第84話
新宿の夜景は、眠らない。
星々のように煌めく摩天楼の灯りが、まるでこれから始まる大勝負の舞台を祝福しているかのようだった。
神崎隼人 "JOKER" は、ギルド本部ビルの荘厳なエントランスを駆け抜け、専用のエレベーターに乗り込んでいた。最上階のボタンを押す彼の指先は、興奮でわずかに震えている。
彼の心臓は、これまでにないほど高く、そして速く脈打っていた。
それは、恐怖ではない。
純粋な、武者震い。
最高のテーブルを前にしたギャンブラーだけが味わうことのできる、至上の高揚感だった。
チーン、という軽やかな音と共に扉が開く。
そこに広がっていたのは、彼が一度だけ足を踏み入れたことのある、あの独特の空気が支配する空間。
『公式オークションハウス』。
そこは、静かだった。だが、その静寂の中には、一触即発のピリピリとした緊張感が常に張り詰めている。
壁一面に設置された巨大なモニターには、現在出品されている、億単位の価値を持つ伝説級のアイテムが、その神々しい姿を映し出している。
フロアには、まばらに、しかしその誰もが尋常ならざるオーラを放つ、トップランカーや大物のブローカーたちの姿があった。
彼らはソファに深く腰掛け、手元の端末を操作しながら、静かに、しかし熾烈な心理戦を繰り広げている。
隼人は、その場の空気にもはや気圧されることはなかった。
彼の瞳には、ただ一つの獲物しか映ってはいなかったからだ。
彼は、フロアの隅に設置された検索用の端末へと向かった。
震える指で、タッチパネルを操作する。
検索ウィンドウに、彼はその運命の剣の名を打ち込んだ。
『――泡沫の刃』
数秒の、ローディング。
彼の心臓が、ドクンと大きく脈打つ。
頼む、あってくれ…!
そして、モニターに検索結果が表示された。
一件。
ただ一件だけ、ヒットした。
==================================== アイテム名: 【泡沫の刃】 出品者: "トレジャーハンター組合" 現在価格: 800,000 円 入札件数: 0 残り時間: 00:29:58
あった…!
しかも、まだ誰も入札していない。
開始価格は、80万円。
彼が先日ユニークアミュレット【劫火の眼差し】を売却して得た軍資金と、これまでの貯蓄を合わせれば、なんとか手が届く金額。
残り時間は、30分。
まさに、奇跡的なタイミング。
彼は、神に、あるいは運命の女神に感謝した。
そして、彼は一切の躊躇なく、自らの探索者カードを端末に認証させた。
『入札額を入力してください』
彼はまず、ジャブを打つことにした。
『810,000円』
彼が入札ボタンを押した、その瞬間。
オークションハウスの静かな空気が、わずかに揺れた。
巨大なモニターの新着入札リストに、『JOKER』という、今この業界で最も注目を集める名前と、その入札額が表示されたからだ。
フロアにいた何人かの探索者がざわつき、こちらを窺うような視線を向けてくる。
だが、隼人は気にしない。
彼の意識は、ただモニターの数字だけに集中していた。
彼の入札を皮切りに、事態は動き始めた。
残り時間、25分。
新たな入札者が、現れた。
『現在価格: 820,000円』
やはり、いたか。
この剣を、水面下で狙っていた別のプレイヤーが。
隼人は、舌打ちしながら即座に再入札する。
『830,000円』
彼は、相手に考える暇を与えない。即座に上乗せすることで、「お前には譲る気はない」という強い意志を示す。
だが、相手も引かなかった。
数秒後には、価格は84万円へと吊り上がった。
『現在価格: 840,000円』
(…なるほどな。こいつも、本気か)
隼人は、冷静に相手の懐具合を分析する。
1万円刻みの、丁寧な入札。
おそらく相手も、自分と同じように、なけなしの金をかき集めてこのオークションに挑んでいるのだろう。
ならば、勝負は心理戦だ。どちらが先に、相手の心を折るか。
残り時間、15分。
価格は、88万円を超えた。
もはや、他の入札者はいない。
彼と、顔の見えないもう一人のプレイヤーとの、一騎打ち。
