第465話
その日の世界の空気は、一人の男が踏み入れた、未知なる深淵への期待と、そして畏怖に満ちた沈黙に支配されていた。
JOKER。
彼が、楽園諸島のマップデバイスに、禍々しいキメラの紋様が刻まれた羊皮紙の巻物を捧げた、その瞬間。世界の、1000万を超える観客たちは、息を呑んだ。
彼の目の前に開かれたポータルは、いつもの青白い光ではない。
まるで、血の渦。
混沌そのものが、その口を開けたかのような、深紅の、絶望の渦だった。
その、あまりにも不穏な光景を前にして、しかしJOKERは、最高の、そしてどこまでも楽しそうな、ギャンブル狂の笑みを浮かべて、その中へと、その一歩を踏み出した。
◇
彼が、その深紅の渦を抜けた先に広がっていたのは、もはや彼が知る、どのダンジョンとも似ていない、冒涜的なまでの異世界だった。
空には、病的な紫色の雲が渦巻き、時折、緑色の稲妻がその雲間を走る。大地は、ぬかるんだ赤黒い土と、そこから突き出す、まるで生物の肋骨のような、歪んだ白い岩で覆われていた。
そして、空気。
鉄の錆びた匂いと、薬品のツンとした匂い、そして何よりも、生命そのものを冒涜するかのような、甘く腐った死の匂いが、混じり合っていた。
「…はっ。とんでもねえ場所に、来ちまったな」
JOKERは、そのARカメラの向こうの、固唾を飲んで見守る観客たちに、聞こえるように呟いた。
彼の、その不遜な独り言を、肯定するかのように。
前方の、ぬかるんだ大地が、ごぽりと盛り上がり、そこから、いくつかの、ありえない姿の怪物たちが、その姿を現した。
蛇の体に、鳥の翼を持つもの。
狼の頭に、蠍の尾を持つもの。
それは、まるで子供が、悪夢の中で、様々な動物を無邪気に、そして残酷に繋ぎ合わせたかのような、歪んだ生命のパッチワークだった。
だが。
「雑魚敵は、大した強さじゃねーな」
JOKERは、その光景に、何の感情も見せなかった。
彼の、その黄金の拳が、閃光のように煌めく。
スキル、【スマイト】。
黄金の雷霆が、炸裂する。
その、あまりにも過剰な火力。
それに、歪んだ怪物たちが、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、その存在ごと、この世界から完全に消滅していった。
彼は、その後も、その冒涜的な庭を、ただ散歩でもするかのように、進んでいった。
そして、彼はついに、その場所へとたどり着いた。
その異世界の、中心。
ひときわ巨大な、円形の闘技場。その壁には、無数の、ガラス張りの水槽が埋め込まれ、その中では、原型を留めない、名状しがたい肉塊が、不気味に蠢いていた。
そして、その闘技場の、中央。
それは、いた。
「…さて。ボスは、どんな奴か」
それは、人型だった。
身長は、3メートルほど。その全身は、まるで人間の男性の肉体をベースに、様々な獣のパーツを、強引に、そして悪意を持って繋ぎ合わせたかのような、禍々しい姿をしていた。
獅子の鬣、山羊の角、そして、蛇のように鱗に覆われた、左腕。
そして、その両の手には、彼の魂そのものを具現化したかのような、鋭く、そして黒曜石のように輝く、長大な爪が装着されていた。
その、あまりにも圧倒的な、そしてどこまでも絶望的な存在感。
それに、コメント欄が、戦慄に満ちた言葉で、埋め尽くされた。
『なんだ、こいつ…』
『キメラ、そのものじゃねえか…!』
