第5話
宣言通り、神崎隼人は洞窟のさらに奥へと足を進めた。
最初の戦闘があった広間のような空間を抜けると、道は次第に狭く、そして複雑になっていく。壁一面を覆う光苔は密度を増し、洞窟内は先ほどよりも明るかったが、その分、岩の隙間や曲がり角が作り出す影もまた、色濃くなっていた。どこに敵が潜んでいてもおかしくない。
だが、隼人の心に恐怖はなかった。左腕に装着された【万象の守り】が、まるで信頼できる相棒のように、静かな存在感を放っている。そのおかげで、彼は思考のリソースのほとんどを、周囲の環境分析に注ぐことができた。
(床の足跡が増えたな…二体、いや、三体分の可能性がある。この先が奴らの寝床か、あるいは溜まり場か)
彼は、雀荘で相手の捨て牌から手牌を読み解くように、ダンジョンの些細な情報から未来を予測する。彼のギャンブラーとしての才能は、こうした索敵や分析において、専門のスキルを持つ探索者以上に的確だったかもしれない。
彼の配信は、依然として盛況だった。視聴者数は千人を超え、今も増え続けている。コメント欄は、彼の次なる一挙手一投足に期待する声で溢れていた。
視聴者A: さあ、第二ラウンドだ!
視聴者B: あのガントレット、通常攻撃でどんな感じになるか楽しみ
視聴者C: 攻撃速度15%アップって、体感かなり変わるもんなの?
その問いに答えるように、隼人はカメラに向かって語りかけた。
「まあ、見ててくれ。俺も、こいつがどれほどの代物か、まだ分かっちゃいないんでな。実験と行こうじゃないか」
その言葉を証明する機会は、すぐに訪れた。
道の先の、少し開けた場所。そこに、二体のゴブリンがいた。一体は焚火のようなものの前で座り込み、もう一体は壁に向かって何かを削っている。
隼人は息を潜め、最適なタイミングを計る。一体ずつ、確実に仕留める。それがセオリーだ。彼はまず、壁際のゴブリンに狙いを定めた。地面を蹴り、音もなくその背後へと回り込む。
「グ…?」
ゴブリンが、何かの気配を察して振り返ろうとした、その瞬間。
隼人は、意識を左腕のガントレットに集中させた。
行け。
彼の脳が指令を出すと、腕が、体が、それに呼応する。振るわれた刃こぼれのナイフは、確かに速かった。彼が一体目を仕留めた時よりも、明らかにコンマ数秒、速く空気を切り裂き、ゴブリンの首筋へと吸い込まれていく。
だが、その手応えは、隼人の眉をひそめさせた。
ザシュッ、という小気味のよい音とは裏腹に、傷は浅い。ゴブリンの硬い皮膚と筋肉が、安物のナイフの威力を殺してしまっている。
「グギャアアア!」
致命傷に至らなかったゴブリンが、苦痛と怒りの叫び声を上げ、振り向きざまに棍棒を振るう。同時に、焚火の前にいたもう一体のゴブリンも、仲間の異変に気づいて雄叫びを上げながら立ち上がった。
まずい。一対二の状況になった。
「チッ…!」
隼人は悪態をつきながら、即座に後方へ跳んで距離を取った。
(速く振るえる、ただそれだけじゃ意味がねえ…!)
彼は、この短い交戦で、【万象の守り】がもたらす恩恵の「本質」と「限界」を、痛いほどに理解していた。
攻撃速度+15%。
それは、彼がナイフを振るうという行為そのものを、1.15倍に加速させる。これまで一回振る間に、今は1.15回振れる。0.15回分のアドバンテージ。だが、その一振り一振りの威力、リーチ、切れ味が、元の武器の性能以上に向上するわけではない。
それはまるで、貧弱なピストルの連射速度が少しだけ上がったようなものだ。ライフルやショットガンの圧倒的な破壊力の前には、ほとんど無意味な差でしかない。
「グルルル…」
二体のゴブリンが、じりじりと距離を詰めてくる。一体が棍棒を振りかぶれば、もう一体が横から回り込もうとする。単純だが、数に物を言わせた厄介な連携。
視聴者D: うお、囲まれてんじゃん
視聴者E: だから武器買えって言ったんだよ…
視聴者F: 速いけど、ダメージしょぼすぎw
コメント欄にも、焦りと、的確な批判が入り混じる。
隼人は、冷静に戦況を分析した。このままではジリ貧だ。安物のナイフでは、二体を同時に相手取るのは無謀すぎる。ならば、どうするか。
(――このテーブルのルールを変える)
彼は、戦闘の土俵そのものを、自分に有利なものへと作り変えることを決意した。
隼人は、二体のゴブリンに背を向けるようにして、走り出した。向かう先は、先ほど通り過ぎてきた、狭い通路。
「グギャッ!グギャッ!」
ゴブリンたちは、獲物が逃げ出したと勘違いし、我先にと後を追ってくる。
隼人は、狭い通路の中ほどで足を止め、振り返った。通路の幅は、大人が一人、ようやく通れる程度。これならば、二体のゴブリンが同時に攻撃を仕掛けてくることはない。彼は、自ら一対一の状況を、強制的に作り出したのだ。
先頭を走ってきたゴブリンが、通路に飛び込んでくる。隼人は、その突進を待ち構え、最小限の動きでいなした。そして、すれ違いざま、左脇腹にナイフを突き立てる。先ほどよりも深く、確かな手応え。
一体目を仕留めたことで得た経験が、彼の動きをより洗練させていた。
一体目が光の粒子となって消えるのと、二体目が通路に到達するのは、ほぼ同時だった。
隼人は、息つく暇もなく、二体目のゴブリンと対峙する。
今度は、純粋な一対一。だが、連戦で彼の集中力は削られ、体力も消耗していた。
ゴブリンの棍棒が、横薙ぎに振るわれる。隼人はそれをナイフで受け流そうとするが、非力な刃では棍棒の重さを殺しきれない。ガキンッ、という耳障りな金属音と共に、ナイフを持つ手が痺れ、体勢が崩れる。
がら空きになった胴体へ、ゴブリンの追撃の蹴りが叩き込まれた。
「ぐっ…!」
支給品の布の服など、何の役にも立たない。鈍い衝撃が、肋骨に響く。数本、ヒビが入ったかもしれない。ARウィンドウに表示されたHPバーが、初めて少しだけ減少した。
視聴者A: あ!
