第79話
鉄の悪魔との死闘から、数日が過ぎた。
神崎隼人は、あえてダンジョンには潜らなかった。
あの魂を削り合うような、極限の戦い。その代償として、彼の精神は深い疲労に沈んでいた。無理に戦場へ赴いても、最高のパフォーマンスは発揮できない。ギャンブルのテーブルに着く前には、常に心身を最高の状態に整えておく。それが、彼の流儀だった。
彼はその数日間、ただ眠り、食事を摂り、そして時折、妹の美咲と短いメッセージのやり取りをするだけの、穏やかな時間を過ごしていた。
焦りはない。
腐敗の女王、アトラ。
その途方もない目標は、彼の魂に深く刻み込まれている。だが、だからこそ焦ってはいけない。次なる大勝負の前に、今は英気を養うべき時なのだと、彼は理解していた。
そして、数日の休息を経て、彼の心身が完全に回復したある日の午後。
彼は、重い腰を上げた。
インベントリには、あの鉄の悪魔がドロップした、おびただしい数の魔石といくつかのレア装備が眠っている。
それらを、確かな「価値」へと変える時が来たのだ。
彼はいつものようにアパートを後にし、新宿の喧騒の中を歩いていく。
向かう先は、ただ一つ。
もはや、彼の第二の我が家とも言えるあの場所。
『関東探索者統括ギルド公認 新宿第一換金所』。
ガラス張りの自動ドアをくぐると、そこにはいつもと変わらない、静かで清潔な空間が広がっていた。
そして、彼の視線は自然と一つのカウンターへと引き寄せられる。
そこに、彼女はいた。
艶やかな栗色の髪をサイドテールにまとめた、知的な美貌の受付嬢。
水瀬雫。
だが、その日の彼女の様子は、いつもとは少し違っていた。
彼女は、カウンターの内側で一人の女性と、親しげに談笑していたのだ。
その女性の姿を見て、隼人は思わず足を止めた。
あまりにも、この無機質な換金所の空間には不釣り合いなほど、幻想的なオーラを放つ女性だったからだ。
ウェーブのかかった、長い金髪。
それを、緩く三つ編みにしている。
服装は、まるで物語の中から抜け出してきたかのような、青と白を基調とした気品のあるローブアーマー。
その佇まいは、騎士団の従軍神官か、あるいは神殿に仕える聖女のようだった。
そして、何よりも隼人の目を引いたのは、その女性が浮かべる表情。
常に穏やかで、慈愛に満ちた微笑み。
それは、見る者の心を安らげる、不思議な力に満ちていた。
二人の女性は、何がそんなに楽しいのか、時折声を立てて笑い合っている。
その光景は、まるで一枚の絵画のように美しく、そしてどこか隼人を寄せ付けない、神聖な空気を作り出していた。
(…なんだ、あの人…)
隼人は、その場違いな闖入者になることを躊躇し、少しだけ離れた場所で彼女たちの会話が終わるのを待つことにした。
だが、その彼の存在にいち早く気づいたのは、やはり雫だった。
彼女は隼人の姿を見つけると、その大きな瞳をぱっと輝かせた。
そして、隣の金髪の女性に何事か耳打ちすると、悪戯っぽく笑いながら隼人へと手招きをした。
「JOKERさん!ちょうど良かった!さあ、こちらへ!」
その明るい声に、隼人は観念したようにため息をつくと、ゆっくりとカウンターへと歩み寄っていった。
「噂をすれば、影ですね」
雫は楽しそうにそう言うと、隼人と金髪の女性を交互に見比べた。
「今、ちょうどあなたのお話をしていたところだったんですよ」
「俺の?」
「はい。先日、腐敗エリアのボスを見事に討伐されたでしょう?あの戦いぶり、本当に素晴らしかったですって、詩織さんとお話していたんです」
雫はそう言うと、隣の女性へと視線を移した。
「ご紹介しますね。こちら、鳴海詩織さん。私と同期でギルドに入った、昔からの友人なんです。そして、彼女もまたトップクラスの探索者なんですよ」
