第82話
C級ダンジョン【忘れられた闘技場】。
その血と砂と、そして忘れ去られた者たちの怨念が染み付いた広大なアリーナは、もはや神崎隼人 "JOKER" にとって、第二の庭となっていた。
彼の配信チャンネルにログインした数万人の視聴者たちが目にするのは、もはや手に汗握る死闘ではない。
それは、絶対的な王者が自らの支配領域をただ巡回するだけの、圧倒的に安定しきったショー。
彼の耳に装着されたワイヤレスイヤホンからは、彼が最近ハマっているというマイナーなインディーズバンドの、ノイジーなギターロックが大音量で流れている。
彼はその気怠いリズムに軽く首を揺らしながら、闘技場の内部通路を、まるで近所のコンビニにでも向かうかのような気の抜けた足取りで進んでいく。
その姿は、もはや命を賭ける探索者のそれではない。
ただの退屈な日常を、少しでも楽しもうと工夫する、一人の青年のそれだった。
「いや、だからこのバンドのボーカルは、絶対にカート・コバーンに影響受けてるって。このAメロの気怠いアルペジオから、サビでいきなり轟音のディストーションギターに切り替わる、この緩急の付け方。ニルヴァーナのお家芸だろ」
彼のそのあまりにもマニアックな音楽談義に、コメント欄が和やかな笑いに包まれる。
『出たw JOKERさんの90年代グランジ講座www』
『また始まったよ、この誰もついていけない話w』
『でも、この曲格好良いな。なんてバンド?後で調べてみよう』
『このゆるい雑談しながら、敵を瞬殺していくスタイル、マジで癖になる』
隼人は、そんな視聴者たちのコメントを楽しむように眺めながら、ひょいと角を曲がった。
その瞬間。
彼の目の前に、カタカタと音を立てる数体のゴブリン・グラディエーターが現れた。
前衛に、盾持ちが二体。後衛に、弓兵が一体。
かつて彼を苦しめた、厄介な布陣。
だが、隼人はその雑談を止めることはない。
彼の右手は、もはや彼の意識とは別の生き物のように滑らかに動き、その腰に差されたユニーク長剣【憎悪の残響】を抜き放つ。
「で、この歌詞がまた良いんだよな。社会への不満とか、疎外感とかを歌ってるようで、その根底にはどこか純粋な愛を求めてる感じがして…」
彼がそう語りながら、右腕を軽く振るう。
【スペクトラル・スロー】。
青白い霊体の剣が三つに分裂し、扇状に飛翔する。
その内二本が後衛の弓兵の喉元を正確に貫き、残りの一本が壁に跳ね返り、一体の盾兵の背後から、その無防備な背中を切り裂いた。
「キシャ!?」
「グルア!?」
完璧な連携が、たった一撃で崩壊する。
相棒を失い、混乱する残りの一体の盾兵。
その目の前に、隼人はゆっくりと歩み寄る。
そして、ただ軽く一閃。
ザシュッ!
彼の長剣が通り過ぎたその軌跡上の全てのグラディエーターが、その体を青黒い霜で覆われながら、一瞬で砕け散り、光の粒子となって消えていく。
彼の全身を覆う【憎悪のオーラ】がもたらす追加冷気ダメージ。そして、【脆弱の呪い】が作り出す絶対的な防御の穴。
その二つの相乗効果は、C級のエリートモンスターですら、彼に一太刀浴びせることすら許さない。
もはや、敵の姿を見るまでもない。
ただ歩き、語り、そして時折剣を振るうだけ。
それだけで、このC級ダンジョンは彼の独壇場と化していた。
『うわ、また一瞬で終わったw』
『もはやJOKERさんにとって、グラディエーターは道端の雑草と変わらんな』
『この音楽談義しながら敵を殲滅していくスタイル、マジで神がかってる』
コメント欄もまた、彼のそのあまりにも圧倒的な強さに、もはや驚愕ではなく、心地よい安心感すら覚えていた。
JOKERの配信は、安全だ。
JOKERの配信は、負けない。
その絶対的な信頼感が、彼のチャンネルを数万人が集う巨大なコミュニティへと押し上げていた。
そんなあまりにも平和で、退屈な時間がどれほど続いただろうか。
隼人がドロップした魔石を拾い上げ、インベントリに収納した、その時だった。
ふと、一人の視聴者が、素朴な疑問をコメント欄に投じた。
『そういやJOKERさん。前に腐敗エリアで拾った、あの禍々しいオーブ、どうしたの?』
そのコメントに、他の視聴者たちも次々と反応し始める。
『ああ!【腐敗のオーブ】か!』
『確かに!あれ、どうするんだ?』
『ギャンブルアイテムだって言ってたよな?使うのか?』
その問いかけ。
それが、この日の配信を単なる雑談ファームから、この世界の深淵を覗き込む高度なギャンブル談義へと変えるきっかけとなった。
隼人は、そのコメントに目を止めると、少しだけ考える素振りを見せた。
「ああ、あれか…」
彼は、インベントリの奥深くで静かに、しかし禍々しいオーラを放ち続ける、あのどす黒い紫色の宝珠を思い浮かべる。
