第90話
神崎隼人 "JOKER" は、自室の古びたゲーミングチェアに、その身を深く沈めていた。
彼の目の前のモニターには、SeekerNetのあの絶望的な書き込みが、まだ表示されている。
『B級に挑む資格があるのは、ただ一つ。お前の素の耐性値が、合計で105%に到達したその時』
105%。
その数字は、まるで彼の前に立ちはだかる巨大な壁のように、彼の心を重く圧迫していた。
彼の現在の全属性耐性は、75%。
上限値だ。
だが、それはあくまでC級までの話。
B級という新たなテーブルに着くためには、ここからさらに30%もの耐性を上乗せしなければならない。
それは、もはや正気の沙汰ではなかった。
パッシブスキルツリーで、耐性のノードを取るか?
いや、それでは火力が犠牲になる。
ならば、装備か?
だが、これ以上の耐性を持つ装備など、それこそ億単位の金が必要になるだろう。
彼の思考は、袋小路に迷い込んでいた。
これまで、どんな難解なパズルもその卓越した思考力で解き明かしてきた彼が、初めて明確な「手詰まり」を感じていた。
「…クソが」
彼は悪態をつくと、パソコンの電源を乱暴に落とした。
そして、椅子から立ち上がる。
部屋の中で一人、考え込んでいても答えは出ない。
こういう時は、一度テーブルから離れるに限る。
彼は、インベントリに溜め込んでいたこの数日間の稼ぎである、おびただしい数の魔石を確認すると、アパートを後にした。
彼の足は、自然とあの場所へと向かっていた。
新宿の喧騒の中を抜け、ガラス張りの近代的なビルへ。
そこに、彼の最高の「軍師」がいることを、彼は知っていたからだ。
◇
『関東探索者統括ギルド公認 新宿第一換金所』。
もはや彼にとってこの場所は、ただの換金所ではない。
自らの戦果を確かな「価値」へと変え、そして次なる戦いへの新たな「知識」と「道標」を得るための、重要な拠点となっていた。
自動ドアをくぐると、そこにはやはり彼の期待通りの人物がいた。
艶やかな栗色の髪をサイドテールにまとめた、知的な美貌の受付嬢。
水瀬雫。
彼女は隼人の姿を見つけると、その大きな瞳をぱっと輝かせた。
だが、その表情には、いつものような純粋な喜びだけではない。
彼の纏う、どこか重く、そして思い詰めたような空気を、敏感に感じ取ったのだろう。
その瞳には、わずかな心配の色が浮かんでいた。
「JOKERさん…。お待ちしておりました」
その声は、いつもよりも少しだけ落ち着いていた。
「…ああ」
隼人はぶっきらぼうにそう答えながら、インベントリから、この数日間の全ての稼ぎである大量の魔石といくつかのレアアイテムを、カウンターのトレイの上に置いた。
その量は、もはや尋常ではなかった。
C級ダンジョンを、高速で周回した成果。
雫はその圧倒的な量に一瞬だけ目を見張ったが、すぐにプロの顔に戻り、手慣れた様子でそれらを鑑定機へとかけていく。
その鑑定を待つ、わずかな時間。
それは、彼らにとって恒例となった、貴重な作戦会議の時間だった。
「…何か、ありましたか?」
先に口を開いたのは、雫の方だった。
彼女は鑑定機のモニターから目を離さず、しかしその声には、明確な気遣いの色が滲んでいた。
「今日の配信はまだされていないようですが…。何か、お悩みがあるようなお顔をされています」
そのあまりにも的確な、指摘。
隼人は、観念したようにため息をついた。
この女の前では、どんなポーカーフェイスも通用しないらしい。
「…壁に、ぶち当たってる」
彼は、短くそう言った。
「B級の、壁だ」
その言葉に、雫の指がぴたりと止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、隼人の目をまっすぐに見つめた。
その瞳には、驚きと、そしてそれ以上に大きな「納得」の色が浮かんでいた。
「…ついに、気づかれましたか」
彼女は、静かにそう言った。
「B級ダンジョンが持つ、本当の意味に」
「ああ」
隼人は、頷いた。
「永続のデバフ…全属性耐性-30%。そして、それを乗り越えるための条件。耐性値105%」
「今の俺には、到底届かない数字だ」
彼は、自嘲気味にそう言った。
その彼の、弱音とも取れる言葉。
それを聞いた雫は、しかし少しも動揺しなかった。
むしろ、彼女の口元にはふわりと柔らかな笑みが浮かんでいた。
その笑顔は、まるで「ようやくそこまでたどり着きましたか」とでも言うかように、どこか誇らしげでさえあった。
「JOKERさん。それは、全ての探索者が一度はぶつかる大きな壁です。そして、その壁を前にして、多くの者が夢を諦めていく」
彼女は、静かに語り始めた。
「ですが、あなたは違う。あなたはその壁を、絶望ではなく、新たな『パズル』として捉えている。その瞳が、そう語っています」
「…だとしたら、どうだ?」
「ふふっ」
雫は、楽しそうに笑った。
「そのパズルを解くためのヒントを、このギルドの一職員として、そしてあなたの一ファンとして、差し上げるのが私の仕事ですから」
彼女のそのあまりにも心強い言葉。
隼人の心に張り詰めていた氷が、少しだけ溶けていくのを感じた。
「JOKERさん。確かに、耐性105%という数字は、途方もなく高く感じられるかもしれません。ですが、その解決方法は、意外とシンプルなんですよ」
「なに?」
隼人が、聞き返す。
「答えは、あなたがすでにその足で歩んできた、道筋の中にあります」
彼女はそう言うと、ARウィンドウを操作し、彼の魂の内側…あの広大なパッシブスキルツリーの星空を、表示させた。