その、混沌の中心で。
キメラのボスが、その獣の瞳を、カッと見開いた。
そして、その喉から、人間の声帯では決して発することのできない、甲高い、しかしどこまでも知性を感じさせる、咆哮を上げた。
戦いの、火蓋が、切って落とされた。
キメラのボスは、その場から、掻き消えるように、その姿を消した。
瞬間移動して、背後から攻撃してくる。
「!?」
JOKERの、その戦場で研ぎ澄まされた超感覚が、けたたましく警鐘を鳴らす。
彼は、思考するよりも早く、その体を、横へと捻った。
「わっ!」
彼の、その頬を、数本の、黒い閃光が掠める。
彼の、その頑丈だったはずのHPバーが、わずかに、しかし確かに、削り取られた。
回避するJOKER。
彼が、振り返った、その先。
そこには、今しがたまで彼が立っていたはずの空間で、その黒曜石の爪を、静かに振り抜いた姿勢のまま、キメラのボスが、静かに佇んでいた。
「なるほど、そういうタイプか!」
JOKERの口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。
彼は、その回避の、その硬直を、一切感じさせない、神速の動きで、その体を反転させた。
そして、彼はそのがら空きになった、キメラのボスの背中に、その渾身の一撃を、叩き込んだ。
「――オラッ!」
振り向きスマイトをぶち込む。
黄金の雷霆が、炸裂する。
キメラのボスの、その屈強な肉体が、まるでボールのように、後方へと吹き飛ばされた。
だが、そのダメージは、浅い。
キメラのボスは、空中で体勢を立て直すと、その獣の瞳に、初めて、明確な「驚愕」の色を浮かべていた。
そして、彼はその戦術を、切り替えた。
キメラのボスは退避して、フィールドに黒い煙幕が複数現れる。
「なんだ?」
JOKERの、その困惑の声を、肯定するかのように。
その、五つの煙幕の、その全てから、同時に、キメラのボスが、その姿を現した。
そして、その五体のキメラが、一斉に、JOKERへと襲いかかってきた。
JOKERは、その死の弾幕を、紙一重で避けながら、そのうちの一体へと、カウンターのスマイトを叩き込む。
だが。
彼の拳は、そのキメラの肉体を、まるで幻影のように、すり抜けた。
こいつ、攻撃が喰らわない?
「なっ…!?」
その、あまりにも理不尽な現象。
その、彼の驚愕の、コンマ数秒の隙。
それを見逃すほど、この神々の領域の番人は、甘くはなかった。
彼の、その背後から、死角から、そして頭上から。
無数の、黒い爪の斬撃が、嵐のように、彼へと襲いかかる。
ダメージを一方的に与える敵だと?そんな事ありえるのか?
彼は、その死の嵐の中を、必死に、そして無様に、転がり続けた。
その、あまりにも一方的な光景。
それに、コメント欄は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
『嘘だろ…』
『JOKERが、何もできずに…』
『無敵ボスかよ!クソゲーじゃねえか!』
その、絶望と、興奮で爆発するコメント欄。
それを、JOKERは、その死の舞踏の、その合間に、一瞥した。
そして、彼はその脳内で、このクソゲーの、その唯一の「解」を、導き出していた。
(…無敵?いや、違う。攻撃が、通らない個体がいる、ということは…。煙幕がある?)
(そうか!今攻撃してるのは分身で、本体は、あの煙幕の中に隠れてるのか!)
