第74話
神崎隼人にとって、C級ダンジョン【忘れられた闘技場】の周回は、もはや朝のジョギングと何ら変わりない日常の一部となっていた。
彼の配信チャンネルの視聴者たちもまた、その光景を熟知していた。
配信が始まると、隼人はまずお気に入りのワイヤレスイヤホンを耳に装着する。そこから流れるのは、彼のその日の気分で選ばれたアップテンポなエレクトロニック・ミュージック。
そして彼は、その無機質なビートに身を任せるように、闘技場の血と砂のアリーナへとその歩みを進めていく。
彼の戦いは、もはや戦いではない。
それは、音楽に合わせて体を動かす一種のダンス。
あるいは、完璧に手順が定められた美しい儀式だった。
後衛の弓兵が現れれば、【スペクトラル・スロー】を投げる。
前衛の盾兵が突撃してくれば、【無限斬撃】で迎え撃つ。
彼のレベル2へと進化した【精度のオーラ】は、彼の全ての攻撃を必中へと導き、もはや『Miss』の文字が彼の視界に表示されることは、万に一つもない。
彼のビルドは、このC級ダンジョンという環境において、完全な最適解へと到達していた。
そのあまりにも安定しきった蹂躙劇。
それは、数万人の視聴者たちに絶対的な安心感と心地よいカタルシスを与え、彼のチャンネルを不動の人気コンテンツへと押し上げていた。
その日も彼は、いつものように音楽を聴きながら思考を停止させ、ただ機械的にその儀式を繰り返していた。
一体、また一体とゴブリン・グラディエーターたちが彼の剣の錆となり、光の粒子となって消えていく。
インベントリには、紫色の魔石が面白いように溜まっていく。
その光景に、もはや何の感慨も湧かない。
ただ、淡々と作業をこなすだけ。
そんな退屈な日常が、永遠に続くかのように思われたその時だった。
彼が闘技場の内部通路の一つの曲がり角を曲がった、その瞬間。
彼の目に、これまで一度も見たことのない異質な光景が飛び込んできた。
それは、空間の裂け目だった。
通路の壁の一部が、まるで黒いインクを垂れ流したかのようにどろりと歪み、その中心には、禍々しい紫色の光を放つ不安定な亀裂が口を開けていたのだ。
その亀裂の向こう側からは、明らかにこの闘技場とは質の違う、濃密で、そして腐敗した魔素の匂いが漂ってくる。
「…なんだ、これ?」
隼人は、思わず足を止めた。
彼の耳に流れ込んでいた軽快なテクノミュージックが、急に場違いなノイズのように感じられる。
彼は無意識のうちに、耳からイヤホンを引き抜いた。
途端に、訪れる静寂。
その静寂の中で、彼は目の前の異質な亀裂をマジマジと観察した。
それは、明らかにこのダンジョンの正規のルートではない。
これまで何十回とこの場所を周回してきたが、こんなものが存在したことは一度もなかった。
ARシステムが、その亀裂の情報を彼の視界の隅に表示する。
【腐敗の領域(Corrupted Zone)】
エリア効果:
内部にいる全てのプレイヤーの全属性耐性 -30%
内部にいる全てのモンスターの攻撃力 +30%
そのあまりにもシンプルで、そして凶悪なデバフ効果。
それを目にした瞬間。
それまで彼の安定した無双劇をBGM代わりに、雑談に興じていたコメント欄の空気が一変した。
『!?』
『なんだあれ!?あんなの、あったか!?』
『腐敗の領域…だと…?聞いたことねえぞ!』
『おいおいなんだあのデバフ!全耐性-30%に、敵の攻撃力+30%ってヤバすぎるだろ!』
コメント欄が、一瞬にして驚愕と緊張に包まれる。
隼人もまた、その予期せぬ「イレギュラー」の出現に、その瞳を鋭く細めていた。
退屈な日常の中に、突如として現れたノイズ。
それは、彼の眠りかけていたギャンブラーとしての魂を激しく揺さぶるには、十分すぎるほどの刺激だった。
その混乱の中で、いち早く冷静さを取り戻したのは、やはりあの百戦錬磨のベテランたちだった。
元ギルドマン@戦士一筋:
落ち着け、お前ら。これは、稀に発生する特殊エリアだ。
