第8話
選択は、終わった。
神崎隼人の眼前に浮かんでいた荘厳なクラス選択のウィンドウは、彼が【戦士】のパネルに触れたのを最後に、光の粒子となって霧散した。だが、ウィンドウが消え去った後も、彼の内側で起こった“嵐”は、まだその余韻を残していた。
力が、みなぎっていた。
それは、レベルアップの時に感じた、一時的な高揚感や全能感とは質の違う、もっと根本的で、揺るぎない感覚だった。まるで、これまでずっと不安定な小舟の上で戦っていたのが、突如として、大地にしっかりと根を張った巨大な城塞の上に立ったかのような、圧倒的な安定感。体の芯に、一本の鋼鉄の柱が通されたかのように、重心が低く、どっしりと定まっている。
彼は、試しにその場で軽く足踏みをしてみた。地面を蹴る足の裏の感触が、以前とは全く違う。一歩一歩が、大地を確かに掴んでいる。洞窟の湿った空気も、肌を刺す魔素の気配も、もはや彼を少しも揺るがすことはできない。
隼人は、自らの両手を見下ろした。
左手には、相変わらず虹色の魔石が妖しく輝く【万象の守り】。そして右手には、刃こぼれした、安物のナイフ。そのアンバランスな組み合わせは変わらない。だが、ナイフを握る彼の右手には、もはや以前のような、己の非力さに対する不安や焦りは微塵もなかった。
ナイフの柄が、驚くほどしっくりと掌に馴染む。まるで、この瞬間のためにあつらえられたかのように、完璧な重量バランスでそこにある。違う。ナイフが変わったのではない。それを受け止める、彼自身の肉体が、根本から「作り変えられた」のだ。
【戦士】。
そのクラスを得たことで、彼の体は、ただの脆弱な人間のそれから、「戦うための器」へと生まれ変わった。彼は、その確かな実感を、驚きと共に、そして、湧き上がる歓喜と共に受け止めていた。
彼の視界の隅では、コメント欄が祝福と期待の嵐で埋め尽くされていた。視聴者数は、ついに二千人を超え、今もなお増え続けている。
視聴者A: ウォリアーJOKER爆誕ッ!!
視聴者B: やっぱ戦士だよな!賢明な判断だ!
視聴者C: で、ステータスどうなった!?筋力と体力にボーナスって出たけど、具体的にどれくらい上がったんだ?
視聴者D: 新スキル【パワーアタック】!はやく見せてくれ!
視聴者E: 攻撃力1.5倍ってマジかよ…あのナイフで使ったらどうなるんだ…?
視聴者F: Lv2になったってことは、ステータスポイントも貰えたはずだぞ!どこに振るか気になる!
次々と投げかけられる質問と期待の奔流。隼人は、その熱狂を冷静に受け止めながら、一つのコメントに目を留めた。
ステータスポイント。そうだ、レベルアップしたのだから、当然、手動で割り振れるボーナスポイントも得ているはずだ。
彼は、意識を集中させ、自らのステータス画面を開いた。配信上にも、彼が見ているものと同じウィンドウが共有される。
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名前: 神崎 隼人(JOKER)
レベル: 2
クラス: 戦士 Lv1
HP: 120/120
MP: 30/30
【ステータス】
筋力: 15 (5 + クラスボーナス10)
体力: 20 (10 + クラスボーナス10)
敏捷: 12
知性: 8
精神: 7
幸運: ??
※残りステータスポイント: 5
【スキル】
ユニークスキル: 【複数人の人生】【運命の天秤】
クラススキル: 【パワーアタック Lv1】
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「ほう…」
隼人は、思わず感嘆の声を漏らした。【戦士】になったことで、筋力と体力が大幅に底上げされている。レベル1の時点での彼のステータスは、おそらく全てが一桁台だっただろう。それが、クラスを得ただけで、まるで別人のような数値に跳ね上がっていた。
視聴者G: うお、体力20!硬い!
視聴者H: 筋力も15あるじゃん!そりゃナイフの握り心地も変わるわな!
