が自らの知恵と才覚で巨大な壁を乗り越え、次なるステージへの扉を完全にこじ開けた、その最高の瞬間を描き出して幕を閉じた。