モニターの数字が、一進一退の攻防を繰り返す。
88万円。
89万円。
相手は、決して降りない。
隼人の額に、じわりと汗が滲む。
このままでは、不毛なチキンレースだ。いずれ、自分の資金が底をつく。
(…やるしか、ねえか)
彼は、覚悟を決めた。
ギャンブラーとしての、最後の、そして最強の一手を打つことを。
彼は入札額の入力画面に、これまでの1万円刻みとは全く違う、不規則で、そして強い意志を感じさせる数字を打ち込んだ。
『――900,000円』
一気に、1万円の吊り上げ。
そして、キリの良い数字。
それは、相手にこう思わせるための、巧妙なブラフだった。
(こいつ、まだ余裕があるのか…?俺はもう90万が限界なのに、こいつはその大台にあっさりと乗ってきた…。これ以上付き合っても、無駄かもしれない…)
彼の、ギャンブルで培った全ての経験と洞察力を込めた、渾身の一撃。
その一撃は、効果てきめんだった。
残り時間、5分。
モニターの現在価格は、『900,000円』のまま、動かない。
相手は、完全に沈黙した。
彼の心が、折れたのだ。
4分、3分、2分…。
隼人は、心臓の音がうるさいほどに聞こえるのを感じながら、ただカウントダウンを見つめていた。
10、9、8、7、6、5、4、3、2、1…。
『――オークション終了』
モニターに、無慈悲な、しかし彼にとっては勝利のファンファーレとなる文字が表示された。
『落札者: JOKER』
「…よしっ!」
彼は、思わず小さなガッツポーズを決めた。
周囲の視線も、忘れて。
彼は、安堵と、そしてこれ以上ないほどの達成感に包まれていた。
カウンターで90万円という大金を支払い、彼はついにその泡沫の剣を、その手に収めた。
ずっしりとした、重み。
そして、その奥に宿る、不安定で、しかし無限の可能性を秘めた雷の闘気。
彼は、その剣をまるで大切な宝物のように抱きしめた。
「…いい買い物だった」
彼の口から、満足のため息が漏れた。
新たな、そして最強のギャンブルのための、最高の「賭け金」を手に入れた彼。
その視線は、もはやこのオークションハウスにはない。
自らの運命を試す、究極のテーブルへと向けられていた。
◇
その日の夜。
神崎隼人の配信チャンネルに、一つの告知が表示された。
それは、あまりにもシンプルで、そしてどこまでも挑戦的だった。
『【運命の夜】今宵、伝説を創る』
そのタイトルが公開された、その瞬間。
彼のチャンネルには、通知を待ち構えていた数万、いや十数万の観客たちが、津波のように殺到した。
コメント欄は、もはや制御不能。
期待と、興奮と、そしてわずかな不安が入り混じった、熱狂の坩堝と化していた。
『きたあああああああああああああ!』
『運命の夜!まさか、やるのか!?』
『泡沫の刃、買ったってマジかよ!オークションのログ、見たぞ!』
『賭け金100万のギャンブル…。正気か、JOKER!』
『やめとけ!絶対にやめとけ!アイテムが消えるぞ!』
『いや、やれ!俺たちに、奇跡を見せてくれ!』
賛否両論。
だが、その全ての声に共通しているのは、これから始まる前代未聞のショーへの、熱狂的な期待だった。
やがて、配信開始時刻。
画面に映し出されたのは、いつものダンジョンでも、殺風景な自室でもなかった。
そこは、西新宿の夜景が一望できる高層ビルの屋上。
彼が、時折一人で考え事をする時に使う、秘密の場所。
その中央に、彼は静かに座っていた。
彼の目の前には、二つのアイテムが厳かに置かれている。
一つは、先ほど手に入れたばかりのユニーク片手剣【泡沫の刃】。
そしてもう一つは、あの腐敗エリアの主からドロップした、どす黒い紫色の宝珠…【腐敗のオーブ】。
「よう、お前ら」
隼人は、ARカメラの向こうの十数万人の観客たちに、静かに語りかけた。
その声は、いつもよりも少しだけ低く、そしてどこまでも澄んでいた。
「今夜は、ただのギャンブルじゃねえ。俺の全てを賭けた、運命の儀式だ」
彼は、二つのアイテムをゆっくりと手に取る。