視聴者I: 問題は残り5ポイントをどこに振るかだな…
コメント欄では、再びステータス振りの議論が始まりかけていた。だが、隼人は、その議論が白熱する前に、ステータス画面を閉じた。
そして、カメラの向こうの二千人の観客に向かって、挑戦的な笑みを浮かべる。
「ステータスポイント?ああ、それも面白いカードだ。だが、今じゃない。今の俺は、数字の理屈よりも、この新しい体で感じられる『リアル』に興味がある」
彼は、洞窟の奥で動く、新たな獲物の影を捉えていた。それは、これまでの個体よりも一回り大きく、いびつな兜のようなものを被った、明らかに格上のゴブリンだった。
「さて、お待ちかね。この新しい力、どれほどのものか…試させてもらおうか」
隼人は、その体格の良いゴブリンを、記念すべき最初の「実験台」としてロックオンした。彼の瞳には、もはや一片の恐怖もない。あるのは、ただ、純粋な好奇心と、これから始まる一方的な蹂躙への、嗜虐的な期待だけだった。
「グルォ…?」
兜のゴブリンは、縄張りに侵入してきた闖入者に気づき、警戒の唸り声を上げた。その手には、獣の骨を削って作ったような、鋭い槍が握られている。これまでの棍棒とは、明らかに殺傷能力が違う。
数分前の隼人であれば、間違いなく最大限の警戒をし、慎重に立ち回るべき相手だった。
だが、今の彼は違った。
「いい的だ」
隼人は、短く呟くと、正面から、堂々とゴブリンとの距離を詰めていった。その姿には、以前のような奇襲や策略の気配は微塵もない。ただ、絶対的な強者が、格下の存在を蹂躙するための、単純で、純粋な前進。
視聴者J: おいおい、真っ向から行く気か!?
視聴者K: 相手、槍持ちだぞ!リーチが違いすぎる!
視聴者たちの心配をよそに、隼人の思考は、かつてないほどクリアだった。
彼の脳裏に、先ほど習得したばかりの新しいスキルの情報が、明滅する。
【パワーアタック Lv1】。
彼は、そのスキルを起動した。
「――【パワーアタック】」
声に出す必要はない。ただ、脳内でトリガーを引くだけ。その瞬間、彼の右腕に、体内の魔力が奔流となって集中するのを感じた。筋肉が、内側から爆ぜるように膨張し、熱を帯びる。左腕の【万象の守り】がその魔力に呼応するように、一際強く虹色の光を放った。
視界の隅に、赤い闘気のアイコンが点灯する。
『スキル発動中:次の近接攻撃の威力+50%』
「グアアアアッ!」
ゴブリンが、槍を構え、突きを繰り出してきた。鋭く、速い、これまでとは比べ物にならない一撃。
だが、隼人はそれを避けない。
彼は、その槍の穂先を、右手に握った刃こぼれのナイフで、真正面から打ち払った。
ガッギイイイイイイインッ!!
洞窟内に、鼓膜が破れんばかりの轟音が響き渡った。
信じられない光景が、そこに広がっていた。
たかが5000円の安物ナイフが、ゴブリンの渾身の突きを、いともたやすく弾き飛ばしていたのだ。それだけではない。槍は、その衝撃に耐えきれず、半ばからへし折れ、ゴブリンの手の中で、ただの木の棒と化していた。
「…ギ?」
ゴブリンは、何が起こったのか理解できない、という顔で、自分の手の中の折れた槍と、平然と立つ隼人を交互に見つめている。その醜い顔に、初めて「恐怖」の色が浮かんだ。
視聴者L: はあああああああ!?
視聴者M: 嘘だろ…ナイフで槍を…?
視聴者N: 弾いたどころか、破壊したぞ今…!
コメント欄が、理解不能な現象に震撼する。
だが、ショーはまだ終わらない。
隼人は、その絶好の隙を、逃すはずがなかった。
「――終わりだ」
彼は、力を込めたナイフを、ゴブリンのがら空きになった胴体へと、全力で叩き込んだ。
それは、もはや「斬る」とか「突く」といった、生易しいものではない。
「叩き潰す」という表現こそが、相応しい一撃だった。
ズグシャアアッ!!