視聴者B: 被弾したぞ!大丈夫か!
だが、隼人はこの一撃で、逆に覚醒していた。
痛みと、死の恐怖。それが、彼のギャンブラーとしての感覚を、極限まで研ぎ澄ませる。
彼は、蹴りの勢いを殺さず、後方へ大きく倒れ込みながら、ナイフを投擲した。常人なら、ありえない選択。体勢も、距離も、無茶苦茶だ。
しかし、その一投は、ゴブリンの眉間へと、まるで吸い込まれるように突き刺さった。
「ギ…」
ゴブリンは、最後の声を上げることすらできずに、その場に崩れ落ち、光となって消えていった。
「はぁ…はぁ…クソが…」
隼人は、脇腹の痛みをこらえながら、ゆっくりと立ち上がった。ドロップしたアイテムを回収し、壁に突き刺さったナイフを引き抜く。
結果だけ見れば、勝利だ。だが、その内容は、惨憺たるものだった。たかがゴブリン二体に、これほどまでの苦戦を強いられ、手傷まで負った。
もし、一体目の攻撃で、彼のギャンブルが失敗していたら?
もし、通路という地形の利がなければ?
もし、最後のナイフ投擲が、わずかでも逸れていたら?
いくつもの「もし」が、彼の脳裏をよぎる。そのどれか一つが違っていただけで、今頃ここで死んでいたのは、自分の方だっただろう。
彼は、コメント欄に目をやった。
視聴者D: 危なかったな…
視聴者E: でも、今の立ち回りは見事だったぞ。地形利用うまい
視聴者F: 最後のナイフ投げ、神業だろ…
賞賛の声もある。だが、隼人は分かっていた。これらは全て、結果論に過ぎない。自分の戦いは、あまりにも多くの不確定要素――運に依存しすぎている。
彼は、配信を見ている数百人の視聴者に向かって、独り言のように呟いた。
「…分かったろ?こいつは、万能なんかじゃねえ」
彼は、左腕の【万象の守り】を掲げる。
「『攻撃速度+15%』。確かに、速い。だが、それは、ディーラーがカードを配るスピードが、ほんの少しだけ速くなったようなもんだ。それだけで、ポーカーの勝負の結果そのものが変わると思うか?変わらねえよ。配られるカードがゴミなら、どんなに速く配られたって、負けは負けだ」
彼の言葉は、ダンジョン攻略の本質を突いていた。
視聴者A: 深い…
視聴者B: 確かに。武器が弱すぎるのが根本的な問題だな
視聴者C: JOKERさん、意外と冷静に分析するタイプなんだな。もっとイケイケかと思ってた
隼人は、そのコメントに、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「ギャンブラーはな、誰よりも臆病で、誰よりも慎重なんだよ。でなけりゃ、生き残れねえ。俺は、この強力な装備を手に入れたからって、それを使いこなす自分自身の腕…プレイヤースキルが伴わなきゃ、いずれ必ず破滅することを、痛いほど理解した」
彼は、脇腹の痛みをさする。この鈍い痛みが、何よりの教訓だった。
「だから、しばらくは、この退屈なゴブリン狩りに付き合ってもらうぜ。これは、単なるレベル上げじゃねえ。俺自身のリハビリであり、この新しい腕に体を慣らすための、必要なプロセスだ」
その宣言の後、隼人の戦い方は、少しだけ変わった。
彼は、一体一体のゴブリンを、まるで教材のように扱い始めた。
次のゴブリンとは、あえて距離を取って戦い、ナイフのリーチの限界と、最適な踏み込みのタイミングを探る。
その次のゴブリンとは、攻撃をギリギリまで引きつけて避ける練習を繰り返す。彼の反射神経と動体視力は、ギャンブルで鍛えられたものが、この世界でも通用し始めていた。
さらに次のゴブリンとは、ナイフの持ち方を変え、突きと斬撃、どちらが有効かを試す。
視聴者D: なんか動きが洗練されてきてないか?
視聴者E: 地味だけど、すげえ真面目に練習してるなこの人…
視聴者F: 好感度上がったわ
視聴者たちも、彼の意図を理解し始めていた。派手な無双劇を期待していた者たちも、この地道な努力の先に、本物の覚醒があることを予感し、静かに彼の戦いを見守り始めた。
一体、また一体と、ゴブリンが光となって消えていく。
隼人の体には、少しずつ傷が増えていった。だが、それと引き換えに、彼の動きからは無駄が消え、ナイフの一振り一振りに、確かな経験が蓄積されていく。
左腕のガントレットは、もはや単なる強力な防具ではない。それは、彼の未熟な技術を補い、成長を促してくれる、最高の師でもあった。
そして、通算で8体目のゴブリンを倒した、その時だった。
彼の全身が、それまでとは比較にならない、強い光に包まれた。
次のステージへの扉が、今、開かれようとしていた。
※2025/07/10 一貫した戦闘を書いたあとに分離させたので矛盾した描写古傷がある描写をしていたので修正しました。