その、あまりにも鮮やかで、そしてどこまでも美しい、結論。
それに、彼の口元に、再び、獰猛な笑みが浮かんだ。
彼は、その場に踏みとどまると、その分身たちの、その猛攻を、あえてその身に受けた。
HPバーが、大きく削られる。
だが、その代償として。
彼は、その一瞬の隙に、その全ての魂を、その足元へと込めた。
「――オラッ!」
彼は、その大地を、強く踏みしめた。。
彼の体は、砲弾のように、天高く舞い上がる。
そして彼は、その眼下に広がる、五つの煙幕の、そのうちの一つへと、一直線に、その身を投じた。
煙幕に突っ込んで本体を探す。
一つ目。
空振り。
二つ目。
空振り。
三つ目の煙幕の中に、キメラのボスが居た。
そこには、その分身たちを操り、そして無防備な、本物のキメラのボスが、その驚愕の表情で、天を見上げていた。
「――見つけたぜ」
JOKERの、その冷徹な声が、闘技場に響き渡る。
「スマイト!」
スマイトをぶち込むJOKER。
黄金の、雷霆。
それが、キメラのボスの、その無防備な心臓を、確かに、そして完全に、貫いた。
◇
「グルオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!」
キメラのボスが、これまでにないほどの、苦痛の絶叫を上げた。
だが、彼はまだ、死んではいなかった。
彼は、その傷ついた体を引きずりながら、後方へと大きく跳躍した。
そして、キメラのボスは力を貯めるような仕草をし始める。
その全身から、これまでにないほどの、禍々しいオーラが噴き出し始める。
「…ジャンプしようとしてる…!ちっ、大技がくるぜ!」
JOKERは、即座に、その危険を察知し、退避する。
だが、間に合わず、大ダメージを食らう。
キメラのボスが、その場から消えた。
そして、次の瞬間。
闘技場の、その天高く舞い上がった彼の影が、JOKERの、その真上へと、降り注いだ。
それは、もはやただの攻撃ではない。
一つの、小さな、しかしどこまでも凝縮された、隕石の落下だった。
轟音。
閃光。
そして、絶対的な、破壊。
JOKERの視界が、一瞬だけ、完全に白に染まる。
彼のHPバーが、赤い閃光と共に、一瞬で、残り1割にまで蒸発した。
『ああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!』
『死んだ!』
コメント欄が、絶叫で埋め尽くされる。
だが、その絶望の、まさにその中心で。
JOKERは、生きていた。
彼の、そのボロボロになった体の、その表面に。
一枚の、鋼鉄の皮膜が、淡い光を放って、展開されていた。
こんな時のために、被ダメージキャストでスティールスキンを仕込んで置いたのが発動する。
「…危ねえ。マジで、死ぬかと思ったぜ…」
なんとかHPが大幅に減ったが、防御が成功する。
その、あまりにも劇的な、そしてどこまでも計算され尽くした、生存劇。
それに、コメント欄は、安堵と、そしてそれ以上に大きな、興奮のため息に包まれた。
そして、そのJOKERの、その満身創痍の姿を、肯定するかのように。
キメラのボスは、再び、あの黒い煙幕を、闘技場に展開させた。
再び煙幕を複数張り、分身で攻撃してくる。
だが、その光景に、JOKERは、もはや何の動揺も見せなかった。
彼の顔には、最高の、そしてどこまでも楽しそうな、ギャンブル狂の笑みが浮かんでいた。
「――種は見抜いたから、本体を探すだけだ!」
彼は、その最後の狩りを、始めた。
一つ目、二つ目、三つ目…。
そして、4個所目の煙幕で、本体を見つけて、スマイトをぶち込む。
黄金の雷霆が、炸裂する。
キメラのボスの、その絶望に満ちた、心臓を、確かに、そして完全に、貫いた。
彼の、その禍々しい体は、ゆっくりとその場に崩れ落ち、そして満足げな光の粒子となって、消滅していった。
静寂。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、荒い息をつきながら、しかし確かな勝利を噛みしめる、一人の男の姿だけだった。
「…ふー。結構、ギリギリだったな。ギミック付きは、厄介だぜ」
彼の、そのあまりにも人間的な、そしてどこまでも正直な一言。
それに、コメント欄は、万雷の拍手喝采で応えた。
そして、その祝福の光の中で。
ボスの、その亡骸の、その中心に。
一つの、小さな、しかしひときわ強い輝きを放つ、ドロップ品が、静かに、その姿を現した。
ドロップは、キメラのフラグメント。
「…ほう。フラグメント、か」
JOKERは、その新たな謎を、その手に拾い上げた。
彼の、新たな冒険が、また一つ、始まろうとしていた。




