第76話
静寂が、その冒涜的な空間を支配していた。
神崎隼人は息を殺し、目の前に鎮座する巨大な鉄の塊…この腐敗した領域の主と対峙していた。
高さ10メートルはあろうかという、威圧的な巨体。
錆びつき、肉塊に侵食された無骨な装甲。
そして、その中央で不気味な赤い光を放つ巨大な単眼のレンズ。
それは、まるで地獄の底から蘇った古代の戦争機械。
あるいは、悪魔と契約を交わした哀れな機械の成れの果て。
そのあまりにも異質で冒涜的な存在感は、これまでのどのボスとも比較にならない、絶対的なプレッシャーを放っていた。
彼の配信のコメント欄もまた、その異常な光景に言葉を失っていた。
それまで彼の戦いを称え、応援していた数万人の声援がぴたりと止み、代わりに画面を埋め尽くしたのは、困惑と、そして純粋な恐怖だった。
『…なんだ、あれ…』
『ボス…だよな…?ゴブリンじゃ、ねえのかよ…』
『機械…?なんで、こんな場所に機械が…?』
『無理だろ、あんなの…。大きさが違いすぎる…』
『JOKERさん、逃げてくれ!あれは、勝てる相手じゃない!』
視聴者の誰もが、彼の敗北を、そして「死」を確信していた。
だが、隼人は動かない。
彼の心は、恐怖に支配されてはいなかった。
むしろ、その逆。
彼の魂は、最高の大勝負を前にしたギャンブラーのように、静かに、しかし激しく燃え上がっていた。
そうだ、これだ。
これこそが、俺が求めていた本当のギャンブルだ。
常識が通用しない、理不尽なルール。
圧倒的に不利な状況。
そして、その全てを自らの才覚と狂気でひっくり返す、最高のカタルシス。
彼の口元に、獰猛な三日月の笑みが浮かんだ。
「…面白い。実に、面白いじゃねえか」
彼は、ARカメラの向こうの絶望する観客たちに聞こえるように呟いた。
「相手が何であろうと、やることは変わらねえ。このテーブルのルールを、俺が、俺のやり方で見極め、そしてぶっ壊してやるだけだ」
その力強い宣言。
それを合図にしたかのように、それまで沈黙を保っていた鉄の悪魔が、動き出した。
ギギギギギ…という耳障りな金属の軋む音と共に、その巨大な単眼のレンズが、ゆっくりと彼の方へと向けられる。
そして、その六本の多関節アームの一本。
レーザー砲が取り付けられたアームが持ち上がり、その砲口が寸分の狂いもなく隼人の心臓を捉えた。
砲口の奥で、赤い光が急速に収束していく。
それは、紛れもない攻撃の予備動作。
その瞬間。
隼人の脳内で、警鐘が鳴り響いた。
それは、思考ではない。
理論でもない。
これまで数々の修羅場を潜り抜け、死線を渡り歩いてきた彼の、ギャンブルで鍛え上げられた純粋な「勘」。
その魂の叫びが、彼に告げていた。
――これに当たれば、死ぬ、と。
彼は、思考するよりも早く、その場から飛び退いた。
右へ、最大飛距離のステップ。
そのコンマ数秒後。
彼が元いた場所の空間を、全てを焼き尽くすかのような極太の赤いレーザーが貫いた。
ゴオオオオオオオオオオオオッ!
凄まじい轟音と共に、レーザーが着弾した背後の壁が蒸発し、溶けた鉄のように赤く輝いている。
もし、彼の反応が一瞬でも遅れていたら。
彼の肉体は、あの壁と同じように、跡形もなく消し飛んでいただろう。
彼の勘は、正しかった。
あれは、防御も回避も許されない、絶対的な「死」そのものだった。
「…はっ。危ねえ、危ねえ」
隼人は、額に滲んだ冷や汗を拭いながら、乾いた笑いを漏らした。
だが、その瞳は笑ってはいなかった。
ただ冷徹に、目の前の怪物を観察し、分析していた。
今の攻撃。
発射までの予備動作は、長い。
弾速は速いが、軌道は直線的。
つまり、見てから避けることは十分に可能だ。
だが、その威力は絶大。
一撃でも食らえば、即死。
なるほどな、と彼は思った。
このボス戦は、そういうゲームか。
その彼の思考を裏付けるかのように、コメント欄の有識者たちが一斉に叫び声を上げていた。
元ギルドマン@戦士一筋:
今の攻撃…!間違いない!【スラム攻撃】だ!
高レベルのダンジョンボスが、稀に使ってくる特殊な攻撃パターンだ!
ハクスラ廃人:
そういうことだ!スラム攻撃ってのはな、簡単に言えば「絶対に避けなきゃ死ぬ攻撃」のことだ!
防御力も、耐性も、HPも一切関係ねえ!当たれば、問答無用で即死!