「正直、まだ使い道は決めてねえんだよな。あれは、下手に使うとアイテムが消滅するリスクもあるって話だしな。賭け金が、デカすぎる」
彼のその慎重な物言いに、コメント欄の有識者たちが待っていましたとばかりに、その知識を披露し始める。
元ギルドマン@戦士一筋:
JOKER、その判断は正しい。
【腐敗のオーブ】は、まさに究極のギャンブルだ。
俺も若い頃、ギルドの仲間たちと酒の勢いで、自慢のレアアックスにあれを使って、一瞬で塵に変えちまった苦い思い出がある。
あれは、全てを失う覚悟がある者だけが、触れることを許される禁断の果実だ。
ベテランシーカ―:
ええ。ですが、そのリスクの向こう側には、計り知れないリターンが眠っているのも、また事実です。
私が知る限り、この世界の多くの伝説級のユニークアイテムは、この「堕落」のプロセスを経て生まれていると言われています。
通常ではありえない二つの能力が奇跡的に融合したり、あるいは全く新しい概念の力が宿ったり…。
その言葉に、隼人のギャンブラーとしての魂が、わずかに疼くのを感じた。
そして、あのハクスラ廃人が、その具体的な「勝ちパターン」の一つを提示した。
ハクスラ廃人:
まあ、ギャンブルとは言ってもな、ある程度の「定石」みてえなもんは存在するぜ。
俺たちハクスラプレイヤーの間で、最もメジャーな腐敗ギャンブル。
それが、ユニーク片手剣【泡沫の刃】を堕落させるってやつだ。
泡沫の刃。
その詩的な響きに、隼人は興味を惹かれた。
「…なんだそりゃ。聞いたことねえな」
彼のその呟きに、ハクスラ廃人が得意げに解説を続ける。
ハクスラ廃人:
知らねえのか?まあ、お前みてえな脳筋戦士には、縁のねえ武器だからな。
そいつは、クリティカルとエナジーシールドを軸に戦う魔法剣士系のビルドで、よく使われるユニーク剣だ。
これがまた、ピーキーで面白い性能をしてやがるんだよ。
彼はそう言うと、SeekerNetのデータベースから、そのアイテムの詳細な情報をコメント欄に貼り付けた。
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名前: 泡沫の刃
ベース: 片手剣
要求レベル 32, 筋力 57, 敏捷 57
【ユニーク特性】
グローバル命中率が40%増加する
知性+10
1-75の雷ダメージを追加する
グローバルクリティカル率が50%増加する
最大エナジーシールドが40%増加する
最大ライフが25%減少する
この武器でのアタックは、最大エナジーシールドの10%にあたる雷ダメージ(最大値)を、追加で与える
【フレーバーテキスト】
生命とは、束の間の夢。その夢が短ければ短いほど、その輝きは増す。
そのあまりにも特徴的で、そしてどこか自傷的な性能。
隼人は、そのテキストを食い入るように見つめた。
最大ライフが25%も減少するという、強烈なデメリット。
その代わりに、クリティカル率とエナジーシールドが爆発的に増加する。
そして、極め付けは最後の一文。
最大エナジーシールドに応じて、追加の雷ダメージが乗る。
まさに、ハイリスク・ハイリターン。
防御を捨て、一撃の煌めきに全てを賭ける、ガラスの剣。
そのあまりにも潔い設計思想に、隼人は感銘すら覚えていた。
「…面白い。面白い剣じゃ、ねえか」
「だが、これがどう腐敗と関係あるんだ?」
彼のその問いに答えたのは、元ギルドマンだった。
元ギルドマン@戦士一筋:
JOKER、その剣の弱点がどこにあるか分かるか?
それは、「命中率」だ。
グローバル命中率+40%という効果は、確かに強力だ。だが、クリティカルビルドというものは、常に命中率との戦いになる。
いくらクリティカル率を100%に近づけても、その攻撃そのものが当たらなければ意味がない。
特に、C級以上の回避力が高い敵が相手では、この命中率+40%だけでは心許ない。
攻撃が当たるか、当たらないか。その不確定要素が、この武器の評価を少しだけ下げている要因だ。
ベテランシーカ―:
ええ。ですから、この【泡沫の刃】を使うプレイヤーの多くは、パッシブスキルツリーや他の装備で、必死に精度を稼ぐ必要があるんです。
それは、ビルドの自由度を大きく制限する要因ともなっています。
その解説に、隼人は深く頷いた。
C級ダンジョンで、彼自身が痛いほど味わった現実だ。
そして、ハクスラ廃人がその議論の核心を突いた。
ハクスラ廃人:
だがな、JOKER。もし、その命中率の問題を完全に解決する方法があるとしたら、どうだ?
いや、解決するどころか、その弱点を最強の長所に変えてしまう魔法があるとしたら?
