第72話
C級ダンジョン【忘れられた闘技場】と【彷徨える魂の森】。その二つを完全に掌握した神崎隼人にとって、日々の探索はもはや「冒険」ではなく、安定した収益が見込める「作業」へと変わりつつあった。
彼の名はJOKER。レベル16に到達し、そのビルドは一つの完成形を迎えていた。
【不動の王冠】がもたらす鉄壁の守り。
【スペクトラル・スロー】による一方的な後衛の殲滅。
そして、【血の怒り】と狂乱チャージが生み出す神速の蹂躙劇。
彼の配信スタイルは、かつてのような息を呑むほどの緊張感に満ちたギャンブルではなく、絶対的な王者がその支配領域をただ巡回するだけの、圧倒的な安定感を誇るショーへと昇華されていた。視聴者数はうなぎ登りに増え続け、今や彼のチャンネルは、日本でも有数の巨大コミュニティへと成長していた。
その日も彼は、いつものように【彷徨える魂の森】の瘴気が立ち込める木々の間で、思考を停止させながら、ただ機械的に剣を振るっていた。
【血の怒り】を発動させ、狂乱チャージを最大まで溜め込んだ彼の剣速は、もはや彼の意識すら置き去りにする。彼の視界の端で、モンスターたちが現れては残像と化した剣閃によって、光の粒子へと変わっていく。その光景にもはや、何の感慨も湧かなかった。
ただ、インベントリに溜まっていく魔石の数字だけが、彼が今この瞬間に価値を生み出しているという唯一の証明だった。
(…退屈だな)
配信のコメント欄は、相変わらず彼の無双劇を称える温かい言葉で溢れている。
『JOKERさん、今日も安定の強さ!』
『この何も考えずに見られる感じが、最高に癒される』
『もはや芸術の域だな…』
その声援はもちろん嬉しい。彼を支えてくれる、大切な観客たちの声だ。
だが、彼のギャンブラーとしての魂が、このあまりにも安定しきった「日常」に警鐘を鳴らしていた。
勝てると分かっているテーブルで、ただチップを積み上げるだけの作業。それはギャンブルではない。ただの労働だ。
このままではダメだ。
この心地よいぬるま湯に浸かり続けていれば、いずれ牙は抜け、爪は丸まり、本当の大勝負のテーブルに座ることすらできなくなるだろう。
もっと上へ。
B級、A級、そしてそのさらに先。
妹・美咲を救うためには、こんな場所で足踏みしている暇などないのだ。
彼はその日のノルマを終えると、早々にダンジョンから帰還した。
自室の古びたゲーミングチェアに深く身を沈め、彼は自らの魂の内側…ステータスウィンドウとスキルツリーを、静かに見つめていた。
装備は現状、これ以上ないほどの最適解に近い。
パッシブスキルも、レベルアップで得たなけなしのポイントを、生存と火力に効率よく割り振っている。
ステータスポイントは、来るべき運命の装備のために温存してある。
では、どこにまだ成長の余地が残されている?
ふと、彼の視線が、これまで全く意識してこなかった一つの項目に止まった。
スキルジェム。
その一つ一つのアイコンの隅に、小さく、しかし確かに表示されている『Lv.1』という数字。
そうだ、スキルそのものにも「レベル」という概念があったはずだ。
これまで彼は、新しいスキルを手に入れることばかりに夢中で、そのレベルを上げるという発想自体が抜け落ちていた。
これは、新たな強化の可能性か?
それとも、下手に手を出せばビルドの完璧なバランスを崩しかねない、危険な罠か?
彼のギャンブラーとしての直感が告げていた。
――これは、調べる価値があると。
彼は思考を切り替え、主戦場をダンジョンから情報の海へと移す。
日本最大の探索者専用コミュニティサイト、『SeekerNet』。
その奥深く。
彼が最も信頼を置く、戦士たちの聖域へとその意識をダイブさせていった。
『戦士クラス総合スレ Part. 312』
そこは、相変わらず熱狂的な議論と最新の情報が渦巻いていた。
彼はスレッド内検索のウィンドウに、いくつかのキーワードを打ち込んだ。
『スキルレベル』『レベル上げ』『メリット』『デメリット』
エンターキーを押すと、彼の画面にはおびただしい数の過去の議論が表示された。
そのほとんどが、彼と同じようにレベル16前後に到達した新人戦士たちの、期待と不安に満ちた問いかけだった。
245 名無しの新人戦士
先輩方、教えてください。
最近、C級ダンジョンにも慣れてきたので、そろそろスキルジェムのレベル上げを検討しています。
でも、正直仕様がよく分かっていません。
レベルを上げると、具体的にどうなるんでしょうか?
あと、レベル上げってどうやるんですか?金かかりますか?
