第77話
神崎隼人の戦場は、一つの巨大な時計盤へと変貌していた。
そして、彼はその盤上を舞うただ一人の踊り子。
鉄の悪魔が、その六本の殺戮のアームを振り回すたびに、死の秒針が時を刻む。
レーザーが空間を焼き、ハンマーが大地を砕き、ドリルが空気を抉る。
その一つ一つが、絶対的な死を運んでくる必殺の一撃。
だが、隼人はその全てを見切り、そして踊るように回避し続けていた。
彼の思考は、もはや常人の領域にはない。
ギャンブルで培われた極限の集中力と観察眼が、彼の意識を加速させ、世界の全てをスローモーションのように見せていた。
鉄の悪魔の関節の、わずかな軋み。
単眼のレンズが次なるターゲットを捉える、そのコンマ数秒の視線の動き。
攻撃の予備動作として、アームの付け根に集まる魔力の微かな輝き。
その全ての情報を、彼の脳は瞬時に処理し、最適解となる回避ルートをその体に伝達する。
右へステップ。左へスライド。後方へ跳躍。
彼の動きは、もはや人間のそれではない。
死の雨の中を、一滴の雫もその身に受けることなく舞い続ける、一羽の蝶のようだった。
そして、大技の後には必ず訪れる一瞬の静寂。
そのコンマ数秒の硬直時間こそが、彼に許された唯一の反撃のチャンス。
彼は、その刹那の好機を決して逃さない。
回避の動作から攻撃へと流れるように移行し、神速の踏み込みで鉄の悪魔の懐へと潜り込む。
そして、その錆びついた装甲の同じ箇所へと、自らの持つ最大火力を叩き込むのだ。
【必殺技】衝撃波の一撃。
【無限斬撃】の嵐。
ガッギイイイイイイイイイイイインッ!!!
甲高い金属音が、冒涜的なアリーナに響き渡る。
火花が散り、砕けた装甲の破片が宙を舞う。
ボスの巨大なHPバーが、わずかにその輝きを失う。
だが、深追いはしない。
鉄の悪魔がカウンターの衝撃波を放つ、その直前。
彼はすでにその場から離脱し、安全な距離を確保している。
ヒット&アウェイ。
その完璧な繰り返し。
それは、まさに死と隣り合わせの、究極のリズムゲームだった。
『すげえ…』
『なんだこれ…。人間業じゃ、ねえぞ…』
『完全にボスの動きを見切ってる…。まるで、未来でも見てるかのようだ…』
『これが…JOKERさんの本当の実力…!』
コメント欄の数万人の視聴者たちは、もはや声援を送ることすら忘れ、ただ固唾を飲んでその神業のような光景を見守っていた。
誰もが、理解していた。
今、目の前で繰り広げられているのは、ただの戦闘ではない。
一つのミスも許されない、極限の集中力が生み出す芸術なのだと。
二度、三度、四度。
死の舞踏は、繰り返される。
鉄の悪魔のHPは着実に削られていき、残り4割といったところか。
隼人の額には玉のような汗が浮かび、その呼吸は少しずつ荒くなってきていた。
肉体的な疲労よりも、魂を削るような精神的な消耗が、彼の集中力をじわじわと蝕んでいく。
(…まだか…!)
彼は、奥歯を噛みしめた。
この緊張状態を、あとどれだけ維持すればいい?
彼の完璧だったはずの回避動作に、ほんのわずかな遅れが生じ始めた、その時だった。
鉄の悪魔の動きが、変わった。
これまで単発で放たれていたスラム攻撃が、複合的に襲いかかってきたのだ。
右腕のレーザー砲が赤い光を収束させると同時に、左腕の回転ノコギリが甲高い駆動音を立てて高速で回転し始める。
レーザーを避けようと横にステップすれば、回転ノコギリの餌食になる。
回転ノコギリを警戒すれば、レーザーの射線から逃れることができない。
完璧な、二択。
絶望的な、チェックメイト。
「――クソがっ!」
隼人は、悪態を吐いた。
だが、彼の思考は絶望してはいなかった。
このパズルを、どう解くか。
彼の脳が、常識を超えた速度で回転する。
そして、彼は一つの、あまりにもJOKERらしい「解法」を見つけ出した。
彼は、動いた。
だが、その動きは回避ではなかった。
彼は、あろうことか、二つの死の脅威へと真正面から突撃していったのだ。
そのあまりにも無謀な、自殺行為。
それに、コメント欄が悲鳴を上げた。
『JOKERさん!?』
『ダメだ!避けろ!』
だが、彼の狙いは別にあった。
彼は、レーザーが発射されるそのコンマ数秒前。
回転ノコギリが彼の肉体を切り裂く、そのさらに数瞬前。
彼は、その二つの攻撃のわずかな隙間、死角となる一点へと、スライディングするように滑り込んだ。
そして、彼はその低い体勢のまま、自らの左腕に構えた盾…【背水の防壁】を地面に叩きつけた。
ガッ!という、鈍い音。
その盾を支点にして、彼の体はコマのように高速で回転した。
遠心力を利用した、変則的な回避行動。
ゴオオオオオッ!
