第89話
C級ダンジョン【忘れられた闘技場】の主を討ち果たし、その全てを蹂躙し尽くした神崎隼人 "JOKER"。
彼のレベルは16に到達し、そのビルドは、C級というステージにおいては、もはや敵なしの完成度を誇っていた。
彼の配信は、絶対的な王者がその支配領域をただ巡回するだけの、圧倒的に安定しきったショーとなり、数万人の視聴者たちは、その心地よい安心感に酔いしれていた。
だが、その安定こそが、彼のギャンブラーとしての魂を、ゆっくりと、しかし確実に蝕んでいた。
勝てると分かっているテーブルで、ただチップを積み上げるだけの作業。
それは、ギャンブルではない。
ただの、労働だ。
彼の魂は、渇いていた。
もっと、ヒリつくような緊張感を。
もっと、全てを失うかもしれないという死の匂いを。
そして、その絶望的な状況を自らの手でひっくり返す、最高のカタルシスを。
「…潮時か」
その日も、彼はいつものように闘技場の周回を終えると、ダンジョンから帰還した。
自室の古びたゲーミングチェアに深く身を沈め、彼は自らの次なる戦場を探し始めていた。
彼の目は、もはやC級ダンジョンには向いていない。
そのさらに先。
未知なる領域。
「B級」という、新たなテーブルへと向けられていた。
「…少し、下調べでもしておくか」
彼はブラウザを立ち上げ、慣れた手つきで、日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』へとアクセスした。
彼は、これまで常に準備を怠らなかった。
だが、それはあくまで、ダンジョンに入ってからそのギミックを見抜き、対策を立てるという、即興のギャンブルだった。
しかし、B級は違う。
ベテランたちのコメントの端々から漏れ聞こえてくるその空気。
それは、C級までとは明らかに次元が違うという、確かな予感があった。
生半可な覚悟で、足を踏み入れていい場所ではない。
彼は検索窓に、いくつかのキーワードを打ち込んだ。
『C級 B級 違い』
『B級ダンジョン 挑戦 注意点』
エンターキーを押すと、彼の目の前におびただしい数のスレッドが表示された。
そのほとんどが、彼と同じようにC級を卒業し、B級への挑戦を夢見る若者たちの、希望と、そしてそれ以上に多くの絶望の記録だった。
彼はその中から、ひときわ重い雰囲気を放つ一つのスレッドを選び出した。
『【警告】B級の壁の前で散っていった、全ての仲間たちへ』
そのあまりにも、物々しいタイトル。
スレッドの最初の投稿には、このスレッドの主であろう人物の、血の滲むような叫びが記されていた。
1 名もなき墓守
これからB級に挑もうとしている、全ての若者たちへ。
忠告だ。
やめておけ。
お前たちが思っているほど、その世界は甘くない。
C級までとは、次元が違う。
俺は、この目で見てきた。
昨日まで笑い合っていた仲間が、B級の入り口でただの肉塊へと変わる、その瞬間を。
だから、忠告する。
もし、お前がそれでもなおその地獄の門を叩くというのなら、最低限、これだけは覚えておけ。
B級ダンジョンとは、どういう場所なのかを。
そのあまりにも切実な、書き出し。
隼人はゴクリと喉を鳴らし、その先を読み進めていく。
そして、彼はそこに記されていた、一つのあまりにも理不尽で、そして残酷な「世界のルール」に戦慄することになる。
1名もなき墓守
B級ダンジョン。
その最大の特徴は、ただ一つ。
そこに一度でも足を踏み入れた全ての探索者は、「世界の呪い」をその身に受けることになる。
それは、永続的なデバフだ。
一度受ければ、二度と解除することはできない。
その効果は、「全ての属性耐性 -30%」。
「…は?」
隼人の口から、間抜けな声が漏れた。
なんだ、それは。
そんな馬鹿げた話が、あるか。
1名もなき墓守
信じられない、という顔をしているだろうな。
俺も、最初はそうだった。
だが、これは紛れもない事実だ。
B級ダンジョンとは、そういう場所なのだ。
探索者の生半可な覚悟をふるいにかける、最初にして最大の「フィルター」。
この呪いを受けてもなお、戦い続けることができる者だけが、その先の領域へと進むことを許される。
そのあまりにも一方的な、ルール。
隼人は、自らのステータスウィンドウを確認する。
彼の現在の火・氷・雷の三つの元素耐性は、75%。
上限値だ。
だが、もしこの呪いを受ければ、その数値は一気に45%まで低下する。
それは、C級のボスの魔法攻撃ですら致命傷になりかねない、危険な水準。
1名もなき墓守
もう、分かるな。
俺たちがなぜ、あれほどまでに口を酸っぱくして「耐性を積め」と言い続けてきたのか。
なぜトップランカーたちが、1%の耐性のために何千万、何億という金を、惜しげもなく注ぎ込むのか。
全ては、このB級の壁を越えるためだ。
だから、俺は言う。
B級に挑む資格があるのは、ただ一つ。
この「-30%」の呪いを受けてもなお、全ての元素耐性を上限である75%に維持できる、準備ができた者だけだ。
つまり、どういうことか。
お前の素の耐性値が、合計で105%に到達したその時。
それが、お前がB級への挑戦権を手に入れたという、唯一の証明なのだ。
105%。
その絶望的な、数字。
隼人は、再び自らの装備を見つめた。
【万象の守り】、【清純の元素】、【背水の防壁】、【宿命の腰帯】…。
彼が、これまで奇跡的な幸運で手に入れてきた、数々のユニークとレア装備。
それらの力を全て合わせても、彼の現在の耐性値は、75%がやっと。
そこから、さらに30%を上乗せする。
それは、もはや正気の沙汰ではなかった。
(…なるほどな)
彼の口元に、乾いた笑みが浮かんだ。
(これが、B級の壁か。面白い。実に、面白いじゃねえか)
彼は、絶望してはいなかった。
むしろ、その逆。
彼の魂は、そのあまりにも高く、そして理不尽な壁を前にして、これ以上ないほど燃え上がっていた。
そうだ、これだ。
これこそが、俺が求めていた本当のギャンブルだ。
簡単な道のりなど、つまらない。
困難であればあるほど、それを乗り越えた時の快感は大きい。
彼は、ARカメラの向こうの視聴者たちに語りかけた。
その声は静かだったが、その奥には、揺るぎない決意が宿っていた。
「…なるほどな。この装備じゃ、まだ無理か」
「しばらくは、レベル上げしつつ、装備の更新をするって感じだな」
彼はそこで一度言葉を切ると、最高の、不敵な笑みを浮かべた。
「――新たな目的が、できたな」
その一言。
それに、コメント欄が爆発した。
彼の敗北を予想していた者たち。
彼の撤退を予感していた者たち。
その全ての予想を裏切り、彼はただ前だけを見据えていた。
そのあまりにもJOKERらしい姿に、視聴者たちは熱狂し、そして心からの声援を送った。
『そうだ!それでこそ、俺たちのJOKERだ!』
『B級の壁、上等じゃねえか!お前なら、絶対に越えられる!』
『耐性105%…!その無茶なパズルを、どう解くのか楽しみにしてるぜ!』
彼の新たな挑戦が、始まった。
それは、ただダンジョンを攻略するだけではない。
自らのビルドの限界を超え、世界の理不尽なルールそのものに挑む、壮大な物語の始まりだった。
物語は、主人公が新たな、そしてあまりにも高い壁の存在を知り、しかしそれに絶望するどころか、新たな目標としてその瞳を輝かせた、その不屈の闘志を描き出して幕を閉じた。




