第471話
世界の空気は、もはや日常ではなかった。
それは、一つの巨大な「祭り」の予感に、静かに、しかしどこまでも深く支配されていた。【四天王集結、アトラスの守護者たち】。JOKER、アリス、小鈴、そしてソフィア。四人の天才が、それぞれ自らのガーディアンを打ち破り、その証であるフラグメントを手に入れてから数日。世界の全ての探索者の視線は、彼らが次に踏み出すその一歩だけへと注がれていた。
その歴史の転換点は、神崎隼人の所有する楽園諸島のプライベートアイランドで、静かに、しかし確かな胎動を始めていた。
どこまでも続く白砂のビーチ。エメラルドグリーンに輝く穏やかな波。そのあまりにも平和な光景の中心に、一つの禍々しくも美しい祭壇が鎮座していた。JOKERが、自らの隠れ家として設置した、黄金と黒曜石でできたマップデバイス。
その前に、四つの影があった。
神崎隼人――“JOKER”。
アリス@オーディン。そのゴシックロリータ風の戦闘服は、ヒュドラとの戦いの傷跡一つなく、まるで今しがた新調されたかのように、清廉な輝きを放っている。
龍 小鈴。その深紅の拳法着は、フェニックスの炎にも焼かれなかったかのように、静かな、しかし絶対的な闘志をその色に宿していた。
そして、ソフィア・リード。純白のイブニングドレスは、ミノタウロスの迷宮の土埃一つ付いておらず、彼女の存在そのものが、この世界の理の外側にいることを雄弁に物語っていた。
「…揃ったな」
JOKERのその静かな声が、楽園の穏やかな空気を震わせた。
彼のインベントリから、四つの禍々しい爪の欠片が、ホログラムとして空間に浮かび上がる。【キメラのフラグメント】。
それに呼応するかのように、アリスが、小鈴が、そしてソフィアが、それぞれ自らが手に入れたヒュドラ、フェニックス、そしてミノタウロスのフラグメントをインベントリから取り出した。
四人の守護者の魂の欠片。合計、十六個。
それらが一つの場所に集結した、その瞬間。世界の魔素が、まるで一つの巨大な意志に引かれるかのように、この小さな島へと収束を始めた。
「では、始めましょうか」
ソフィアが、その優雅な口調で言った。
彼女の指先がARウィンドウを操作し、四つのミノタウロスのフラグメントを、マップデバイスの南を示すスロットへとそっと配置する。
それに続き、小鈴が東のスロットにフェニックスを、アリスが西のスロットにヒュドラを、そして最後に、JOKERが北のスロットにキメラをそれぞれ配置していった。
十六個のフラグメントが、その定位置へと収まったその瞬間だった。
マップデバイスが、これまでにないほどの禍々しい紫電を迸らせる。そして、その中央に鎮座する地球儀のホログラムが、凄まじい勢いで回転を始め、やがて、一つの絶対的な「無」を象徴するかのような、漆黒の球体へとその姿を変えた。
そして、その球体から一つのポータルが生まれ始めた。
それは、もはやただの光の渦ではない。
空間そのものが悲鳴を上げて引き裂かれ、その向こう側に、誰も見たことのない星々の深淵が、その口を開けていた。
「――行くぞ」
JOKERの、その短い、しかしどこまでも重い一言。
それに、三人の少女たちが、静かに、しかし力強く頷いた。
四人の天才たちが、その歴史的な一歩を、同時にその深淵の中へと踏み出した。
◇
彼らがその空間の亀裂を抜けた先に広がっていたのは、もはや彼らが知るどのダンジョンとも似ていない、神々の領域だった。
空には、月も太陽もない。ただ、砕け散った銀河の残骸が、巨大な絵画のように広がり、遠い星々が、ダイヤモンドダストのように、静かに、しかしどこまでも美しく輝いている。
そして、その足元。
そこには、無限に広がる磨き上げられた黒曜石の床だけがあった。その表面は、まるで鏡のように頭上の星空を完璧に映し出し、彼らが今、天と地の間にただ浮遊しているかのような、荘厳な錯覚をもたらしていた。
そのあまりにも異様で、そしてどこまでも神聖な光景。
それに、歴戦の怪物たちですら、一瞬だけその呼吸を忘れた。
「…綺麗ですわね」
最初にその沈黙を破ったのは、アリスのその素直な感嘆の声だった。
「ええ。ですが、魔素の密度が異常ですわ。まるで、世界の理そのものがここでは凝縮されているかのよう」
ソフィアが、その分析的な瞳を細める。
「…強い気の流れを感じます。あれは…」
小鈴の、その黒曜石のような瞳が、ただ一点を見据えていた。
広間の最奥。
そのどこまでも続く黒曜石の床の、その地平線の彼方に。
一つの、小さな、しかし絶対的な存在感を放つ人型の影が、静かに佇んでいた。
四人は、無言のままその影へとその歩みを進めていく。
カツリ、カツリと。
四人の足音だけが、その無限の静寂の中に吸い込まれるように消えていく。
そして、彼らはついにその宿敵と対峙した。
それは、人だった。
あるいは、かつて人だった何かの「残響」。
