第461話
その日の世界の空気は、一つの巨大な「祭り」の熱狂に、完全に支配されていた。
SeekerNetのトップページは、二つの配信画面のサムネイルで埋め尽くされている。片や、白とピンクを基調とした、どこまでも愛らしいレイアウト。片や、黒と赤を基調とした、どこまでもストイックなレイアウト。
アリス@オーディンと、龍 小鈴@青龍。
世界のメタゲームを揺るがした、二人の天才少女。彼女たちが、人類の誰もが超えられなかった絶対的な壁…【深淵の騎士アルトリウス】に、どちらが先に到達するかを競う、世紀のレース。
その、あまりにも壮大な、そしてどこまでも無謀な挑戦に、世界の、数千万の視線が注がれていた。
だが、その熱狂の、さらにその上空。
全ての喧騒から隔絶された、神々の観戦席が、静かにその幕を開けていたことを、まだ世界の大多数は知らなかった。
【配信タイトル:【神々の代理戦争】特等席で、高みの見物】
【配信者:JOKER】
【現在の視聴-者数:12,541,293人】
西新宿のタワーマンション、その最上階。
JOKERの、その広大なリビングは、今夜、世界で最も贅沢なパブリックビューイング会場と化していた。
壁一面の巨大なホログラムモニターには、アリスと小鈴の配信画面が、二分割で鮮明に映し出されている。その下には、リアルタイムで更新される二人のステータス、装備、そして心拍数までもが表示される、プロ仕様の分析ウィンドウが並ぶ。
そして、その光景を、三つの影が、見つめていた。
中央、ギシリと軋む高級ゲーミングチェアに深く身を沈めるのは、このショーの主催者、神崎隼人――“JOKER”。
その右手のソファには、ヴァルキリー・キャピタルの白き剣、ソフィア・リードが、その完璧な姿勢で、静かに座っている。
そして、左手のソファには、日本の至宝、朱雀 湊が、少しだけ緊張した面持ちで、ちょこんと腰掛けていた。
「――さて、と」
JOKERが、その手に持ったバーボンのロックグラスを、カランと鳴らした。
「最高のショーが、始まったな」
◇
配信開始から、数時間が経過していた。
画面の中では、二人の少女が、それぞれの哲学に基づいた、あまりにも対照的な死闘を繰り広げている。
アリスは、舞っていた。
その、ゴシックロリータ風の戦闘服をひらめかせ、アルトリウスの、その神速の剣技の嵐の中を、まるで戯れるかのように、踊り続ける。
彼女は、避けられる攻撃は避ける。だが、避けきれないと判断した攻撃は、あえてその身に受けた。
HPバーが、一瞬で蒸発する。
だが、次の瞬間、彼女のS級ユニークスキル【予備心臓】が発動し、全回復した状態で、その場に再び立ち上がる。そして、その復活の硬直を突かれたアルトリウスの、その無防備な背中に、渾身のスマイトを叩き込む。
それは、あまりにも無謀で、そしてどこまでも合理的な、自らの「命」そのものをリソースとして使い捨てる、狂気の戦術だった。
一方、小鈴は、ただ静かに、そこに「在った」。
彼女は、決して前に出ない。
アルトリウスの、その全ての攻撃を、彼女のS級ユニークスキル【金鐘罩・鉄布衫】と、武術の達人としての神がかった体捌きだけで、完璧に、そして完全に、いなし続ける。
その姿は、もはやただの人間ではない。
決して砕けることのない、絶対的な「理」そのもの。
そして、その鉄壁の守りの中から、アルトリウスがコンマ数秒だけ見せる、ほんのわずかな隙。
その、神々の領域の瞬間にだけ、彼女の、その小さな拳が、閃光のように煌めき、確実な一撃を、叩き込んでいた。
その、あまりにもハイレベルな、そしてどこまでも美しい、二つの「解」。
それを、神々の観戦席で、三人の怪物が、分析していた。
「…うーん」
最初に、その沈黙を破ったのは、湊だった。
彼は、その大きな瞳を、尊敬と、そしてわずかな畏怖の色に染めながら、呟いた。
「僕からしたら、どっちも化物ですね」
