第83話
C級ダンジョン【忘れられた闘技場】の、血と砂の匂いが、まだその身に染み付いているかのような錯覚。
神崎隼人 "JOKER" は、自室のギシリと軋む古びたゲーミングチェアに、その身を深く沈めていた。
彼の目の前のモニターには、先ほどの熱狂的な配信のアーカイブが映し出されている。
画面の向こう側では、数万人の視聴者たちが彼の狂気的な宣言に熱狂し、賞賛と期待のコメントを嵐のように打ち込んでいた。
『乗るぜ、その勝負』
自らが放った、その言葉。
それは、もはやただのリップサービスではない。
彼の魂に深く刻み込まれた、絶対的な誓約。
賭け金、100万円。
リターン、1億2,000万円以上。
成功確率、1%未満。
その数字の一つ一つが、彼のギャンブラーとしての血を沸騰させるには、十分すぎるほどの燃料だった。
「…ふっ」
彼は、自らの宣言を見返し、満足げに鼻を鳴らした。
だが、彼はただ興奮に身を任せるだけの、三流の博徒ではない。
熱くなった頭を冷たい水で洗い流すように、彼は思考を切り替える。
大勝負のテーブルに着く前には、常に徹底的な下調べと準備が必要不可欠だ。
相手を知り、ルールを知り、そして自らの手札を完璧に把握する。
それこそが、彼がこれまで裏社会の修羅場を生き抜いてきた、唯一の流儀。
彼はブラウザの新しいタブを開き、再びあの情報の海…日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』へと、その意識をダイブさせた。
彼の目的は、ただ一つ。
あのハクスラ廃人たちが熱狂的に語っていた究極のギャンブル。
その全ての情報を、丸裸にすること。
彼はまず検索窓に、その詩的な響きを持つ剣の名前を打ち込んだ。
『泡沫の刃 詳細 ビルド』
エンターキーを押すと、彼の目の前におびただしい数のスレッドが表示された。
そのほとんどが、彼のような魔法剣士ビルドに憧れるプレイヤーたちの、夢と、そして挫折の記録だった。
彼はその中から、ひときわ専門的で、そしてマニアックな議論が交わされている一つのスレッドを選び出した。
『【ESスタック】泡沫の刃ビルド総合考察スレ Part. 28』
そこは、もはや初心者が足を踏み入れることを許されない、神々の領域。
彼がスレッドを読み進めていくと、そこには彼の想像を絶する、あまりにも深く、そして狂的なビルド構築の世界が広がっていた。
121 蒼き雷光
やはりこのビルドの肝は、いかにしてESを2万以上まで積み上げるか、だな。
俺は最近、頭、胴、手、足の全ての防具をESベースのレア装備で固めてみたんだが、それでもようやく1万8千に届いたくらいだ。
ここから2万の大台に乗せるには、やはりパッシブツリーでES増加のノードを取るしかないのか…?
125 雷鳴の賢者
121
甘えるな。ES2万など、このビルドのスタートラインに過ぎん。
俺の現在のESは2万5千。目標は、3万だ。
そのためには、装備のMOD(特性)にも徹底的にこだわる必要がある。
T1(最高ティア)のES増加MODと、T1のES割合増加MOD。この二つが同時に付いた神レアを手に入れるまで、クラフトをやめるな。
金が尽きたら、ダンジョンに潜れ。それだけだ。
ES2万。3万。
そのあまりにも、現実離れした数字。
隼人は、自らのステータスを確認する。
彼の現在のエナジーシールドは、【吹雪の鎧】を使った時ですら、わずか30。
桁が、三つも違う。
彼は、このビルドがいかに資産と時間を要求される茨の道であるかを、改めて思い知らされた。
そして、彼はこのビルドが抱える、もう一つの致命的な「欠陥」についての議論を見つけ出した。
132 閃光の博徒
ESを積むのはいい。だが、お前ら忘れてねえか?