「この剣の価値は90万。そして、このオーブの価値は数万。合わせて、約100万円。俺の全財産の、ほとんど全てだ」
「そして、このギャンブルの成功確率は1%未満。ほとんどは、ゴミになるか、あるいは消滅する」
「普通の人間なら、絶対にやらない愚かな賭けだ」
彼はそこで一度言葉を切ると、その口元に最高の、不敵な笑みを浮かべた。
「――だから、面白いんじゃねえか」
その一言に、コメント欄が爆発した。
これだ。
これこそが、俺たちが愛したJOKERだ。
常識を嘲笑い、リスクを愛し、そして運命すらも手玉に取る、唯一無二のギャンブラー。
固唾を飲む、有識者たち。
祈るように画面を見つめる、ファンたち。
その全ての視線が、彼一人に注がれる。
彼はゆっくりと二つのアイテムを近づけていく。そして、彼は叫んだ。
その声は、このショーの開幕を告げるファンファーレ。そして、自らの運命への挑戦状だった。
「さあ、ショータイムだ!」
「賭け金は、俺の運命。【運命の天秤】発動ッ!!」
瞬間、彼の精神世界で巨大な天秤がギシリと音を立てて、大きく、そして確実に成功の方向へと傾いていく。
彼が【腐敗のオーブ】を【泡沫の刃】に叩きつけた、その瞬間。
ありえない奇跡が、起こった。
剣が放つ雷の光が、一瞬でその色を変えたのだ。
青白い雷光が、禍々しい紫黒の腐敗のオーラに飲み込まれ、そしてその二つの力が混じり合い、一つの全く新しい概念の力へと昇華していく。
それは、もはやただのエンチャントではない。
世界の理を捻じ曲げ、新たな法則を創造する、神の御業。
やがて嵐のような光が収まった時、彼の手の中にあったのは、もはやただの【泡沫の刃】ではなかった。
その刀身には、これまで存在しなかった一つの古代のルーン文字が、禍々しく、そして美しく刻み込まれていたのだ。
ARシステムが、その新たに生まれ変わった剣の詳細な性能を表示する。そして、その性能を目にした全ての人間が、言葉を失った。
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名前: 泡沫の刃
等級: ユニーク(堕落済み)
【ユニーク特性】
グローバル命中率が40%増加する
知性+10
1-75の雷ダメージを追加する
グローバルクリティカル率が50%増加する
最大エナジーシールドが40%増加する
最大ライフが25%減少する
この武器でのアタックは、最大エナジーシールドの10%にあたる雷ダメージ(最大値)を、追加で与える
【堕落による追加特性】
キーストーン【レゾリュートテクニック】が付与される
(あなたのヒットは、回避されることがない)
(あなたは、クリティカルストライクを与えることがなくなる)
====================================
静寂。
数秒間の、絶対的な沈黙。
そして、その静寂を破ったのは、隼人自身の小さなガッツポーズだった。
「…よしっ」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。
その表情は、安堵と、そして自らの運命への絶対的な確信に満ちていた。
運命は、JOKERを愛している。
当然のように、成功する。
それが、彼の世界のルールなのだから。
そのあまりにもクールな、勝利宣言。
それに、コメント欄が、これまでのどの熱狂とも比較にならない、本当の爆発を起こした。
それは、もはやただの賞賛ではない。
一つの伝説が神話を超えたその瞬間に立ち会えたことへの、感謝と、祝福と、そして畏怖の嵐だった。
『うおおおおおおおお!!!!!!!!!!』
『やった…やったんだ…!』
『リアルタイムで、伝説を見ちまった…!』
『1億2,000万の剣が、生まれた瞬間だ…!』
『ありがとうJOKER!最高のショーだった!』
『俺は、一生あんたについていくぜ!』
彼のギャンブルは、終わった。
そして、彼は勝ったのだ。
この世界の誰よりも、鮮やかに、そして美しく。
物語は、主人公がその運命を自らの手で掴み取り、新たな伝説を創造した、その最高の瞬間を描き出して幕を閉じた。