ダンジョンが生成される際に、ごく低い確率で、ダンジョン内の一部のエリアがこの「腐敗」状態になることがある。
いわば、ボーナスステージのようなものだ。
ハクスラ廃人:
そういうことだ。確かに、デバフはきつい。だが、その分見返りもでかいぜ。
腐敗エリアのモンスターは、通常の個体よりも多くの経験値と、そして何よりも高いアイテムドロップ率を持っている。
レアやユニークを狙うなら、これ以上のチャンスはねえ。
ベテランシーカ―:
JOKERさんほどの実力者であれば、この程度のデメリットは問題にならないはずです。
全耐性-30%と言っても、あなたのオーラと装備なら、まだ十分に上限を維持できるでしょう。
敵の攻撃力上昇も、あなたの【決意のオーラ】の前では、大きな脅威にはなりません。
これは、行くべきです。間違いなく。
有識者たちの、その力強い後押し。
それに、他の視聴者たちも徐々に冷静さを取り戻し、期待の声を上げ始めた。
『なるほど、ボーナスステージか!』
『じゃあ、行くしかねえな!JOKERさん、見せてくれ!』
『腐敗エリアのユニークドロップ、期待してるぞ!』
コメント欄の空気は、完全に「行け行け」ムードになっていた。
だが、隼人はその声援に流されることはなかった。
彼はただ静かに目の前の亀裂を見つめ、自らの内なる声と対話していた。
リスクと、リターン。
デバフによる危険性と、アイテムドロップへの期待値。
彼の脳内で、天秤が揺れ動く。
そして彼は、ゆっくりと口角を吊り上げた。
その瞳には、もはや退屈の色はない。
ただ、最高のギャンブルを前にした純粋な歓喜の光だけが、爛々と輝いていた。
「…面白い」
彼は、ARカメラの向こうの観客たちに静かに告げた。
「今の俺の力が、どこまで通用するのか。それを試すには、絶好の機会だ」
彼は、決断した。
この未知なる領域へと、足を踏み入れることを。
それは、ただアイテムが欲しいからではない。
この心地よい停滞を打ち破るための最高の起爆剤だと、彼の魂が叫んでいたからだ。
彼は一歩、また一歩と、その禍々しい亀裂へと近づいていく。
そして彼は、その歪んだ空間の向こう側へと、その身を投じた。
ぐにゃりと。
視界が一瞬歪む。
ゼリー状の膜を通り抜けるような、不快な感覚。
そして、次の瞬間。
彼の全身を、これまで感じたことのない濃密で腐りきった魔素の空気が、包み込んだ。
彼の視界の隅に、システムメッセージが表示される。
【デバフ: 腐敗の瘴気】
【効果: 全ての属性耐性 -30%】
その表示と同時に、彼は確かに感じた。
自らの体を守っていた見えざる魔法の鎧が、一枚剥がれ落ちるような感覚。
彼のステータスウィンドウに表示された全属性耐性の数値が、軒並み減少している。
これまでオーラと装備でガチガチに固めていた、彼の守り。
それがいとも簡単に、脆弱なものへと変わってしまった。
「…なるほどな。これが、腐敗の力か」
彼は、そのもろくなった守りを確かめるように、自らの体を軽く叩いた。
「確かにこれは、ちっと厄介だな」
だが、彼の表情に焦りの色はない。
むしろ楽しんでいるかのように、その口元には笑みすら浮かんでいた。
彼は、周囲を見渡した。
そこは、彼がよく知る闘技場の通路だった。
だが、その様相は一変していた。
壁も、床も、天井も、全てがまるで血管が浮き出たかのように脈打つ、紫色の肉塊のような物質で覆われている。
空気中には、胞子のような緑色の光が無数に舞い、そして地面からは、時折腐敗したガスが間欠泉のように噴き出していた。
血をぶちまけたような、世界。
まさに、地獄の一丁目。
そんな言葉が、彼の脳裏をよぎった。
「じゃあ、行くか」
彼は長剣【憎悪の残響】を構え直すと、その腐敗した世界のさらに奥深くへと、その第一歩を踏み出した。
彼の本当の挑戦が、今、始まろうとしていた。
物語は、主人公が退屈な日常の果てに、新たな、そしてより危険なステージを見つけ出し、その挑戦を受けて立つ、その決意の瞬間を描き出して幕を閉じた。