この【泡沫の刃】って武器の、最大の問題点を。
それは、『この武器でのアタックは最大エナジーシールドの10%にあたる雷ダメージ(最大値)を追加で与える』っていう効果だ。
この「最大値」ってのが、曲者なんだよ。
その書き込みに、隼人は眉をひそめた。
どういう、ことだ?
132 閃光の博徒
分かりやすく、説明してやる。
例えば、お前のESが2万だったとしよう。
そうすると、この武器の追加雷ダメージは、その10%…つまり2000になる。
だが、それはあくまで「最大値」だ。
この世界の全てのダメージには、「下限値」と「上限値」が設定されている。
そして、この【泡沫の刃】の追加ダメージの下限値は、いくつだと思う?
―「1」だ。
「…は?」
隼人の口から、間抜けな声が漏れた。
132 閃光の博徒
そういうことだ。
この武器の追加雷ダメージは、常に1~2000という、あまりにも馬鹿げた振れ幅の中でランダムに決定される。
ある時は、神をも殺す2000ダメージを叩き出す。
だが、次の瞬間には、ゴブリンすら殺せない1ダメージしか出ない。
まさに、究極のギャンブル武器。
どれだけESを積んでも、どれだけクリティカル率を高めても、このあまりにも不安定なダメージロールの前では、全てが無意味になる可能性がある。
これこそが、このビルドが「最強」にして「最弱」と呼ばれる、所以よ。
その衝撃的な事実。
隼人は、ただ呆然とモニターを見つめていた。
なんだ、それは。
そんな致命的な欠陥を抱えた武器が、なぜあれほどまでに高値で取引されている?
その答えは、すぐ下の書き込みに記されていた。
138 雷鳴の賢者
132
だからこそ、面白いんじゃねえか。
そして、お前はまだこのビルドの本当の面白さを理解してねえな。
その不安定なダメージロールを安定させるための「解法」が、ちゃんと用意されてるだろうが。
ユニーク・アミュレット、【嵐の叫び(あらしのさけび)】。
これこそが、このビルドを完成させるための、最後のピースだ。
嵐の叫び。
その名前に、隼人はゴクリと喉を鳴らした。
彼はすぐさま、そのアミュレットの詳細を検索する。
そして、そのあまりにもJOKERらしい、イカサマのような性能に戦慄した。
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名前: 嵐の叫び(あらしのさけび)
ベース: ラピスのアミュレット
【要求レベル】
69
【ユニーク特性】
知性 +30
雷ダメージが50%増加する
全能力値 +15
最大マナが20%増加する
クリティカルではない攻撃による雷ダメージは、幸運となる
(幸運とは、ダメージ算出時により高い方のロールが適用されることを意味する)
【フレーバーテキスト】
それは、風の囁きでも、一筋の閃光でもない。天そのものを砕く、耳を聾するほどの咆哮。
幸運。
その一言が、持つ意味。
隼人は、瞬時にその全てを理解した。
ダメージロールが、二回行われる。
そして、その二回のうち、より高い数値の方が採用される。
1~2000という、絶望的な乱数。
それが、このアミュレットを装備するだけで、常に上振れを引き続ける確率操作のテーブルへと変わる。
例えば、一回目のロールが100で、二回目が1800だったなら、採用されるのは1800。
一回目が5で、二回目が20だったなら、採用されるのは20。
下振れのリスクを大幅に軽減し、常に高ダメージを期待できる。
それは、もはやただの幸運ではない。
明確なイカサマ。
世界の理を捻じ曲げる、ギャンブラーのための切り札。
「…なるほどな。面白い。実に、面白いじゃねえか」
彼の口元が、ゆっくりと吊り上がっていく。
【泡沫の刃】の、不安定なダメージ。
それを、【嵐の叫び】の「幸運」で安定させる。
そして、その必中高火力を、【レゾリュートテクニック】付きの堕落品で完成させる。