それこそが、【腐敗のオーブ】がもたらす奇跡なんだよ。
彼はそこで一度言葉を区切ると、全ての視聴者の期待を煽るように続けた。
ハクスラ廃人:
【腐敗のオーブ】にはな、ごくごくごく稀に、アイテムにキーストーン・パッシブを付与するっていう、ぶっ壊れた効果があるんだ。
そして、俺たちがこの【泡沫の刃】に狙うキーストーンは、ただ一つ。
【レゾリュートテクニック】だ。
レゾリュートテクニック。
その名前に、隼人は聞き覚えがあった。
戦士のパッシブツリーの奥深くに存在する、あの賛否両論のキーストーン。
元ギルドマン@戦士一筋:
【レゾリュートテクニック】。
その効果は、二つ。
一つは、「あなたのヒットは回避されることがない」。つまり、命中率が100%になる絶対的な効果だ。
そしてもう一つは、その代償。「あなたは、クリティカルストライクを与えることがなくなる」。
必中になる代わりに、クリティカルが出なくなる。
あまりにも、極端なトレードオフ。
普通のビルドであれば、決して採用されることのない特殊なパッシブ。
だが、と隼人は思った。
もし、それがこの【泡沫の刃】に付与されたなら…?
ベテランシーカ―:
もう、お分かりですね、JOKERさん。
【泡沫の刃】に【レゾリュートテクニック】が付与された、その瞬間。
この武器は、その性質を完全に反転させるのです。
命中率という最大の弱点は、完全に克服される。
そして、クリティカルが出なくなるというデメリット。それすらも、この武器のユニーク特性…『最大エナジーシールドの10%にあたる雷ダメージを追加で与える』という効果が、完全に補って余りある。
クリティカルという確率に頼らない、安定した高火力を必中で叩き込み続ける、最強の魔法剣へと生まれ変わるのです。
そのあまりにも美しく、そして完成されたシナジー。
隼人は、その発想に戦慄していた。
弱点を潰し、長所を伸ばす。
それも、たった一つのエンチャントで。
これこそが、ビルド構築の醍醐味。
これこそが、この世界の面白さだ。
「…なるほどな。面白い。実に、面白いじゃねえか」
彼の口から、感嘆の声が漏れた。
「で、そのRT付きの泡沫の刃とやらは、いくらで売れるんだ?」
彼のその現実的な問いかけに、ハクスラ廃人が待っていましたとばかりに答えた。
ハクスラ廃人:
よく聞いて、驚けよ、JOKER。
まず、ベースとなる【泡沫の刃】。こいつの市場価格が、大体80万円だ。
そして、それに【腐敗のオーブ】を使う。
成功確率は、天文学的に低い。1%もないだろうな。ほとんどは、ゴミになるか、消滅する。
だが、もし、万が一、億が一、そのギャンブルに勝利し、【レゾリュートテクニック】の付与に成功したなら。
その剣はな…
彼はそこで、一度大きくタメを作った。
そして、全ての視聴者の息を呑む音を楽しむかのように、その衝撃の数字を叩きつけた。
ハクスラ廃人:
―オークションの開始価格が、1億2,000万円からだ。
しかも、大抵それ以上で売れる。トップランカーたちが、血眼になって奪い合うからな。
1億2,000万。
その数字が持つ、圧倒的な質量。
隼人の思考が、一瞬停止した。
彼の脳内で、高速の計算が始まる。
賭け金は、【泡沫の刃】の80万円と、【腐敗のオーブ】の数万円。
合わせて、約100万円。
それが成功すれば、1億2,000万円以上になる。
リターンは、120倍以上。
成功確率は、1%未満。
ハイリスク・ハイリターン。
いや、違う。
これは、もはやただのギャンブルではない。
人生そのものを賭けるに値する、究極の大勝負。
彼の全身の血が、沸騰するのを感じた。
彼の魂が、歓喜に打ち震えているのを感じた。
そうだ、これだ。
これこそが、俺が求めていた最高のテーブルだ。
彼は、椅子から勢いよく立ち上がった。
その瞳には、もはやC級ダンジョンの退屈な風景など映ってはいなかった。
ただ、目の前に積まれた巨大なチップの山だけを見据えていた。
彼は、ARカメラの向こうの数万人の観客たちに、そして自らの運命に宣言した。
その声は静かだったが、その奥には、全てを焼き尽くすほどの狂気的な熱が宿っていた。
「…良いじゃないか」
「賭け金100万円で、120倍以上だと…?」
彼の口元が、ゆっくりと三日月の形に吊り上がっていく。
「――乗るぜ、その勝負」
その一言が投下された瞬間、コメント欄が、これまでのどの熱狂とも比較にならない、本当の爆発を起こした。
それは、もはやただの賞賛ではない。
一つの伝説が生まれ落ちるその瞬間に立ち会えたことへの、感謝と、祝福と、そして畏怖の嵐だった。
彼の次なるギャンブルの幕は、今、確かに上がったのだ。
物語は、主人公が自らの全てを賭けるに値する究極の大勝負を見つけ出し、その挑戦を高らかに宣言した、その最高の瞬間を描き出して幕を閉じた。