背は高く、その体は痩せ細っている。その身を包んでいるのは、豪華な鎧でも禍々しいローブでもない。ただ、星々の光をそのまま編み込んだかのような、ぼろぼろの、しかしどこか気品のある灰色のローブだけ。その顔は、フードの深い影に隠れて見えない。
だが、その存在そのものから放たれるプレッシャーは、アルトリウスのそれを遥かに凌駕していた。
それは、もはやただの敵ではない。
この狂った世界の創造主。
あるいは、そのあまりにも悲しい残響だった。
彼が、ゆっくりとその顔を上げた。
フードの影の奥で、二つの星雲のように渦巻く光が、挑戦者たちを捉えた。
そこに、声はなかった。
だが、四人の魂に、直接一つの「言葉」が響き渡った。
それは、問いかけであり、そして何よりも諦観に満ちた呟きだった。
『…またか』
『また、我が夢を踏み荒らす者が…』
そのあまりにも物悲しい響き。
だが、次の瞬間。
その諦観は、絶対的な、そしてどこまでも冷徹な拒絶の意志へとその姿を変えた。
『――去れ』
その一言を合図にしたかのように。
シェイパーが、そのローブの下の両腕を、ゆっくりとその胸の前で合わせた。
そして、その合わせた掌のその中心に。
世界の全ての光と全ての闇が、一つの小さな点へと収束していく。
「――来るぞ!」
JOKERの、その絶叫が神々の闘技場に響き渡った。
シェイパーの掌から放たれた。
それは、もはやビームではなかった。
空間そのものを、その存在ごと消し去る純粋な「無」の奔流だった。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!
凄まじい轟音と共に、光の奔流が、先ほどまで四人がいた場所を通り過ぎていく。
そして、その背後の何もないはずの空間に、巨大な亀裂を穿った。
だが、その時、四人の姿はすでにそこにはなかった。
「散開しろ!俺のスマイトを起点に、各自で最大火力を叩き込め!」
JOKERの、その神速の指揮。
それに、三人の少女たちが完璧に応えた。
彼らは、その「無」の奔流を、まるでダンスを踊るかのように、四つの異なる方向へと回避していた。
そして、その回避のほんのわずかな隙間。
四つの神々の領域の力が、同時にシェイパーへと叩き込まれた。
JOKERの黄金の雷霆。
アリスの不死鳥の拳。
小鈴の金剛の掌底。
ソフィアの完璧なる一撃。
そのあまりにも圧倒的な、四方向からの同時攻撃。
それに、シェイパーのその星屑でできた体が、初めて大きく、そして確かに揺れた。
彼のその禍々しいHPバーが、確かに、そして目に見える形で削り取られていく。
だが、その直後。
シェイパーの姿が、掻き消えるように消えた。
そして、四人のその背後の空間。
そこに、彼は音もなくその姿を現していた。
「まずい、スラム攻撃だ!避けろ!」
JOKERの、その絶叫。
それと、シェイパーがその両腕を大地へと叩きつけるのは、ほぼ同時だった。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!
凄まじい地響き。
黒曜石の床に、巨大な禍々しい紋様が刻まれた魔法陣が浮かび上がり、その中心から、絶対的な破壊の衝撃波が四方八方へと迸った。
四人は、その衝撃波を、それぞれの神がかった体捌きで、紙一重で回避する。
だが、本当の地獄はここからだった。
シェイパーのその両の手のひらから、三つの小さな、しかしどこまでも凝縮された魔力の弾丸が放たれた。
それと同時に。
彼のそのローブの影から、一つの、ゆっくりと、しかしどこまでも執拗にJOKERただ一人を追尾する、紫色の不安定な球体が生まれ出た。
「――ヴォラタイルアノマリー!触るなよ!」
JOKERが叫ぶ。
彼は、その三連の魔法弾を華麗に避けながら、その背後から迫り来る死の追尾弾から距離を取る。
だが、その球体は、彼がどこへ逃げようとも、その軌道をゆっくりと、しかし確実に修正してくる。
そしてついに、その球体が、彼のその回避のほんのわずかな先読みを誤った、その足元の床に触れた。
パリンッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
甲高い、ガラスが砕け散るような音。
そして、その着弾点を中心として、黒曜石の床が、まるで深淵の沼のようにどろりとした、禍々しい紫色の液体へとその姿を変えた。
そのダメージフィールドから、じりじりと彼のHPが削られていく。
そのあまりにも絶望的な光景。
それに、JOKERのその冷静だったはずの表情が、初めて明確な焦りの色に染まった。
「まずいぞ…このペースでこの攻撃をされると、20分で床が無くなる…詰みだ」
彼の、その魂の叫び。
それを、他の三人もまた、その肌で確かに感じ取っていた。
「なるほど…20分で倒し切る必要がある、ボスということですね」
ソフィアの、その冷静な分析が四人のヘッドセットに響き渡る。
そうだ。
これは、もはやただのボス戦ではない。
20分という、あまりにも短く、そしてどこまでも絶対的な時間との戦い。
彼らの本当の戦いが、今、始まろうとしていた。