なんと美しく、なんと狂的なシナジー。
これこそが、ビルド構築の芸術。
これこそが、この世界の深淵。
だが、彼は同時に気づいてしまった。
このビルドが要求する、あまりにも過酷な現実に。
まず、ベースとなる【泡沫の刃】が80万円。
そして、それを安定させるための【嵐の叫び】。彼は、その市場価格も調べてみた。
これもまた、最低でも2億円は下らない、超高級品。
そして、極め付けは、それに【レゾリュートテクニック】を付与した堕落品の【泡沫の刃】。
開始価格、1億2,000万円。
つまり、このビルドを最低限形にするだけで、3億2000万円以上の資産が必要になる。
彼の全財産を投げ打っても、全く届かない遥かなる高み。
「…はっ」
彼の口から、乾いた笑いが漏れた。
「1億2,000万円の剣が、最低限の装備か。面白い。実に面白いじゃねえか、この世界は」
彼は、絶望してはいなかった。
むしろ、その逆。
彼の魂は、そのあまりにも高く、そして険しい目標を前にして、これ以上ないほど燃え上がっていた。
だが、彼はそこで、さらに信じられない情報を目にする。
スレッドの議論は、まだ終わってはいなかったのだ。
155 雷帝の信奉者
RT付きの泡沫の刃ねえ…。
確かに強い。強いが、あれはまだ入門編に過ぎんよ。
俺たち、本当のトップランカーが目指すのは、そのさらに先だ。
158 閃光の博徒
155
…まさか、お前言ってるのか?
あの、都市伝説レベルのギャンブルのことを。
155 雷帝の信奉者
ああ、そうだ。
「二重腐敗」だよ。
二重腐敗。
その禍々しい響きに、隼人の背筋が凍りついた。
155 雷帝の信奉者
お前ら、知ってるか?
ダンジョンの最深部。腐敗の祭壇がある、特別な部屋。
そこで、【腐敗のオーブ】を二つ同時に使うと、奇跡が起こるって噂を。
アイテムは、二度堕落する。
一度目の堕落で、キーストーン・パッシブを付与する。
そして、二度目の堕落で、全く別のランダムなユニーク特性をもう一つ付与するんだ。
成功確率は、もはや計測不能。ゼロに、限りなく近い。
だが、もし成功したなら…。
160 ハクスラ廃人
…やめろ。その先は、言うな。
俺は、一度だけオークションで見たことがある。
【レゾリュートテクニック】と、「あなたの攻撃は常にクリティカルヒットになる」っていう、二つの相反する特性が同時に付与された、矛盾の塊みてえな泡沫の刃を。
その落札価格、覚えてるか?
―1兆4000億4000万だ。
1兆4000億4000万。
その数字は、もはや隼人の理解の範疇を、完全に超えていた。
国家予算か、何かか。
だが、彼はその狂気の沙汰に恐怖するどころか、心の底から歓喜していた。
そうだ、これだ。
これこそが、俺が本当に求めていた究極のギャンブルだ。
1400万円の賭けですら、まだ生ぬるい。
そのさらに先に、億単位のチップが飛び交う神々のテーブルが存在するというのか。
「…面白いじゃ、ねえか」
彼の口元が、これまでにないほど深く、そして獰猛に吊り上がっていく。
「所詮、1億2,000万円なんてのは、安いギャンブルってわけだ」
彼は、ARカメラの向こうの数万人の観客たちに、そしてこの世界の全てのプレイヤーに宣言した。
その声は、絶対的な自信と、そして常人には理解不能な狂気に満ち溢れていた。
「――こんな賭け、成功させて当たり前だな」
そのあまりにも不遜で、傲慢な一言。
それに、コメント欄が、これまでのどの熱狂とも比較にならない、本当の爆発を起こした。
それは、もはやただの賞賛ではない。
一つの伝説が神話を超えようとするその瞬間に立ち会えたことへの、感謝と、祝福と、そして畏怖の嵐だった。
彼の次なるギャンブルの幕は、今、確かに上がったのだ。
物語は、主人公が自らの全てを賭けるに値する究極の大勝負を見つけ出し、その挑戦を高らかに宣言した、その最高の瞬間を描き出して幕を閉じた。