その紹介を受けて、鳴海詩織と名乗った金髪の女性が、隼人へと向き直った。
そして彼女は、深々と、そして優雅にお辞儀をした。
その所作の一つ一つが洗練されていて、育ちの良さを感じさせる。
「こんにちは。ご紹介にあずかりました、鳴海詩織と申します」
その声は、まるで澄んだ鈴の音のように心地よく、隼人の耳に響いた。
「専門は、オーラ特化のサポーターです。以後、お見知りおきを」
彼女はそう言うと、再びあの慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
そのあまりにも完璧な、自己紹介。
隼人は、そのペースに少しだけ気圧されながらも、ぶっきらぼうに名乗った。
「…JOKERだ。専門は特にないが…一応、ソロの戦士としてやってる」
その素っ気ない、返答。
だが、詩織は気を悪くした様子は、全く見せなかった。
むしろ、彼女はその微笑みをさらに深くした。
「はい、存じております」
その言葉に、隼人は少しだけ驚いた。
「コメントはしておりませんが、あなたの配信は、いつも拝見させていただいておりますので」
彼女はそう言うと、隼人の瞳をまっすぐに見つめた。
その瞳は、穏やかでありながら、全てを見透かすような深い洞察力に満ちていた。
「先日の腐敗のボス…鉄の悪魔との戦い、見事でした。心から、お祝い申し上げます」
「…どうも」
隼人は、その手放しの賞賛にどう返していいか分からず、ただ短く礼を言った。
だが、彼は同時に感じていた。
目の前のこの女性が放つ、尋常ならざるオーラを。
それは、ただのファンや一般の探索者が持つものではない。
幾多の死線を乗り越え、頂へと至った者だけが、その身にまとうことを許される、絶対的な「格」の違い。
彼のギャンブラーとしての直感が、告げていた。
この女は、強い、と。
それも、尋常じゃなく。
「…だけど」
隼人は、試すように言った。
「あんたからすりゃ、あんなボス、ただの雑魚じゃねえのか?」
その挑発的とも取れる、問いかけ。
それに、雫が少しだけハラハラしたような表情を浮かべた。
だが、詩織は動じなかった。
彼女は、その問いかけを待っていましたとばかりに、あっさりと、そして残酷なほどの事実を告げた。
「――はい。そうですね」
彼女は、にっこりと微笑んだ。
その笑顔は慈愛に満ちているのに、その言葉は絶対的な強者のそれだった。
「余裕で、ワンパンで倒せますね」
その言葉。
ワンパン。
一撃。
隼人は、自らがあれほどの死闘を繰り広げたあの鉄の悪魔を、この目の前の女性はたった一撃で葬り去ると言う。
そのあまりにも圧倒的な、実力差。
それを突きつけられ、隼人は思わず言葉に詰まった。
彼のプライドが、わずかに傷つくのを感じた。
その彼の反応を見て、詩織は楽しそうにくすくすと笑った。
その笑い声は、彼を馬鹿にするようなものではない。
まるで、意地っ張りな弟をからかう姉のような、親しみに満ちたものだった。
「あら、ごめんなさい。少し、意地悪でしたかしら」
彼女はそう言うと、少しだけ悪戯っぽく片目をつぶった。
「私、専門はオーラ特化のサポーターですので、基本的には自分では攻撃しないんです。でも、オーラって自分自身にも効果があるでしょう?だから、それなりには戦えるんですよ」
彼女はそこで一度言葉を切ると、少しだけビジネスライクな表情になった。
「でも、もっぱらサポーターとして働く方が時給が良いものですから。最近は、そちらがメインですね」
「時給…?」
「はい。一流のパーティから依頼を受けて、時間単位で私のオーラを提供するんです。最低でも1時間100万円からですね。攻略するダンジョンの難易度によっては、金額は青天井ですけれど」
1時間100万円。
そのあまりにも現実離れした、金額。
