第85話
西新宿の夜景は、その日、いつもよりもどこか優しく、そして祝福に満ちているように見えた。
神崎隼人 "JOKER" は、自室のギシリと軋む古びたゲーミングチェアに、その身を深く沈めていた。
彼の手の中には、一本の剣が握られている。
【泡沫の刃】。
だが、それはもはやただの【泡沫の刃】ではなかった。
【腐敗のオーブ】による堕落を経て、その刀身には、禍々しくも美しい古代のルーン文字が刻み込まれている。
キーストーン【レゾリュートテクニック】。
その一言が、この剣の価値を90万円から1億2,000万円以上へと引き上げた、魔法の言葉。
彼は、その剣を静かに見つめていた。
その瞳には、もはや熱狂の色はない。
ただ、全ての勝負を終えたギャンブラーだけが浮かべることのできる、静かな、そしてどこか虚無感を湛えた穏やかな光が宿っていた。
彼の目の前のモニターには、先ほどの伝説の配信のアーカイブが映し出されている。
コメント欄は、もはや制御不能。
十数万人の視聴者たちが、歴史の目撃者となったその興奮を共有し、賞賛と祝福の言葉を嵐のように打ち込み続けていた。
スーパーギフトの通知も、鳴り止む気配はない。
おそらく、この一夜にして、彼は数千万円という途方もない額の投げ銭を受け取ることになるだろう。
だが、彼はその数字には一切興味を示さなかった。
彼にとって重要なのは、結果ではない。
そのプロセス。
あのヒリつくような、緊張感。
そして、全てを賭けて勝利を掴み取った、あの瞬間の快感。
それだけが、彼の全てだった。
「…さてと」
彼は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
そして、彼は再びアパートのドアへと向かう。
そのあまりにも唐突な行動に、まだ彼のチャンネルに残っていた数万人の視聴者たちが、困惑の声を上げた。
『え?JOKERさん、どこ行くんだ?』
『まさか、この時間にダンジョンか!?』
『いや、さすがに休めよ!w』
隼人は、そのコメントに答えることなく、ただ静かに夜の闇の中へと消えていった。
彼が向かう先は、ただ一つ。
あの神々のテーブル。
新宿ギルド本部ビル、その最上階。
『公式オークションハウス』。
◇
深夜のオークションハウスは、昼間のそれとはまた違う、静かで、そしてどこか濃密な空気に包まれていた。
フロアにいる人間の数は、少ない。
だが、その一人一人が、この世界の経済を動かす本物のプレイヤーたちだった。
隼人は、その場の空気にもはや完全に馴染んでいた。
彼はまっすぐに出品用のカウンターへと向かう。
そして、彼は受付の職員に静かに告げた。
「――これの出品を、頼む」
彼がカウンターの上に置いたのは、あの堕落した【泡沫の刃】。
その剣が放つ禍々しいオーラに、受付の職員が息を呑むのが分かった。
「こ、これは…!まさか、堕落済みの【泡沫の刃】…!?しかも、付与されているのは【レゾリュートテクニック】…!?」
職員は、震える手でその剣を鑑定機へとかける。
そして、その表示された結果に改めて戦慄した。
本物だ。
都市伝説レベルの奇跡の産物が、今、確かに目の前にある。
「…お客様。こちらのアイテムの開始価格は、いかがなさいますか?」
「…1億2,000万で、頼む」
隼人は、こともなげにそう言った。
「承知いたしました…。オークション期間は、24時間でよろしいでしょうか?」
「ああ」
手続きは、数分で終わった。
その瞬間。
オークションハウスの巨大なモニターに、一つの新しい出品情報が表示された。
==================================== アイテム名: 【泡沫の刃】(堕落済み) 追加特性: キーストーン【レゾリュートテクニック】 出品者: "JOKER" 開始価格: 1億2,000万 円 残り時間: 23:59:58
その情報が表示された瞬間、それまで静寂を保っていたオークションハウスの空気が、明らかに変わった。
あちこちでソファに座っていたトップランカーやブローカーたちが、一斉にそのモニターを見つめ、そしてざわつき始めたのだ。
「おい、見ろよ…」
「マジか…。本物が、出やがった…」
「出品者は、JOKER…?あの新人か…!」
「あいつ、これを自力で創り出したってのか…?正気じゃねえ…」
その全ての視線が、隼人一人に注がれる。
だが、彼はその視線を意にも介さず、静かにその場を後にした。
彼のやるべきことは、もう終わった。
あとは、結果を待つだけだ。
◇
翌日の夜。
神崎隼人の配信チャンネルは、これまでにないほどの熱気に包まれていた。
彼の出品した【泡沫の刃】のオークション終了時刻が、刻一刻と迫っていたからだ。
配信のタイトルは、シンプルだった。
『【雑談】オークション終了まで、あと1時間』
画面には、オークションページのリアルタイムの映像が映し出されている。
そして、その現在価格は、すでに隼人の想像を遥かに超える領域へと達していた。
『現在価格: 1億4,000万円』
開始価格の1億2,000万円から、すでに2000万円も吊り上がっている。
コメント欄は、もはやお祭り騒ぎだった。
『うおおおおお!1億4,000万円、超えたぞ!』
『やべええええ!都心の高級マンション、買えるじゃん!』
『誰だよ、入札してんの!雷帝か!?黄昏の奏者か!?』
『JOKERさん、もう一生遊んで暮らせるな…』
その熱狂の中で、隼人はただ静かにタバコの煙をくゆらせていた。
彼の表情は、いつもと変わらないポーカーフェイス。
その心の内を、誰にも読ませない。
残り時間、10分。
価格は、1億6,000万円で膠着していた。
おそらく、二人のトップランカーが熾烈な心理戦を繰り広げているのだろう。
だが、その均衡は、残り1分を切ったその瞬間、破られた。
『現在価格: 2億円』
大台に乗った。
そのキリの良い数字が、この勝負の終わりを告げているかのようだった。
そして、カウントダウンが始まる。
10、9、8、7、6、5、4、3、2、1…。
『――オークション終了』
モニターに、最終落札価格が表示された。
『2億円』
その数字が表示された瞬間。
コメント欄が、爆発した。
祝福と、賞賛の嵐。
スーパーギフトの通知が、画面を埋め尽くす。
誰もが、この若き伝説の新たな門出を祝福していた。
手数料の5%…1,000万円を差し引いても、彼の手元には1億9000万円という、途方もない大金が転がり込んでくる。
もはや、彼が金に困ることはないだろう。
誰もが、そう思った。
その熱狂の中で、一人の視聴者が、全ての視聴者の心を代弁する一つの問いを投げかけた。
『なあ、JOKERさん。この1億9000万円で、次に何買うんだ?』
その問いかけに、コメント欄が一気に色めき立つ。
そうだ、この大金で、彼は一体何をするのだろうか。
世界の頂点に君臨する、あの神々の装備を手に入れるのか?
