第456話
その日の世界の空気は、一つの巨大な「問い」を巡って、静かな、しかしどこまでも深い熱気に包まれていた。
スイス、ジュネーブ。アルプスの山々に抱かれ、清らかなレマン湖を望む、世界の平和と中立の象徴。その湖畔に、ガラスと鋼鉄でできた近代的なビルが、静かに、そして荘厳にそびえ立っていた。
【国際公式ギルド】本部。
その、最上階。世界の全ての富と、欲望と、そして何よりも「力」が、今、この瞬間、一つのテーブルへと収束しようとしていた。
磨き上げられた、黒曜石の床。壁一面に設置された巨大なモニターには、世界の主要都市のダンジョンゲートの様子が、リアルタイムで映し出されている。そして、フロアに置かれた最高級の革張りのソファには、世界中から集まった屈強な、あるいは知的な、あるいはその両方を兼ね備えた男女が、静かにその時を待っていた。
彼らは皆、それぞれのギルドの命運をその両肩に背負った、「代理人」。
彼らの目的は、ただ一つ。
一人のSS級クラフトマニアが、「気まぐれ」で市場に流した、しかしこの世界の全ての知性スタッキングビルドの頂点に立つ、究極の神の装備。
【決戦の渇き】。
その落札だった。
広大なラウンジのあちこちで、ひそやかな、しかし熾烈な情報戦が繰り広げられている。
高級なブランドスーツに身を包んだ北欧のギルド、【オーディン】の代理人たちは、冷静な表情の裏で、必死にライバルギルドの資産状況を分析している。
黒一色の機能的な戦闘服に身を包んだ中国のギルド、【青龍】の幹部たちは、その鋭い瞳で互いにだけ分かるサインを送り合い、連携の最終確認を行っていた。
陽気なラテン系の、しかしその瞳の奥に冷徹な計算を宿した、南米のギルド【太陽の帝国】の交渉人。
彼らは皆、この日のために本国から天文学的な資金を動かし、このジュネーブの地に集結したのだ。
このワンド一本で、自らのギルドに所属する知性スタッキング使いのA級は、S級やSS級への昇格が間違いなしとなる。
それは、ギルドの戦力図を、そして世界のパワーバランスを根底から覆しかねない、あまりにも大きな「賭け」だった。今回は、純粋にどのギルドが覇権を握るかの勝負だ。
ラウンジの中央に設置された巨大な天文時計の針が、運命の時刻を指し示す。
オークション開始まで、あとわずか。
ラウンジの空気が、さらに張り詰めていく。
◇
【SeekerNet 掲示板 - ライブ実況スレ Part. 18】
1: 名無しの実況民A
おい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
始まったぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ヴォルタの新作オークション!!!!!!!!!!!!!!!
歴史が、動くぞ!!!!!!!!!!!!!!!
2: 名無しのゲーマー
1
乙!
うおおおおお!見てる!見てるぞ!
なんだよ、この会場!SF映画かよ!
3: 名無しの市場ウォッチャー
2
世界のトップギルド、全員集合じゃねえか…。
オーディン、青龍は当然として、月詠も、赤い熊も、イギリスの円卓の騎士もいるぞ!
これは、戦争だ…。
その、あまりにも熱狂的な、そしてどこまでもグローバルな祭りの始まり。
その中心で、運命の時刻が訪れた。
オークションハウスの全てのモニターが、一斉に切り替わった。
黄金の荘厳なファンファーレと共に、一つのアイテムが、立体的なホログラムとしてラウンジの中央に映し出される。
禍々しいまでの魔力を秘めた、黒檀のような木肌。その表面を、まるで稲妻そのものを封じ込めたかのような、青白いルーン文字が走り、明滅している。
【決戦の渇き】。
その神々しいまでの姿に、ラウンジ全体が息を呑んだ。
オークショニアを務める老紳士が、その甲高い、しかし威厳のある声で宣言した。
「――これより、【決戦の渇き】のオークションを開始いたします!」
「開始価格は、200億ドルより!」
そのあまりにも暴力的な開始価格。
それに、ラウンジがどよめいた。
だが、そのどよめきはすぐに熱狂へと変わる。
開始のゴングが鳴り響いた、そのコンマ数秒後。
モニターの入札額が、凄まじい勢いで跳ね上がり始めたのだ。
【入札者:Guild_Odin_Asset】
【入札額:350億ドル】
『うおおおおお!いきなりオーディンが150億ドルも上乗せしやがった!』
『5兆円ドル相当にまですぐ到達したぞ!』
