第78話
絶対的な、静寂。
先ほどまで死のメロディーを奏でていた鉄の悪魔は、今やただの巨大な鉄の残骸となり果て、その機能を完全に停止させていた。
その巨体の至る所から黒い煙が立ち上り、冒涜的なアリーナに漂う腐敗した空気と混じり合って、異様な匂いを放っている。
神崎隼人は、その鉄の悪魔の骸の上で、静かに佇んでいた。
彼の全身は、汗と、そしてわずかな返り血で濡れていた。
呼吸は荒く、その心臓はまだ激しく脈打っている。
魂を削るような、極限の集中。
その代償として、彼の精神は燃え尽きたかのように空っぽだった。
だが、その空っぽの心に、ゆっくりと、しかし確かに温かい光が満ちていくのを、彼は感じていた。
勝利の、高揚感。
そして、死線を乗り越えた者だけが味わうことのできる、絶対的な安堵感。
「…終わったか」
彼は、誰に言うでもなく呟いた。
その声は、かすかに震えていた。
彼がそう呟いた、その瞬間。
それまで固唾を飲んで戦いを見守っていた数万人の観客たちが、一斉に爆発した。
コメント欄が、これまでのどの熱狂とも比較にならない、本当の祝福と賞賛の嵐で埋め尽くされていく。
『うおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!』
『勝った…!勝ったぞ!あの化け物に、勝った!』
『信じられねえ…!JOKERさん、あんた神かよ!』
『最後の突撃、マジで鳥肌立った!最高のフィナーレだったぜ!』
『伝説の始まりを見た…!ありがとう、JOKER!』
拍手喝采のスタンプが画面を滝のように流れ、彼の勝利を祝福するスーパーギフトの通知が鳴り止まない。
その熱狂の渦の中で、隼人はゆっくりと鉄の悪魔の骸から、地面へと降り立った。
そして、彼は勝利の報酬を確認する。
鉄の悪魔が崩れ落ちた、その中心。
そこには、これまでに見たことのない、ひときわ強く、そして禍々しい二つの光が生まれていた。
一つは、どす黒い紫色のオーラを放つ不気味な宝珠。
そしてもう一つは、石板の欠片のような、鈍い輝きを放つ謎のアイテム。
彼は、まずその紫色の宝珠を拾い上げた。
ARシステムが、その詳細な情報を表示する。
==================================== 名前: 腐敗のオーブ 種別: カレンシー(通貨) / クラフトアイテム 効果: このオーブをアイテムに使用すると、不可逆的な腐敗を起こす。 または、このオーブをマップデバイスに使用することで、任意のダンジョンエリアを「腐敗の領域」へと変化させることができる。 腐敗したエリアは、プレイヤーに強力なデバフを与えるが、その見返りとして、アイテムのドロップ率と経験値が大幅に上昇する。 ハイリスク・ハイリターンを求める、熟練の探索者たちがこぞって求める禁断の果実。
「…腐敗のオーブか」
隼人は、静かに頷いた。
これは、事前にSeekerNetで調べていたから知っている。
自らの意思で、あの死のテーブルを開くための鍵。
まさに、彼のようなギャンブラーのために用意されたかのようなアイテムだ。
彼は、その禍々しい宝珠をインベントリへと仕舞った。
そして、彼はもう一つのアイテムへと手を伸ばす。
それは、石板の一部を砕いたかのような、無骨な欠片だった。
その表面には、古代の文字とも紋様ともつかない、不可解な模様が刻まれている。
ARシステムが、その情報を表示する。
====================================
名前: 腐敗のフラグメント【1】
種別: マップフラグメント
効果:
腐敗の女王が支配する、領域への道筋を示す四つの欠片の一つ。
これをマップデバイスに使用することで、何かが起こるかもしれない…。
【フレーバーテキスト】 第一の封印は、鉄の悪魔の骸の下に。
「…腐敗のフラグメント【1】?」
隼人は、思わず首を傾げた。
フラグメント?なんだ、それは?
聞いたことがない。
腐敗の女王?
さらなるボスがいるとでも、言うのか?
彼の脳内に、無数の疑問符が浮かび上がる。
その彼の困惑を察したかのように、コメント欄の有識者たちが即座に反応した。
元ギルドマン@戦士一筋:
JOKER、それは大当たりだぞ!
フラグメントとは、その名の通り「欠片」だ。
特定の条件でしか戦うことのできない特殊なボス…いわゆる「エンドゲームボス」へと、挑むための鍵となるアイテムだ。
ハクスラ廃人:
そういうことだ!その腐敗のフラグメントはな、全部で4種類存在する。
それぞれ、腐敗エリアの四体の異なるガーディアンボスからドロップするんだ。
お前が今倒した鉄の悪魔は、そのガーディアンの一体に過ぎねえ。
ベテランシーカ―:
その4種類のフラグメントを全て集め、マップデバイスで同時に起動させることで、初めてこの世界のエンドゲームコンテンツの一つ…【腐敗の女王アトラ】への道が開かれるのです。
彼女は、C級ダンジョンで戦える相手としては、破格の強さを誇ります。
生半可な覚悟で挑めば、一瞬で塵にされるでしょう。
その衝撃的な事実。
隼人は、ただ息を呑んだ。
鉄の悪魔ですら、あれほどの死闘を強いられた。
そのさらに上に君臨する、女王。
一体、どれほどの化け物なのか。
「…なるほどな。さらなる強敵ってことか」
彼は、その途方もない事実に絶望するどころか、むしろその心を躍らせていた。
新たな、目標。
新たな、ギャンブルのテーブル。
この世界は、どこまで俺を楽しませてくれるんだ。
彼は、その石の欠片を大切にインベントリへと仕舞った。
そして、腐敗のオーブも、今は使う時ではない。
これは、来るべき大勝負のために取っておく、最高の切り札だ。
彼は満足げに頷くと、ARカメラの向こうの観客たちに告げた。
「…しかし、疲れたな。今日の配信は、これで終わりだ。帰るぞ」
その言葉に、コメント欄が再び温かい祝福の言葉で満たされた。
『お疲れ様ー!』
『最高の戦いだった!ゆっくり休んでくれ!』
『死闘お疲れ様でした!感動をありがとう!』
『フラグメント集めるの、楽しみにしてるぞ!』
その声援に、隼人は小さく手を振ると、ダンジョンの出口へとその歩みを進めた。
彼の心は、確かな達成感と、そして次なる戦いへの静かな闘志で満たされていた。
腐敗の女王、アトラ。
その名が、彼の魂に深く刻み込まれた瞬間だった。
物語は、主人公が一つの死闘を終え、そしてまた新たな、そしてより巨大な目標への扉をその手でこじ開けた、その最高の瞬間を描き出して幕を閉じた。




