第80話
鳴海詩織と水瀬雫。
二人の、全くタイプの違う女性との出会いと交流。
それは、神崎隼人の乾いた日常に、小さな、しかし確かな波紋を広げていた。
彼のスマートフォンには、今や二つの新しい連絡先が登録されている。
時折、雫からは『今日の配信も素敵でした!』といった、ファンとしての純粋な応援メッセージが届く。
そして、詩織からは『あなたの戦い方、とても興味深いですわ。もしよろしければ、今度詳しくお話を聞かせてくださいませんか?』といった、プロの探索者としての知的な好奇心に満ちたメッセージが届く。
その二つの通知が画面に表示されるたびに、隼人はどう返信していいか分からず、ただ眉間に皺を寄せるのだった。
彼は、これまで他者と深く関わることを避けてきた。
特に、女性との関わりは皆無に等しかった。
その彼が、今、二人の女性の間でわずかに心を揺さぶられている。
その事実が、彼を少しだけ戸惑わせていた。
(…面倒くせえな)
彼は自室のベッドに寝転がりながら、スマートフォンの画面を眺め、ため息をついた。
だが、その表情は、決して嫌がっているというわけではない。
むしろ、その新しい刺激をどこか楽しんでいるかのようでもあった。
だが、彼はいつまでもそんな感傷に浸っている男ではない。
彼の本質は、ギャンブラー。そして、ゲーマーだ。
彼の最大の関心事は、常に自らの「成長」にあった。
彼はベッドから身を起こすと、自らの魂の内側…ステータスウィンドウを開いた。
レベル16。
装備は、C級ダンジョンにおいては、もはやオーバースペックと言ってもいい。
スキルもレベルを上げ、その完成度はさらに高まった。
だが、彼の視線は、一つの項目に釘付けになっていた。
【パッシブスキルポイント: 残り 9】
9ポイント。
それは、決して少ない数字ではない。
レベルアップで得られるポイントは、1レベルにつき、たったの1ポイント。
つまり、この9ポイントは、9レベル分の成長の可能性を秘めているということだ。
それを使わずに、温存しておく。
それは、あまりにも勿体ない。
(…どう見ても無駄だよな。振らないと損だ)
彼は、そう結論付けた。
これまで彼がポイントを温存してきたのは、来るべき運命の装備に備えるため。
あるいは、ビルドの方向性が固まるまで様子を見るためだった。
だが、今の彼のビルドは、一つの完成形を迎えている。
そして、この9ポイントを使うことで、その完成形をさらに上のステージへと押し上げることができるかもしれない。
だが、彼の心に一つの懸念がよぎる。
それは、あのSeekerNetの掲示板で見た一つの悲劇。
『名無しの買い直し君』。
軽い気持ちでスキルレベルを上げた結果、ビルドのバランスを崩し、泣きながらレベル1のスキルジェムを買い直した、あの男の物語。
パッシブスキルツリーも、同じだ。
一度振ってしまえば、元に戻すことはできない。
もし間違った選択をしてしまえば、彼の完璧だったはずのビルドは、取り返しのつかない欠陥を抱えることになるかもしれない。
(…下手に振って、振り直し費用がかかるのがな)
彼は、慎重にならざるを得なかった。
振り直しには、特別なアイテムが必要になるはずだ。
彼はSeekerNetを開き、検索窓に『パッシブスキル 振り直し』と打ち込んだ。
すぐに、答えは見つかった。
初心者救済スレ Part. 5
Q. パッシブスキル、振り間違えちゃったんだけどやり直せる?
A. ああ、やり直せるぜ。【後悔のオーブ】っていうカレンシーアイテムを使えばな。
それを1個使うごとに、パッシブスキルポイントが1ポイント還元される。
つまり、9ポイント振り直したかったら、後悔のオーブが9個必要になるってわけだ。
ただ、こいつが結構高いんだよな。
レアモンスターからのレアドロップ品だから、市場価格も安定してて、大体1個2万円くらいで取引されてる。
だから、初心者のうちは、なるべく振り直しはしないように、慎重にポイントを振ることをお勧めするぜ。
後悔のオーブ。1個2万円。
9ポイント振り直すとなれば、18万円もの大金が必要になる。
それは、確かに安くはない金額だ。
数週間前の彼であれば、躊躇していただろう。
だが、今の彼は違う。
C級ダンジョンを安定して周回できるようになった彼の現在の収入は、1日で20万円を下らない。
つまり、一日、本気で稼げばいつでも振り直しは可能だということ。
その事実が、彼の背中を押した。
「…なるほどな。今の俺の収入なら、特に問題はねえか」
彼は、不敵に笑った。
リスクは、管理できる範囲にある。
ならば、もはや躊躇する理由はない。
「よし、決めた。この9ポイント、全部使うぞ」
彼の瞳に、決意の光が灯った。
問題は、どこに振るかだ。
彼は、再び情報の海へとダイブする。
『戦士 パッシブスキル 振り方』
『レベル16 おすすめ パッシブ』
『狂乱チャージ ビルド 最終形』
様々なキーワードで検索をかけ、百戦錬磨の猛者たちの知識を吸収していく。
そして、彼は一つの基本的なセオリーにたどり着いた。
『パッシブスキルは、まず足りないものを補充する形で振るのが良い』
防御力が足りないなら、ライフや耐性のノードを。
火力が足りないなら、ダメージ増加のノードを。
命中率が足りないなら、精度のノードを。
それは、あまりにも合理的で、そして正しい考え方だった。
だが、彼は首を傾げた。
(…今の俺に、足りないもの?)