隼人は、もはや驚きを通り越して呆れていた。
この目の前の聖女のような女性は、歩く人間国宝か何かか。
その彼の心情を見透かしたかのように、詩織は一つの提案を持ちかけた。
「もしよろしければ、JOKERさん。一度、私のオーラ、試してみませんか?」
「…は?」
「初回はサービスで、無料にさせていただきますよ。私の力が、あなたの戦いをどれほど変えることができるのか。きっと、面白い化学反応が見られると思いますわ」
そのあまりにも魅力的で、そしてどこか挑発的な誘い。
隼人のギャンブラーとしての魂が、それに反応しないはずがなかった。
この女の力の正体を、知りたい。
そして、その力を利用して、自分がどこまで高みに登れるのか試してみたい。
彼の心に、新たな欲望の炎が灯った。
「…面白い」
彼は、不敵に笑った。
「じゃあ、いつかお願いするかもな」
その言葉を待っていましたとばかりに、詩織は嬉しそうに微笑んだ。
「ええ、いつでもお待ちしておりますわ。では、連絡先を交換しませんこと?」
彼女はそう言うと、自らのスマートフォンを取り出し、その画面を隼人へと向けた。
隼人は少しだけ躊躇したが、その申し出を断る理由はなかった。
彼は、自らのスマートフォンで、彼女の電話番号とLINEのIDを読み取った。
その光景。
それを、カウンターの内側からじっと見つめていた一人の人物がいた。
水瀬雫だった。
彼女は、それまで楽しそうに二人の会話を見守っていたはずだった。
だが、その表情は、いつの間にか笑顔が消え、どこか不満げな色を浮かべていた。
そして、隼人が詩織との連絡先の交換を終えた、その瞬間。
彼女は、ついに口を開いた。
その声は、いつもの明るい彼女の声とは少しだけ違う、拗ねたような響きを持っていた。
「――あー!」
彼女は、わざとらしく大きな声を上げた。
「詩織とは交換するんですね!私のLINEは、まだ知らないのに!」
そのあまりにもストレートな、物言い。
それに、隼人はぎくりとした。
そうだ、言われてみれば、これまで雫とは何度もこうして会話を重ねてきたが、連絡先を交換したことは一度もなかった。
それは、彼が意図的に避けていたというわけではない。
ただ、その必要性を感じていなかっただけだ。
だが、雫にとっては、そうではなかったらしい。
「JOKERさん!私とも交換しましょう!今すぐ!」
彼女はそう言うと、カウンターから身を乗り出し、半ば強引に隼人のスマートフォンをひったくった。
そして、慣れた手つきで自らの連絡先を登録していく。
そのあまりの剣幕に、隼人はなすすべもなかった。
詩織は、その光景を見て、楽しそうにくすくすと笑っている。
「…はい、できました!」
雫は、満足げに隼人にスマートフォンを返した。
その画面には、『水瀬雫』という名前と、可愛らしい猫のアイコンが表示されている。
「これで、いつでも連絡できますね!」
彼女は、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
その笑顔は、いつものプロフェッショナルのそれではなく、一人の女の子としての純粋な喜びと、そしてわずかな独占欲に満ちていた。
隼人は、そのあまりの状況の変化に、ただ苦笑いするしかなかった。
(…なんだ、これ…)
彼は、手元のスマートフォンに表示された二人の女性の連絡先を見比べる。
一人は、慈愛に満ちた聖女。
もう一人は、親しみやすい軍師。
そのどちらもが、彼の人生に深く関わってくるであろうことを、彼は予感していた。
そして、その予感が、彼の胸を少しだけざわつかせた。
物語は、主人公が新たな、そして最強のサポーターと出会い、そして彼の日常に生まれ始めた、小さな、しかし確かな変化の兆しを描き出して幕を閉じた。