彼の頭上数センチの場所を、極太のレーザーが通り過ぎていく。
キイイイイイイン!
彼の背中数ミリの場所を、回転ノコギリの刃が空を切る。
その二つの死を、彼は神業のようなアクロバティックな動きで、完璧に回避してみせたのだ。
そして彼は、回転の勢いを殺すことなく、そのまま鉄の悪魔の足元へと転がり込む。
そこは、巨大な機械の死角。
絶対的な、安全地帯。
そして、最高の攻撃ポジションだった。
「――お前の番だぜ!」
彼は、体勢を立て直す間も無く、そこから嵐のような連撃を叩き込んだ。
ガキン、ザシュッ、キィン、ザシュッ!
鉄の悪魔のHPバーが、大きく揺れる。
残り、2割。
ついに、彼はこの怪物を追い詰めた。
だが、追い詰められた獣は、最も危険だ。
鉄の悪魔の単眼のレンズが、これまでにないほど禍々しい赤い光を放った。
そして、その六本のアームが全て胴体へと格納されていく。
代わりに、その巨体の至る所から無数の小さな砲門がせり出し、その全てが一斉にエネルギーをチャージし始めた。
それは、もはや回避不能な全方位への飽和攻撃。
部屋の全てを焼き尽くす、最後の切り札。
自爆攻撃だった。
「…なるほどな。最後の最後で、道連れってわけか」
隼人は、その絶望的な光景を前にして、静かに呟いた。
もはや、逃げ場はない。
この部屋にいる限り、あの攻撃からは逃れられない。
コメント欄もまた、その絶対的な死の宣告に言葉を失っていた。
誰もが、彼の物語の終わりを確信した。
だが、その瞬間。
隼人は、笑った。
心の底から、楽しそうに。
「…面白い。面白いじゃ、ねえか」
彼は、ARカメラの向こうの観客たちに語りかける。
「お前ら、最高のショーのフィナーレを見せてやるよ」
彼は、動いた。
だが、その動きは逃走ではなかった。
彼は、自爆のチャージを続ける鉄の悪魔の、その巨大な胴体へと一直線に駆け出したのだ。
そして、彼はその錆びついた装甲を駆け上がっていく。
垂直の壁を、まるで平地のように。
彼の異常な身体能力が、それを可能にしていた。
彼は、巨大な機械の肩の部分まで駆け上がると、そこに鎮座する巨大な単眼のレンズの前に立った。
そこが、この怪物の唯一の弱点。
そして、彼が見つけ出した唯一の勝機だった。
「――チェックメイトだ」
彼は、その赤いレンズの中心へと、長剣【憎悪の残響】の切っ先を突き立てた。
そして、彼は自らの持つ全ての魔力と魂を、その一撃に注ぎ込んだ。
【必殺技】衝撃波の一撃。
だが、それはもはやただのスキルではなかった。
彼の全てを賭けた、最後のギャンブル。
彼の、魂の咆哮だった。
ズッッ
巨大な、生々しいガラスが砕けるような音。
巨大な単眼のレンズに亀裂が走り、そこから青黒い冷気のオーラが溢れ出す。
鉄の悪魔の全身を、内側から破壊していく。
自爆のチャージが暴走し、そのエネルギーが行き場を失い、自らの体を蝕んでいく。
「ギ…ギ…ギ…シャアア」
鉄の悪魔は、断末魔の咆哮を上げた。
その巨大な体がゆっくりと傾き、やがて轟音と共に地面に崩れ落ちた。
後に残されたのは、おびただしい数の光の粒子と、そしてその中心で静かに佇む一人の王者の姿だけだった。
物語は、主人公がその知略と狂気で絶対的な死の運命を覆し、最強の敵を打ち破った、その最高のカタルシスと共に幕を閉じた。