「アリスさんの、あの死を恐れない突撃。僕には、とても真似できません。それに、小鈴さんの、あの完璧な守り。僕は、防御するというより、高いHPと物理耐性でひたすら『耐える』派なので、あの猛攻は、とても捌ききれませんし…」
彼の、そのあまりにも正直な、そしてどこまでも謙虚な自己分析。
それに、ソフィアが、その優雅な口調で、同意した。
「ええ、そうですわね」
彼女は、そのサファイアのような青い瞳を、細めた。
「わたくしの【無心の境地】と、高い俊敏をもってすれば、いくらかの回避は可能ですけれど、あれほどの猛攻を凌ぎながら、有効な攻撃を差し込むことは、至難の業。それを、あの御二方は、いともたやすくやってのけている。天才としか、言えませんわね」
彼女は、そこで一度言葉を切ると、ふと、どこか遠い目をした。
「まあ、エヴリン・リード様なら、鼻歌まじりで蹂躙できるでしょうけれど。あの方は、こういうイベントより、投資している方が、お楽しい方ですからねぇ」
その、あまりにもさらりとした、しかしどこまでも世界の格差を物語る一言。
それに、湊が、その顔をひきつらせる。
だが、その重い空気を、JOKERが、その楽しそうな声で、断ち切った。
「…はっ。面白い。面白いじゃねえか」
彼は、そのバーボンを、一口煽った。
「怪物が、怪物を語る。最高の、ショーだ。だがな、お前ら。まだ、このショーの、本当の面白さに気づいてねえ」
「え?」
湊が、その言葉に、首を傾げる。
JOKERは、そのモニターに映し出された、小鈴の、その完璧な舞踏を、指し示した。
彼女の、その禍々しいHPバーが、今、確かに、一つの大きな節目を、超えようとしていた。
「おっと、雑談してたら、もう残り4割まで削れてるな」
JOKERの、その楽しそうな声。
「配信開始から、5時間か。5時間でこれは、かなり凄いんじゃないか?」
「ですが…」
ソフィアが、その言葉を引き継いだ。
「ええ。まあ、ここからが、キツイんですけれど」
JOKERが、頷く。
「ああ。ここからが、本当の地獄だ」
その、二人の怪物の、あまりにも不穏な予言。
それが、現実となったのは、その数秒後のことだった。
小鈴の、その渾身の一撃が、アルトリウスのHPを、6割削り切った、その瞬間。
アルトリウスが、咆哮を上げた。
彼の、その折れていたはずの左腕が、深淵の闇を纏い、新たな「剣」として、その姿を現したのだ。
二刀流。
これまでとは比較にならない速度と手数で襲いかかる、死の嵐。
それに、小鈴の、その完璧だったはずの舞が、初めて、わずかに、乱れた。
その、コンマ数秒の、綻び。
それを見逃すほど、深淵の騎士は、甘くはなかった。
大剣と、闇の剣。
その、二つの絶望が、交差する。
小鈴の、その小さな体が、まるで木の葉のように、宙を舞った。
◇
「…ふぅ」
オベリスクの前に戻された小鈴は、無言だった。
彼女は、ただ静かに、自らの、そのまだ震える手を見つめていた。
そして、数秒後。
彼女は、その黒曜石のような瞳に、確かな光を宿して、呟いた。
その声は、どこまでも、冷静だった。
「――うーん、まあまあですね。」
その、あまりにもストイックな、そしてどこまでも彼女らしい、自己分析。
それに、JOKERは、心の底から楽しそうに、笑った。
「…はっ。最高の、女だ」
そして、彼はその視線を、もう一つの画面へと、向けた。
アリスの、その狂乱の舞踏。
彼女は、すでに何十回と、その命を散らし、そして蘇っていた。
だが、その度に、彼女はアルトリウスのHPを、確実に、そして着実に、削り取っていた。
そして、ついにその時が来た。
彼女もまた、あの「4割の壁」へと、到達したのだ。
「――さあ、どうする。アリス」
JOKERが、そのモニターの向こうの、もう一人の後輩へと、問いかける。
「お前は、この地獄を、どう乗り越える?」
その問いに、答えるかのように。
アリスは、最高の、そして最も狂気的な笑みを浮かべて、その最後の突撃を、敢行した。
彼女の、そのあまりにも壮絶で、そしてどこまでも美しい、物語の結末は。
もう少しだけ、先の、話。