あるいは、誰も見たことのない新たなビルドを構築するのか?
視聴者たちは、まるで自分のことのようにその使い道を想像し、興奮していた。
『都心の高級マンション買おうぜ!』
『いや、車だろ!フェラーリやランボルギーニ、見てみてえ!』
『まさか、あの幻の【賢者の帯】の情報に、手を出すんじゃ…!?』
無数の夢と希望が、コメント欄を駆け巡る。
その熱狂の中心で、隼人はゆっくりとタバコの煙を吐き出した。
そして、彼は静かに告げた。
その一言は、全ての視聴者の熱狂を一瞬で凍りつかせるには、十分すぎるほどの威力を持っていた。
「…ああ、この1億9000万円な」
「――全部、妹の医療費に回すぜ?」
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
コメント欄の全ての動きが、ぴたりと止まった。
誰もが、自分の耳を疑った。
今、この男はなんと言った?
1億9000万円を、全て妹の治療費に?
あの、JOKERが?
あの常にリスクとリターンを計算し、最も効率的な選択を取り続けてきた、あの冷徹なギャンブラーが?
『…え?』
『マジで、言ってるのか…?』
『1億9000万円、全部…?装備、買わないのかよ…?』
視聴者たちは、唖然としていた。
それは、あまりにもJOKERらしくない選択。
あまりにも人間的で、そしてあまりにも温かい選択だったからだ。
だが、隼人はそんな視聴者たちの困惑を意にも介さず、続けた。
その声は、どこまでも穏やかだった。
「ああ。これで、しばらくは金の心配をしなくてもいいしな。美咲にも、少しは楽をさせてやれるだろ」
「それに、今の俺には特に欲しい装備もないしな」
その言葉。
それに、コメント欄はもはや言葉を失っていた。
彼がどれほどの想いでこの世界に足を踏み入れたのか。
彼が、どれほどの覚悟であの狂気的なギャンブルに挑んだのか。
その全ての理由が、今、明らかになった。
彼の全ての行動は、ただ一つの目的のためにあったのだ。
愛する妹を、救うため。
そのあまりにも純粋で、そして切実な想い。
それに気づいた時、視聴者たちの心に、これまでにない温かい感情が込み上げてきた。
賞賛でも、畏怖でもない。
ただ一人の兄の、愛の深さへの心からの「尊敬」の念だった。
『JOKERさん…』
『あんたって奴は…』
『泣けるぜ…』
コメント欄が、感動の言葉で埋め尽くされていく。
だが、隼人はそんなお涙頂戴の空気をぶち壊すかのように、ふっと息を吐き出した。
そして、彼はいつものあの獰猛なギャンブラーの顔に戻って、言い放った。
「…勘違いすんなよ、お前ら」
「俺はギャンブラーだ。ただ、自分が好きなことしながら、賭けに勝つのが好きなだけさ」
そのあまりにも突き放した、言葉。
だが、その言葉の奥に隠された彼の本当の優しさを、視聴者たちはもう理解していた。
そして、彼らは気づいてしまったのだ。
この男にとって、1億9000万円という大金を稼ぎ出すあの究極のギャンブルですら、彼が言う通り、「好きなこと」の延長線上に過ぎないのだと。
賭けに勝つことが、当然。
奇跡を起こすことが、日常。
そのあまりにも歪んだ、しかし絶対的な自己肯定感。
それこそが、神崎隼人 "JOKER" の、本当の強さの源泉なのだと。
その事実に、視聴者たちは再び騒然となった。
この男は、どこまで行くのだろうか。
この男の器は、一体どれほど大きいのだろうか。
彼らが抱く興味は、もはや尽きることがなかった。
物語は、主人公がその常人には理解しがたい行動原理と、その底知れない器の大きさで、再び視聴者たちを魅了し、彼の伝説がまた新たな一ページを刻んだ、その瞬間を描き出して幕を閉じた。