そのあまりにも初歩的で、そして的を射た質問。
それに、スレッドの主である百戦錬磨の猛者たちが、待っていましたとばかりに回答していく。
248 ハクスラ廃人
245
いい質問だ、新人。その疑問にぶち当たるってことは、お前が初心者から一歩抜け出したってことの証明だ。
まずレベルの上げ方だが、これはシンプルだ。
スキルジェムの管理画面で、レベルを上げたいジェムを選択する。そうすると、「レベルアップ」っていうボタンが表示されるはずだ。
それを押すと、お前のインベントリに入っている「魔石」を一定量消費してレベルが上がる。
レベルが高くなればなるほど、要求される魔石の質と量は増えていく。低級の魔石じゃ、途中からビクともしなくなるから注意しろよ。
251 元ギルドマン@戦士一筋
245
次に、メリットとデメリットについてだ。これはスキルの種類によって大きく異なるから、分けて考える必要がある。
まず、【火力スキル】。お前らがメインで使ってるであろうヘビーストライクやスペクトラル・スローのような、直接敵を殴るためのスキルだな。
こいつらはレベルを上げると、基礎ダメージが上昇する。つまり、純粋に火力が上がる。
だが、同時に消費MPも上昇する。
だから、脳死でレベルを上げればいいってもんじゃない。お前のMP回復手段が、その増加した消費MPに追いつかなくなる可能性があるからだ。
俺たちベテランの間でのセオリーは一つ。「火力が足りないと感じ始めるまでは上げるな」。
今の火力で満足しているなら、下手にバランスを崩す必要はない。
255 オーラ信者
次は、【割合MP予約オーラ】だ。決意のオーラや憎悪のオーラのように、「最大MPの〇%を予約する」って書かれてるアレだ。
こいつらははっきり言って、「上げ得」だ。
なぜなら、レベルを上げても予約コスト(割合)は一切変わらず、効果だけが上昇していくからだ。
例えば、決意のオーラなら、物理ダメージ軽減率がさらに上がっていく。憎悪のオーラなら、追加される冷気ダメージが増えていく。
デメリットが一切ない。
だから、魔石に余裕ができたら、真っ先にこいつらのレベルを上げるべきだ。
まあ、その分要求される魔石の量が他のスキルよりもエグいんだけどな…。ご利用は計画的に、ってやつだ。
260 元ギルドマン@戦士一筋
そして最後が、最も注意が必要な【固定MP予約オーラ】だ。
活力のオーラや精度のオーラのように、「MPを〇〇予約する」って固定値で書かれてるやつらだな。
こいつらはレベルを上げると効果が上昇する代わりに、予約コスト(固定値)も上昇する。
まさに諸刃の剣。
お前の最大MPと相談しながら、慎重に上げる必要がある。
「あとちょっとだけなら大丈夫だろ…」って軽い気持ちでレベルを上げたら、メインスキルを一発振っただけでMPが枯渇するようになった、なんてのはよくある話だ。
その的確で、分かりやすい解説。
隼人は静かに頷きながら、その情報を脳内に刻み込んでいく。
そして、彼の目に一つのひときわ切実な書き込みが飛び込んできた。
263 名無しの買い直し君
横からすまん。元ギルドマンの言う通りだ。マジで気をつけろ。
俺、この前調子に乗って活力のオーラのレベルを5まで上げちまったんだよ。
HPリジェネが秒間30近くになって、「俺最強じゃんwww」とか思ってたんだ。
で、いざダンジョンに潜ってみたらどうだ。
メインで使ってるヘビーストライクを三発振っただけで、MPがスッカラカンになった。
予約MPが増えすぎて、実際に使えるMPがほとんど残ってなかったんだよ…。
結局その日は泣きながら撤退して、マーケットでレベル1の活力のオーラを買い直した。
レベル上げに使った数万円相当の魔石は、全部パーだ。
お前らは俺みたいになるなよ…。絶対にだ…。
そのあまりにも悲痛な魂の叫び。
コメント欄には、『南無三』『ドンマイw』『授業料だと思うしかねえな』といった、同情と少しの揶揄が入り混じったコメントが並んでいた。
隼人はその失敗談に、思わず苦笑した。
だが同時に、背筋が少しだけ冷たくなるのを感じた。
この世界では、たった一つの判断ミスが、これまで積み上げてきた資産と時間を一瞬で無に帰す。
やはりギャンブルは、常に慎重でなければならない。
彼は情報の海から意識を引き上げた。
そして再び、自らのステータスウィンドウと向き合う。
彼の脳内では、先ほど手に入れた情報と自らのビルドが、高速で照合され、分析されていく。
(まず火力スキル…【ヘビーストライク】と【スペクトラル・スロー】。こいつらのレベルは、まだ上げる必要はないな。C級の敵は、現状でもオーバーキル気味だ。消費MPを増やしてまで火力を上げるメリットは薄い)
(次に割合予約オーラ…【決意のオーラ】と【憎悪のオーラ】。こいつらは上げ得か。だが俺の場合、どちらもユニーク装備の効果で付与されているスキルだ。スキルジェムそのものを持っているわけじゃない。つまり、レベルを上げること自体が不可能だ)
(…となると、残るは固定予約オーラか)
彼の視線が、二つのスキルジェムへと注がれる。
【活力のオーラ Lv.1】。