肉が潰れ、骨が砕ける、鈍く、湿った音。
刃こぼれのナイフは、隼人の規格外の【筋力】と【パワーアタック】の補正を受け、もはや刃物としての役割を放棄していた。それは、ただの純粋な「質量の塊」となり、ゴブリンの胸骨を、その奥の心臓ごと、容赦なく粉砕した。
ゴブリンは、悲鳴を上げる間も、苦しむ暇も与えられなかった。
その巨体は、まるで大型トラックにでも撥ねられたかのように、くの字に折れ曲がりながら後方へと吹き飛ばされ、壁に激突するよりも早く、光の粒子となって爆散した。
しん、と静まり返る洞窟。
後には、呆然と立ち尽くす隼人と、激しい速度で流れていくコメント欄だけが残された。
隼人は、自らの右拳を、ゆっくりと開いたり、閉じたりした。まだ、その感触が残っている。硬い骨を、紙細工のように砕いた、圧倒的な感触。
そして、彼は手の中の安物ナイフを見下ろした。
それは、相変わらず刃はこぼれ、錆が浮き、見るからに貧弱なままだった。だが、彼がこれを握った時の手応えは、先ほどまでとは全く違っていた。
まるで、伝説の職人が鍛え上げた、国宝級の「名刀」でも手にしているかのような、万能感と信頼感。
「…なんだよ、これ…」
あまりの威力に、彼自身が一番驚いていた。
そして、彼は悟った。
武器が、強くなったのではない。
この【万象の守り】が、強くなったのでもない。
それを振るう、俺自身が。「クラス」の力によって、「格」の違う存在へと、生まれ変わったのだ。
これまでは、強力なアイテムという「カード」の力に頼るしかなかった。だが、今は違う。プレイヤーである、俺自身が、ゲームのルールを書き換えるほどの「力」を手に入れたのだ。
「ハ…ハハ…」
乾いた笑いが、彼の口から漏れた。それは、恐怖でも、狂気でもない。自らの内に眠っていた、途方もない可能性の大きさに気づいてしまった、純粋な喜びの笑いだった。
彼は、その圧倒的な力を確かめるように、洞窟の奥へと、さらに歩を進めた。
もはや、彼の進軍を阻むものは、何もなかった。
次に現れたゴブリンの二体同時も、もはや敵ではない。一体に【パワーアタック】を叩き込み、その衝撃で吹き飛んだ仲間と衝突させ、まとめて光の粒子に変える。
狭い通路で待ち伏せしていたゴブリンも、無駄だった。隼人は、もはや地形の利など必要としなかった。彼は、その圧倒的な腕力で、ゴブリンを壁ごと殴りつけ、沈黙させた。
戦闘は、もはやスリリングな「戦い」ではなく、単純で、確実な「作業」へと変わっていた。
彼のレベルは、まだ2のまま。だが、その戦闘能力は、もはや低レベル探索者のそれではない。
視聴者O: 無双始まったwww
視聴者P: これが…戦士クラスの力…!
視聴者Q: JOKERさん、完全にこのダンジョンのヌシじゃん…ゴブリンが可哀想になってきた
コメント欄も、もはや彼の勝利を疑う者は一人もいなかった。ただ、彼が次にどんな圧倒的な力を見せてくれるのか、その一点にのみ、期待が集まっていた。
隼人は、一体一体、ゴブリンを処理するたびに、自らの新しい体に馴染んでいくのを感じていた。
戦士としての立ち回り、力の込め方、スキルの使い方。その全てが、経験を積むごとに、彼の血肉となっていく。
彼は、この蹂躙の中で、確かな手応えと、自らの成長を、心の底から楽しんでいた。
これは、最高のゲームだ、と。
※2025/07/11 読者から指摘がありゴブリンがゴブlinと表記されている誤字があったので修正しました。