第464話
その日の日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』は、一つの巨大な「祭り」の熱狂に、完全に支配されていた。
【アトラス】。
数週間前に突如として世界の理に追加された、新たなエンドゲームコンテンツ。それは、これまでのダンジョンとは一線を画す、あまりにも深く、そしてどこまでも中毒性の高い「沼」だった。
世界のトップランカーたちは、我先にとその未知なる領域へと足を踏み入れ、日夜、その開拓記録を競い合っていた。
【SeekerNet 掲示板 - アトラス攻略総合スレ Part. 28】
1: 名無しのマップ開拓者
スレ立て乙。
さて、諸君。今日も始めようか。我々人類が、神々の気まぐれな悪戯に、どう立ち向かうべきかの議論を。
俺は、昨日ようやくランク5のマップがドロップしたところだ。敵が、もうめちゃくちゃ硬い…。
2: 名無しのA級魔術師
>>1
乙。
ランク5か。大したもんだな。
こっちは、まだランク3のマップを安定して周回するのがやっとだぜ。
敵の数も、MODの効果も、ランクが上がるごとに指数関数的にキツくなっていく。
3: 名無しのギルドマン
うちのギルド、オーディンが昨日、世界で初めてランク8のマップをクリアしたらしいぞ。
だが、その代償も大きかったようだ。A級の上位パーティが、半壊したとか…。
この先、一体どうなっちまうんだ…。
その、あまりにも熾烈な、そしてどこまでも過酷な、開拓時代の記録。
スレッドには、期待と、興奮と、そしてそれ以上に大きな、未知への畏怖が渦巻いていた。
誰もが、この新たなテーブルの、そのあまりにも高すぎる壁に、悪戦苦闘していた。
ただ、一人の男を、除いては。
◇
【配信タイトル:【アトラス開拓】神々の庭、散歩してみるか】
【配信者:JOKER】
【現在の視聴者数:10,892,194人】
「よう、お前ら。見ての通り、今日はアトラスだ」
JOKERの声は、どこまでも楽しそうだった。
彼の配信画面に映し出されているのは、彼が所有する楽園諸島のプライベートアイランド。その、白砂のビーチに、彼専用のマップデバイスが、禍々しくも美しく鎮座していた。
「この数日間、裏でこそこそとマップを回していたが、ようやくレベルも上がったしな。そろそろ、本格的にこの新しいおもちゃで遊んでやろうと思ってな」
彼の言葉を肯定するかのように、画面の隅に表示された彼のステータスウィンドウ。
そこに記されたレベルは、【85】。
その、あまりにも異常な、そしてどこまでも常軌を逸した成長速度。
それに、コメント欄が、爆発した。
『は!?』
『レベル85!?いつの間に!』
『俺がランク2のマップでヒーヒー言ってる間に、この人、何周したんだよ!』
JOKERは、その熱狂をBGMに、インベントリから一枚のマップストーンを取り出した。
【ランク10:溶岩の湖】。
世界のトップギルドですら、まだ到達していない、未知の領域。
「まあ、小手調べには、ちょうどいいだろ」
彼は、そう言うと、その灼熱の石を、マップデバイスへと、無造作に放り込んだ。
そこから始まったのは、もはや開拓ではなかった。
ただ、一方的な、そしてどこまでも美しい「蹂躙」だった。
◇
「――よし、終わりだ」
数分後。
JOKERは、そのランク10のマップの、ボスを倒し終えていた。
彼の足元には、おびただしい数の高ランクアイテムと、そして次のランクへと続く、数枚のマップストーンが転がっている。
彼は、その戦利品を手早く回収すると、その中の一枚を、再びマップデバイスへと投入した。
【ランク11:静寂の寺院】。
彼は、その日一日、ただひたすらに、その作業を繰り返した。
楽園諸島のマップデバイスで周回する。
その、あまりにも退屈な、しかしどこまでも神がかった光景。
それに、1000万人の観客は、もはや驚きすら通り越して、一種の安らぎすら感じ始めていた。
