第86話
西新宿の、コンクリートとアスファルトに支配された街並み。
その一角に、神崎隼人 "JOKER" は、場違いなほど静かに佇んでいた。
彼の目の前にあるのは、ダンジョンの禍々しい入り口ではない。
白く、清潔で、そしてどこか無機質な、巨大な大学病院の正面玄関。
彼のインベントリには、B級ダンジョンを周回して稼いだ数十万円の魔石と、いくつかの強力なユニーク装備が眠っている。
だが、彼がその手に提げているのは、何の変哲もない小さな紙袋。
中に入っているのは、妹・美咲が好きだった老舗のフルーツパーラーのゼリーと、彼女が欲しがっていた海外の画家の、少し高価な画集。
彼はその紙袋を強く握りしめると、一度だけ深く息を吸い込み、そして自動ドアの向こう側へと、その一歩を踏み出した。
消毒液のツンとした匂い。
床を磨くポリッシャーの低いモーター音。
ナースステーションから聞こえてくる内線電話の呼び出し音と、忙しなく行き交う看護師たちの足音。
ダンジョンの血と、鉄と、死の匂いとは、あまりにもかけ離れた世界。
そのあまりにも平和な「日常」の風景が、今の彼には、どこか息苦しく感じられた。
彼は、自分がこの世界の「異物」であるかのような、錯覚に陥る。
エレベーターに乗り、小児難病棟のある7階のボタンを押す。
上昇していく箱の中。
鏡に映る自分の顔。
少し癖のある黒髪に、どこか眠たげな切れ長の瞳。
そこにいるのは、数万人の観客を熱狂させ、B級ダンジョンを蹂躙する絶対的な強者「JOKER」ではない。
ただの、神崎隼人。
たった一人の妹の前で、どう振る舞っていいか分からない、不器用な22歳の兄だった。
目的の病室の前にたどり着く。
ドアには、『神崎美咲』というプレートが、静かにかかっている。
彼はドアをノックしようとして、一度その手を止めた。
何を話せばいい?
最後にこうして顔を合わせたのは、いつだったか。
いつも、短いメッセージのやり取りだけ。
その画面の向こう側で、彼女はどんな顔で笑っているのだろう。
彼の心臓が、ドクンと大きく脈打つ。
それは、B級のボスと対峙した時とは、また質の違う緊張感だった。
彼は意を決すると、数回、軽くドアをノックした。
「…どうぞ」
中から聞こえてきたのは、少しか細いが、しかし芯のある少女の声だった。
彼は、ゆっくりとドアを開けた。
部屋は、個室だった。
窓から、西新宿のビル群が見える。
その窓際のベッドの上に、彼女はいた。
ショートカットの黒髪。
写真で見たよりも、少し痩せた頬。
だが、その大きな瞳は、彼女の知性と、そして決して失われることのない生命力の輝きを宿していた。
彼女の周りには、スケッチブックや画材が散らばっている。
そして、その枕元には、小さなタブレット端末が置かれていた。
その画面には、見慣れた配信サイトのロゴが表示されている。
「…お兄ちゃん」
美咲が隼人の姿を認めると、その顔に、花が咲いたかのような純粋な笑顔を浮かべた。
その笑顔を見ただけで。
隼人は、自分が何のためにあの地獄のような場所で戦い続けてきたのか、その全ての意味を理解した。
彼は、不器用な足取りでベッドのそばまで歩み寄る。
そして、持ってきた紙袋をサイドテーブルの上に置いた。
「…よう」
彼がようやく絞り出したのは、そんな素っ気ない一言だった。
「体はどうだ。元気か?」
そのぎこちない問いかけに、美咲はくすくすと楽しそうに笑った。
「うん。まあまあかな」
彼女はそう言うと、隼人の顔をじっと見つめた。
その大きな瞳には、心配の色が浮かんでいた。
「お兄ちゃんこそ、大丈夫? 最近、すごく無茶してるみたいだから…」
「…別に。大したことは、してねえよ」
隼人は、照れ隠しのように視線を逸らした。
そして彼は、意を決して本題を切り出した。
「…その、仕事、変えたんだ」
「裏のギャンブラーはもう辞めた。今は…探索者やってる」
彼がそう報告しつつ、美咲の反応を窺う。
驚くだろうか。
あるいは、危険な仕事だと反対するだろうか。
だが、彼女の口から返ってきたのは、あまりにも予想外の、そしてどこか寂しそうな言葉だった。
「――うん、知ってる」
彼女は、力なくそう言って微笑んだ。
その笑顔は、どこか悲しそうに見えた。
「配信、毎日見てるから」
その一言に、隼人の思考が完全に停止した。
見ていた?