【精度のオーラ Lv.1】。
こいつらなら、レベルを上げることができる。
そして、効果も確実に上昇する。
問題は、その代償として支払うMP予約コストだ。
彼は自らのMPバーを確認する。
最大MP: 275。
現在の合計予約MP: 147。
差し引き、実際に使えるMPは128。
決して多くはない。だが、彼の主力技である【無限斬撃】と【スペクトラル・スロー】は、どちらも【マナ・リーチ】の効果でMPを自己回復しながら戦うことができる。
つまり、戦闘中のMP消費は実質的にほとんどない。
この128という数字は、あくまで戦闘開始時の初期値でしかない。
(…まだ余裕はあるな)
彼のギャンブラーとしての血が、騒ぎ始めた。
あの買い直し君の悲劇は、確かに教訓的だ。
だが、リスクを恐れていてはリターンは得られない。
それに彼は、あの彼とは違う。
彼は常に冷静に、リスクを計算し、管理することができる。
(よし、決めた)
彼の瞳に、静かな決意の光が宿った。
(いきなりレベルを上げまくるのは愚策だ。まずは1レベルずつ。慎重に、その効果とコストを見極める)
「試しに、上げてみるか」
彼は誰に言うでもなく、呟いた。
彼の次なるギャンブルが、今始まろうとしていた。
彼はまずインベントリを開き、これまで貯め込んできたおびただしい数の魔石を確認した。C級ダンジョンを周回したおかげで、その質も量も十分すぎるほどに揃っている。
彼は、スキルジェムの管理UIを開いた。
彼の魂にセットされた数々のスキルジェムが、一覧で表示される。
彼はその中から、まず【活力のオーラ】を選択した。
ジェムのアイコンの横に、『レベルアップ可能』という文字が淡く点滅している。
そしてその下に、レベルアップに必要な魔石の種類と数が表示されていた。
『低級魔石 x 50』
『中級魔石 x 10』
今の彼にとっては、はした金にもならないコストだった。
彼は躊躇なく、「レベルアップ」のボタンを脳内でクリックした。
その瞬間。
彼のインベントリから指定された数の魔石が、光の粒子となって消滅した。
そしてその光は、一本の光の筋となって、彼の魂にセットされた【活力のオーラ】のスキルジェムへと吸い込まれていく。
ジュウウウウウウッという心地よい吸収音と共に、スキルジェムがそれまでとは比較にならないほどの力強い生命の輝きを放ち始めた。
そして彼の視界に、システムメッセージが表示された。
【スキルジェム『活力のオーラ』がLv.2にレベルアップしました】
彼は間髪入れずに、次のターゲットへと移る。
【精度のオーラ】。
こちらも同じように、レベルアップのボタンをクリックした。
再び魔石が光となり、スキルジェムへと注ぎ込まれていく。
【スキルジェム『精度のオーラ』がLv.2にレベルアップしました】
二つのオーラスキルが、新たな力を手に入れた。
彼は静かに息を呑みながら、自らのステータスウィンドウを開いた。
果たしてこの投資は、吉と出るか、凶と出るか。
彼の視線が、MPと各オーラの詳細な数値へと注がれる。
そして、そこに表示された変化は、彼の予想通り、しかし予想以上に劇的なものだった。
まず、MP。
合計予約MPが、147から169へと増加していた。
活力のオーラの予約コストが、28から40へ。(+12)
精度のオーラの予約コストが、22から32へ。(+10)
合計で22ものMPが新たに予約され、彼の実際に使えるMPは、128から106へと減少していた。
確かに、痛いコスト増だ。
だが、彼はそのリターンに目を向けた。
【活力のオーラ Lv.2】。
その効果説明欄に記されたHP自動回復の数値は、毎秒10から12.1へと上昇していた。
【精度のオーラ Lv.2】。
その効果は、+93から+128へと跳ね上がっている。
「へー…こんな感じなのか」
彼は思わず、感嘆の声を漏らした。
HPリジェネは、約2割増。
精度は、3割以上の増加だ。
「コストは確かに上がったが…この上昇率は悪くない。むしろ、強いな」
特に、精度の上昇は大きい。
C級の敵は回避率が高く、【精度のオーラ】を張っていても、時折攻撃が外れることがあった。だが、これだけの数値が上乗せされれば、彼の攻撃はもはや必中と言っても過言ではないだろう。
攻撃が、確実に当たる。
それは、DPSの安定化に直結する最も重要な要素の一つだ。
彼は満足げに、頷いた。
今回のギャンブルは、成功だ。
彼は自らの判断が正しかったことを、確信した。
だが、彼はそこで思考を止めない。
「だが、数字だけじゃ分からん。実戦で試して初めて、その真価が分かる」
彼は椅子から立ち上がった。
その瞳には、再び闘志の火が灯っていた。
向かう先は決まっている。
あの忌まわしき、しかし今となっては最高の実験場。
C級ダンジョン、【忘れられた闘技場】。
新たな力を手に入れた彼が、その成長を確かめるための最高の舞台が、彼を待っていた。
物語は、主人公が新たな成長の扉を自らの手でこじ開け、その尽きることのない探求心と共に、次なるステージへと歩みを進める、その確かな一歩を描き出して幕を閉じた。