だが、その水面下で。
彼の、ギャンブラーとしての魂が、静かに、そして確実に、その渇きを訴え始めていたことを、まだ誰も知らなかった。
そして、その渇きを癒すかのような、最高の「贈り物」。
それが、彼の元へと届けられたのは、その日の配信が、終わりに近づいた、まさにその時だった。
彼が、その日、20枚目となるランク12のマップ【水晶の鉱脈】をクリアした、その瞬間。
ボスの亡骸から、ドロップしたのは、いつものマップストーンではなかった。
一つの、異質な輝きを放つ、丸められた羊皮紙の巻物だった。
その巻物は、獅子と、山羊と、そして蛇の頭を模した、禍々しい蝋で、厳重に封印されていた。
「――ほう!」
JOKERの、その眠たげだった切れ長の瞳が、信じられないというように、大きく見開かれた。
彼は、その巻物を拾い上げた。
ひんやりとした、乾いた感触。
彼がそれを視界に入れたその瞬間、彼のARコンタクトレンズが、その情報を自動的に表示した。
【合成獣の巣窟】
【ランク:???】
【種別:ガーディアンマップ】
「…ガーディアンマップ、だと…?」
彼の口から、素直な、そしてどこまでも戦慄に満ちた、感嘆の声が漏れた。
彼は、即座に、そのARウィンドウを操作し、SeekerNetの、そしてギルドの、最高機密データベースへとアクセスした。
そして、彼は検索窓に、その名を打ち込んだ。
『合成獣の巣窟』。
数秒後。
そこに表示されたのは、彼が、心の底から待ち望んでいた、最高の「答え」だった。
【検索結果:0件】
「…ドロップ報告は、一件もなしか」
彼の口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。
「――面白い」
彼の、そのあまりにも静かな、しかしどこまでも重い一言。
それが、この地獄の、本当の始まりを告げる、ファンファーレとなった。
◇
『は!?』
『ユニークマップ!?』
『なんだよ、それ!聞いたことねえぞ!』
『てか、ドロップ報告0件って…マジかよ!世界初かよ!』
コメント欄が、これまでのどの熱狂とも比較にならない、本当の「爆発」を起こした。
世界の、1000万人の観客が、歴史が動く、その瞬間の目撃者となっていた。
その、あまりにも巨大な、そしてどこまでも純粋な好奇心の奔流。
その中心で、JOKERは、その手にした、未知への「鍵」を、まるで愛おしい恋人でも見るかのように、眺めていた。
そして、彼は言った。
「――じゃあ、入ってみるか」
その、あまりにもあっさりとした、しかしどこまでも重い一言。
それに、コメント欄が、今度は心配と、そして制止の声で、埋め尽くされた。
『おい!待て!』
『情報が、無さすぎる!』
『ランクも不明なんだぞ!?罠かもしれない!』
『気を付けて!』
その、あまりにも人間的な、そしてどこまでも温かい声援。
それに、JOKERは、ふっと息を吐き出した。
そして彼は、ARカメラの向こうの、その答えを待つ1000万人の観客たちに、その絶対的な、そしてどこまでも彼らしい「答え」を、告げた。
「分かってる。危ないなら、即退却するぜ」
「死んで元々、この世界はな」
彼は、そう言うと、その楽園諸島の、美しいビーチに、静かに立った。
そして、その手にした、キメラの巻物を、マップデバイスへと、捧げた。
デバイスが、これまでにないほどの、禍々しい紫電を迸らせる。
そして、彼の目の前に開かれたポータル。
それは、いつもの青白い光ではない。
まるで、血の渦。
混沌そのものが、その口を開けたかのような、深紅の、絶望の渦だった。
「――じゃあ、いくか」
彼は、その地獄の入り口を前にして、しかし最高の、そしてどこまでも楽しそうな、ギャンブル狂の笑みを浮かべて、その中へと、その一歩を踏み出した。
彼の、新たな伝説が、また一つ、この世界の歴史に、確かに刻み込まれた、その瞬間だった。