正直、思いつかなかった。
【不動の王冠】と【決意のオーラ】がもたらす、鉄壁の物理防御。
【元素の盾】と各種装備がもたらす、上限に近い属性耐性。
【憎悪の残響】と【血の怒り】が生み出す、圧倒的な火力と攻撃速度。
【精度のオーラ】による、必中の攻撃。
そして、【生命の泉】と【背水の防壁】が保証する、驚異的な生存能力。
彼のビルドは、すでに攻守共に高いレベルでバランスが取れていた。
明確な弱点と呼べるものは、見当たらない。
(…じゃあ、どうする?)
彼は、さらに深く情報の海を潜っていく。
そして、彼はもう一つのセオリーを見つけ出した。
『足りないものがないと感じる中級者以上は、「速度」と「利便性」を上げる方向へ進むのが良い』
速度。
それは、移動速度であり、攻撃速度であり、そして何よりもダンジョンを周回する「効率」のこと。
利便性。
それは、スキルの使い勝手を向上させ、より快適に戦闘を行うための潤滑油。
なるほどな、と彼は思った。
今の俺に必要なのは、それかもしれない。
彼はその観点から、再びパッシブスキルツリーの広大な星空を眺め始めた。
そして、彼は一つの魅力的な星団に目をつけた。
それは、戦士と盗賊のクラスエリアの中間に位置する、狂乱チャージに関連するパッシブスキル群だった。
彼は、SeekerNetの猛者たちの議論を参考にしながら、その星団の中から、最も効率的で、そして最も彼の心を惹きつけるルートを模索し始めた。
まず大前提として、この星団の恩恵を最大限に受けるためには、一つの大ノード(キーストーン)を取得する必要があった。
【チャージ上限解放(狂乱)】(1ポイント)
効果: 狂乱チャージの最大スタック数が3から4に増加する。
たった1ポイントで、チャージの上限を一つ増やすことができる。
これは、狂乱チャージを主軸に戦う彼にとって、必須とも言えるパッシブだった。
これを取らない、という選択肢はない。
次に、彼はその大ノードへと至る経路上にある、小ノードを吟味していく。
その道筋には、いくつかの魅力的なスキルが点在していた。
【狂乱の守り】(1ポイント)
効果: 狂乱チャージ1個ごとに、回避力が5%増加する。
(…回避力か。悪くない。だが、俺は回避ビルドじゃねえ。あくまで、保険だな。これは、経路上にあるから取るしかないって感じか)
そしてその先に、彼の心を躍らせる二つの小ノードが輝いていた。
【疾風の舞踏】(1ポイント)
効果: 狂乱チャージ1個ごとに、移動速度が2%増加する。
【怒りの連撃】(1ポイント)
効果: 狂乱チャージ1個ごとに、攻撃速度が2%増加する。
移動速度と、攻撃速度。
まさに「速度」を追求する彼にとって、これ以上ないほど魅力的な効果だった。
チャージ上限を4に解放すれば、その効果は最大で移動速度+8%、攻撃速度+8%。
ただでさえ神速の領域に達している彼の動きが、さらに加速する。
想像しただけで、口元が緩んだ。
そして、その星団の中心。
ひときわ強く、そして禍々しい輝きを放つ一つの中ノード。
それこそが、彼のビルドを完全なものへと昇華させる、最後のピースだった。
【終わらない渇望】(1ポイント)
効果:
・最低狂乱チャージが、常に1になる。
・敵を倒した時に、8%の確率で狂乱チャージを一つ入手する。
・狂乱チャージ1個ごとに、攻撃ダメージが8%増加する。
その三つの効果を見た瞬間。
隼人の脳内に、電流が走った。
なんだ、この狂った性能は。
最低チャージが1になるということは、戦闘開始直後から、常に狂乱チャージの恩恵を受けられるということ。
敵を倒した時の追加チャージ獲得は、【血の怒り】の効果と合わせて、チャージの維持をさらに容易にする。
そして、極め付けは最後の一文。
攻撃ダメージ、8%増加。
チャージ上限を4にすれば、最大で32%ものダメージボーナス。
それは、彼の火力を文字通り別次元へと引き上げる、悪魔的な効果だった。
「…これだ」
彼は、確信した。
これこそが、俺が今進むべき道だ。
彼は、迷わなかった。
9ポイントのうち、5ポイントをこの狂乱の星団へと注ぎ込むことを、即座に決断した。
【チャージ上限解放(狂乱)】(1pt)
【狂乱の守り】(1pt)
【疾風の舞踏】(1pt)
【怒りの連撃】(1pt)
【終わらない渇望】(1pt)
合計、5ポイント。
彼は自らのパッシブスキルツリーを開き、その星空に新たな光の道筋を描き出した。
彼の魂に、新たな力が刻み込まれていく。
その瞬間、彼の全身をこれまでにないほどの全能感が包み込んだ。
血が騒ぎ、肉体が躍動する。
早く、この力を試したい。
早く、この狂乱の速度と火力で、全てを蹂躙したい。
その抑えきれない、衝動。
彼は、残りの4ポイントをどうするか考えることすら忘れ、椅子から立ち上がった。
彼の瞳には、もはや情報の海も、自室の風景も映ってはいなかった。
ただ、次なる戦場だけを見据えていた。
物語は、主人公が自らのビルドのさらなる可能性を見出し、狂乱への渇望と共に、新たなステージへとその魂を飛翔させた、その覚醒の瞬間を描き出して幕を閉じた。