スレッドが、絶叫で埋め尽くされる。
だが、その熱狂の火に、さらに油を注ぐかのように。
中華の赤い龍が、その倍の速度で、カウンターを叩きつけた。
【入札者:Guild_Seiryu_Fund】
【入札額:400億ドル】
熾烈な価格入札が繰り返される。
10億ドル、20億ドルという、もはや国家予算ですらない金額が、まるでポーカーのチップのように、軽々とテーブルの上を飛び交っていく。
それは、もはやオークションではない。
国家間の、見えざる戦争。
それぞれのギルドが、そのプライドと未来を賭けて、札束のミサイルを撃ち合っているかのようだった。
価格は、わずか数分で500億ドル、600億ドルと、異常なまでの速度で吊り上がっていく。
ラウンジの代理人たちの額には玉のような汗が浮かび、その指先は、興奮と緊張でわずかに震えていた。
だが、そのあまりにも熾烈な戦いの流れ。
しかし、事態は一変する。
オークション開始から、ちょうど30分が経過したその時だった。
それまで沈黙を保っていた一つの名前が、突如として入札者リストにその姿を現したのだ。
その名前を見た、瞬間。
ラウンジの全ての代理人たちの顔から、血の気が引いた。
その表情は、絶望そのものだった。
【入札者:Valkyrie Capital】
ヴァルキリー・キャピタル。エヴリン・リードが率いる、アメリカの怪物。
そのあまりにも絶対的な名前。
そして彼らが提示した入札額。
それは、これまでのちまちまとした数十億ドル単位のレイズを、完全に嘲笑うかのような一撃だった。
【入札額:750億ドル】
その、あまりにも暴力的で、そしてあまりにも格の違いを見せつけるかのような一撃。
それにラウンジは、水を打ったように静まり返った。
大混乱に陥る、各国の個人ギルドの代理人たち。
彼らは、理解してしまった。
このテーブルに、自分たちの座る席はもはやないと。
この怪物が現れた、その時点で。
このゲームの勝敗は、すでに決していたのだと。
「…くそっ」
オーディンの代理人が、悪態をついた。
「なぜ奴らが、ここに…!」
だが、その声はあまりにも弱々しかった。
SS級冒険者の圧倒的資産力の前では、なすすべもない。
それでも、青龍だけは、その国家の威信を賭けて、最後の無駄な抵抗を試みた。
【入札者:Guild_Seiryu_Fund】
【入札額:751億ドル】
1億ドルのレイズ。
それは、彼らの最後の意地だった。
だが、そのあまりにもささやかな抵抗。
それをヴァルキリー・キャピタルは、鼻で笑うかのように一瞬で叩き潰した。
【入札者:Valkyrie Capital】
【入札額:851億ドル】
100億のレイズの、返答が返ってくる有り様。
そのあまりにも無慈悲な力の差。
それについに、全てのギルドの代理人たちの心が折れた。
彼らは、次々とその入札の権利を放棄していく。
モニターの上の入札者リストから、一人、また一人とその名前が消えていく。
そして最後に残ったのはただ一人。
絶対的な、王者だけだった。
ヴァルキリー・キャピタルが10兆円ドル相当で落札する。
やがて、運命のカウントダウンがゼロになる。
オークショニアが、その小さな、しかしこの世のどんな権威よりも重いハンマーを、振り下ろした。
「――落札!!」
【【決戦の渇き】は、ヴァルキリー・キャピタル様によって**750億ドル(約10兆円)**で落札されました!】
その絶対的な結果。
それにラウンジは、もはやため息すら出なかった。
ただ、そのあまりにも理不尽な現実を受け入れるしかなかった。
◇
オークション終了後。
ラウンジの片隅にある、バーカウンター。
そこに、敗北したギルドの代理人たちが集まっていた。
彼らは、ヤケクソになったように高級な、しかし今の彼らにとっては砂の味しかしないであろう酒を、煽っていた。
そして、彼らの口から漏れ出すのは、ただ愚痴と諦観だけだった。
「…ヴァルキリー・キャピタルが勝ったか」
中国のギルドの男が、言った。
「完敗だ。手も、足も出なかった」
「ああ」
オーディンのギルドの男が、頷く。
「だが、これで終わりじゃねえ。次はうちが落札する」
その、あまりにも力強い、そしてどこまでも不屈の闘志。
それに、その場にいた全ての敗者たちが、静かに、しかし力強く頷いた。
彼らの夢は、今日この場所で一度は潰えた。
だが、その炎は、決して消えてはいなかった。
世界の、本当の戦いは、まだ始まったばかりだったのだ。