毎日?
俺がゴブリンを蹂躙していた、あの時も?
俺が鉄の悪魔と死闘を繰り広げていた、あの時も?
この小さな病室のベッドの上で、彼女は、たった一人で俺の戦いを見守っていたというのか。
その事実が、彼の胸を強く締め付けた。
言葉が出てこない。
そんな彼を見て、美咲は悲しそうに続けた。
「…ごめんね、お兄ちゃん」
その謝罪の言葉。
「私のせいで、お兄ちゃんにあんな危ないことをさせて…。本当は、すぐにでもやめてほしい。でも、そうしたら、お兄ちゃんが今まで頑張ってきたことが、全部無駄になっちゃうから…。私、どうしたらいいか分からなくて…」
彼女の大きな瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
「私、もう分かってるんだ。この病気は治らない。一生、このベッドから出られない。だから、もういいんだよ。お兄ちゃんは、お兄ちゃんの好きなように生きて…」
「――ふざけるな」
その言葉を遮ったのは、隼人の低く、しかし怒りに満ちた声だった。
彼は、美咲の両肩を強く掴んだ。
そして、その涙に濡れた瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「誰が諦めていいって言った?」
「俺が、何のために戦ってると思ってる。俺はギャンブラーだ。そしてギャンブラーはな、絶対に勝てないと分かっている勝負はしない。勝つ見込みがあるから、俺は賭けてるんだよ。お前の未来に、な」
彼はそこで一度言葉を切ると、今度は、どこまでも優しい声で続けた。
「美咲、聞いてくれ」
「これまでの治療、月200万円。あれはな、正直、ただお前を『死なせない』ようにするだけの、ギリギリの綱渡りだった。それが、俺にできる精一杯だったんだ」
「だが、もう違う」
彼の瞳に、絶対的な自信の光が宿る。
「この間、デカいのが入った。だから、治療プランを変える」
「大金が転がり込んだから、これからは月800万円の新しい治療に変更することを、報告する」
その、あまりにも唐突な宣言。
美咲の時間が、止まった。
彼女の大きな瞳が、信じられないというように大きく見開かれる。
「…え…? はっぴゃくまん…?」
「ああ」
隼人は、力強く頷いた。
「医者の話だと、これなら病気の進行を完全に止められるどころか、少しずつ回復も見込めるらしい。普通に学校に行ったり、病室から出ることが出来る生活も、もう夢じゃなくなるってよ」
その言葉。
それが、美咲の心の最後のダムを決壊させた。
彼女の瞳から、大粒の涙が堰を切ったように溢れ出した。
それは、悲しみの涙ではない。
絶望の淵から引き上げられた、純粋な歓喜の涙だった。
「う…、うわああああああああん…!」
彼女は、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
それに驚き、喜ぶ妹のその姿。
隼人は、その小さな体を、不器用な手つきで、しかしどこまでも優しく抱きしめた。
彼の心の中にもまた、温かい何かが込み上げてくるのを、感じていた。
そうだ。
俺が勝ち取りたかった本当の「配当」は、これだ。
1億9,000万円という無機質な数字ではない。
この妹の涙、この妹の笑顔。
それこそが、俺が全てを賭けてでも手に入れたかった、唯一無二の宝物なのだと。
彼は、空を見上げた。
病室の窓から見える西新宿の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
彼の新たな、そして本当の戦いは、まだ始まったばかりだ。