「JOKERさん、あなたのパッシブスキルツリーを、もう一度よく見てみてください」
彼女は、星空のある一点を指し示した。
そこは、戦士と盗賊のクラスエリアの、ちょうど境界線上に位置する一つの巨大な星団だった。
その中心で、ひときわ強く、そして硬質な輝きを放つ一つの大ノード。
その名を、隼人は知っていた。
「…ダイヤモンドスキン…」
彼が、呟く。
「はい」
雫は、深く頷いた。
「キーストーン・パッシブ【ダイヤモンドスキン】。その効果はただ一つ。『あなたの全ての元素耐性が+15%される』。それだけです」
「――15%!?」
隼人は、思わず声を上げた。
なんだ、そのあまりにもシンプルで、あまりにも暴力的な効果は。
「ええ、15%です。これだけで、あなたが抱える問題の半分は解決します」
「だが、待て。確か、あのキーストーンは戦士のスタート地点からはかなり遠い場所にあったはずだ。そこまでポイントを伸ばすのは、非効率的だと、SeekerNetの連中も言って…」
彼のその反論を、雫は優しく遮った。
「ええ、その通りです。普通に最短距離で向かろうとすれば、多くの無駄なパッシブを取らなければならないでしょう。ですが、JOKERさん。道は、一つではありませんよ」
彼女は、星空の上に一本の光の道筋を描き出す。
それは、隼人がこれまで考えもしなかった、全く新しいルートだった。
「見てください。このルートを通れば、あなたはたった3ポイントの消費で、この【ダイヤモンドスキン】に到達することができるんです」
彼女が指し示した経路上には、二つの小ノードが輝いていた。
一つは、『全属性耐性+5%』。
もう一つは、『毎秒最大HPの0.6%を自動回復する』。
「…なるほどな」
隼人は、感嘆の声を漏らした。
「経路上にある小ノードも悪くない。むしろ、強い。これなら、3ポイントを投資する価値は、十分すぎるほどある」
「はい。そして、この15%と経路上で得られる5%を合わせれば、合計で20%。あなたの耐性は、75%から95%へと引き上げられます。B級の壁まで、あとわずか10%です」
あと、10%。
その数字は、もはや絶望的なものではなかった。
明確な、そして手の届く目標。
彼の心に、再び光が灯る。
「じゃあ、残りの10%はどうする?装備か?」
「それも一つの手です。ですが、今のあなたの装備は、すでに高いレベルで完成されています。ここからさらに10%の耐性を上乗せしようとすれば、それこそ数百万、数千万円単位の投資が必要になるでしょう。それは、あまりにもコストパフォーマンスが悪い」
「では、どうする?」
「答えは、もっとシンプルです」
雫は、悪戯っぽく微笑んだ。
「――装備に、穴を開けるんです」
「…穴?」
「はい。『ソケット』です。JOKERさん、装備に穴を開けるんです」
彼女がARウィンドウに表示させたのは、一つの地味な、しかし極めて重要なクラフトアイテム。【熟練工のオーブ】。
「このオーブは、装備品に新たな『ソケット』を一つ空けるという効果を持っています。そして、その空いたソケットに、私達は『ルーン』と呼ばれる特殊な魔石をはめ込むことができる。ルーンには様々な種類がありますが、最もポピュラーなのが、この『属性耐性を上昇させるルーン』です。例えば、あなたのその素晴らしいユニーク装備たち…【不動の王冠】や【万象の守り】、【影歩きのブーツ】。それらにこのオーブを使いソケットを一つずつ空けていき、そこに火、氷、雷、それぞれの耐性を上げるルーンをはめ込んでいくんです。もちろん、オーブは高価です。一つ5万円は下らないでしょう。ですが、億単位の装備を買い換えるよりは、遥かに現実的で、そして確実な方法です。あなたのその素晴らしいユニーク装備たちを土台にして、さらにその性能を引き上げる。それこそが、今のあなたにとって最もクレバーな選択だと、私は思います」
そのあまりにも鮮やかで、そして完成された「解法」。
隼人は、ただ言葉を失っていた。
そうだ、なぜ気づかなかった。
装備を買い換えるという、発想しかなかった。
今ある資産を、最大限に活かす。
それこそが、ギャンブルの基本中の基本だというのに。
「…なるほどな」
彼の口から、深い感嘆の息が漏れた。
「B級ダンジョンへの道が、見えてきた」
彼は、目の前の最高の軍師に、心からの感謝を告げた。
「――感謝するよ、水瀬さん」
そのストレートな言葉に、雫の頬がほんのりと赤く染まった。
「い、いいえ…!」
彼女は、慌てて首を横に振った。
「私は、ただギルド職員として、当たり前のアドバイスをしただけで…!」
その時、鑑定の終了を告げる電子音が鳴り響いた。
雫がモニターを確認し、笑顔で告げる。
「おお、お待たせいたしました!C級ダンジョンでの、素晴らしい成果ですね!買い取り価格、合計でちょうど50万円になります!」
50万円。
その大きな塊。
それは、彼がB級への扉をこじ開けるための、十分すぎるほどの軍資金だった。
彼はそれを受け取ると、静かに立ち上がった。
彼の心は、すでに次なる一手へと向かっていた。
パッシブスキルツリーの新たな道。
そして、装備にソケットを空け、ルーンをはめ込むという新たな強化。
彼のやるべきことは、明確だ。
物語は、主人公がB級という巨大な壁を乗り越えるための、具体的で、そして確実な道筋を見つけ出し、その瞳に再び力強い光を宿した、その最高の瞬間を描き出して幕を閉じた。