その代わり、攻撃前のモーションがデカくて分かりやすいっていう特徴がある!
つまり、このボスは「見てから避けられるか?」っていう、純粋なプレイヤースキルを試してきてるんだよ!
ベテランシーカ―:
まさに、開発者の悪意が詰まったギミックですね…。
これからJOKERさんは、常にこのスラム攻撃を警戒しながら戦わなければなりません。
一瞬たりとも、気を抜くことは許されないということです…!
その的確な解説。
隼人は、静かに頷いた。
(…面白い。上等じゃねえか)
彼は恐怖するどころか、むしろその挑戦を歓迎していた。
純粋な読み合いと、反射神経の勝負。
それは、彼が最も得意とする土俵だった。
鉄の悪魔が、次なる攻撃へと移る。
今度は、別のアーム。
巨大な鉄のハンマーが取り付けられたアームが、ゆっくりと、そして大きく振りかぶられる。
その動きもまた、大振りで分かりやすい。
だが、その圧倒的な質量がもたらすであろう破壊力は、想像に難くない。
これも、スラム攻撃の一種だろう。
隼人は、その攻撃範囲を冷静に見極める。
そして、ハンマーが振り下ろされるその直前。
彼は、最小限の動きでその射線から離脱した。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
凄まじい轟音と共に、闘技場の床が砕け散り、巨大なクレーターが生まれる。
その衝撃波だけで、彼の体が少しよろめいた。
だが、それこそが隼人の狙いだった。
大技の後には、必ず大きな隙が生まれる。
鉄の悪魔が、ハンマーを地面から引き抜こうともたついている、その一瞬の硬直。
それこそが、彼に与えられた唯一の攻撃チャンス。
「――ここだ!」
彼は地面を蹴り、神速の踏み込みで鉄の悪魔の懐へと潜り込む。
そして、彼はその錆びついた巨大な脚部へと、渾身の一撃を叩き込んだ。
【必殺技】衝撃波の一撃。
ガッギイイイイイイイイイイイインッ!!!
凄まじい金属音と共に、彼の長剣が鉄の装甲を深々と切り裂いた。
火花が散り、装甲の一部が砕け散る。
そして、彼は間髪入れずに追撃の嵐を叩き込んだ。
【無限斬撃】。
彼の神速の連撃が、同じ箇所に何度も、何度も叩き込まれる。
ガキン、ザシュッ、キィン、ザシュッ!
鉄と骨が砕ける不協和音が、アリーナに響き渡る。
彼の視界の隅に、ボスの巨大なHPバーが表示される。
その赤いゲージが、みるみるうちに削られていく。
いける!
このまま、押し切れる!
彼がそう確信した、その瞬間だった。
鉄の悪魔の単眼のレンズが、再び赤い光を放った。
そして、その巨体から凄まじい衝撃波が放たれる。
「――何!?」
隼人は、その予期せぬカウンターに吹き飛ばされ、数メートル後方へと転がった。
ダメージはない。
だが、彼の攻撃は完全に中断させられてしまった。
そして、彼が体勢を立て直した時、目の前に表示されたボスのHPバーを見て、彼は愕然とした。
あれだけの猛攻を叩き込んだにも関わらず。
削り取れたHPは、わずか2割程度。
そのあまりにも、絶望的な硬さ。
C級のボスとは思えない、異常な耐久力。
「…マジかよ」
彼の口から、乾いた声が漏れた。
(一回のチャンスで削れるのは、2割が限界か…)
彼は、冷静に分析する。
つまり、この死の舞踏を、最低でもあと四回は繰り返さなければならないということ。
スラム攻撃を完璧に回避し、そのわずかな隙に最大火力を叩き込む。
そして、カウンターの衝撃波を受ける前に、離脱する。
ヒット&アウェイ。
その言葉が、彼の脳裏をよぎった。
「…死のダンスを繰り返しながら、ヒット&アウェイしなきゃいけないってことね。了解」
彼は、不敵に笑った。
その瞳には、絶望ではなく、むしろこの難解なゲームへの挑戦者の光が宿っていた。
彼は、長剣を構え直す。
鉄の悪魔が、再び動き出す。
レーザー、ハンマー、ドリル、回転ノコギリ…。
六本のアームが、それぞれ違うタイミングでスラム攻撃を繰り出してくる。
それは、もはや戦闘ではない。
死と隣り合わせの、究極のリズムゲーム。
彼は、その死のメロディーに合わせて踊り始めた。
ステップ、回避、そして一瞬の反撃。
彼の集中力は、極限まで高められていた。
一つでもミスをすれば、即死。
だが、そのスリリングな状況が、彼の魂を最高に高揚させていた。
物語は、主人公が鉄の悪魔との死の舞踏のルールを完全に理解し、その理不尽なゲームに正面から挑み始めた、その最高の瞬間を描き出して幕を閉じた。




