第453話
その日の日本最大の探索者専用コミュニティサイト『SeekerNet』は、一つの巨大な「祭りの後」の静けさと、そしてどこまでも優しい興奮の余韻に包まれていた。
神崎隼人――“JOKER”。
この世界の理そのものを、その身一つで蹂躙し続けてきた絶対的な王者が、S級ダンジョンでアーティファクトをドロップし、そして、全世界が見守る生配信の真っ只中で、完璧な美少女へとその姿を変えた。
その、あまりにも衝撃的な、そしてどこまでも美しい「神話」の誕生。
その余韻は、彼が配信を終えた後も、SeekerNetのあらゆる掲示板で、熱病のように燻り続けていた。
西新宿のタワーマンション、その最上階。
JOKERは、ギシリと軋む高級ゲーミングチェアにその身を深く沈め、目の前の漆黒のモニターに映し出された、自らの配信のコメントログを、ただぼんやりと眺めていた。
ログは、「JOKERちゃん」という、あまりにもむず痒い、しかしどこまでも熱狂的な愛情に満ちた言葉で、完全に埋め尽くされている。
「…はぁ」
彼の口から、重いため息が漏れた。
だが、その響きには、いつものような不機嫌さはない。むしろ、未知なるテーブルで、予想外のカードを引いてしまったギャンブラーのような、静かな、しかし抑えきれない高揚感が滲んでいた。
彼は、おもむろにインベントリを開き、その中の一つのアイテムを、ホログラムとして空間に投影した。
【アニマとアニムスの円環】。
白金と黒金が、完璧な二重螺旋を描く、神々の遺産。
(…面白い)
彼の、その魂が、震えていた。
これまで、彼が求めてきたのは、常に「力」だった。より高い火力、より堅牢な防御、そして、世界の理を支配するための、より深い「知識」。
だが、この指輪が彼にもたらしたのは、そのどれでもなかった。
それは、ただの「可能性」。
神崎隼人という、固定された存在からの、一時的な「解放」。
“JOKER”という、あまりにも重すぎる役割からの、逃避。
あるいは。
(――最強の、ブラフ)
彼の口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。
この姿であれば、誰も俺をJOKERだとは思うまい。S級ダンジョンの入り口で、あるいはアジールの、あの薄暗い酒場で。この世界の、全てのプレイヤーの裏をかくことができる。それは、彼にとって、何よりも甘美な、そしてどこまでも危険な、新しい「手札」だった。
この手札を、最大限に活かすためには、それ相応の「舞台装置」が必要だ。
(…服、欲しいな)
彼の、その思考を肯定するかのように。
彼のARコンタactレンズの片隅に、ごく普通のLINEの通知が、淡い光を灯した。
そこに表示されたグループ名は、彼がこの数ヶ月で、いつの間にか慣れ親しんでしまった、奇妙なコミュニティの名前だった。
雫: 「皆さん、おはようございます!さて、JOKERさん。昨日はお疲れ様でした。例の『お買い物』の件ですが、本日はいかがでしょうか?美咲さんと静さんは、夏休みでいつでも大丈夫とのことですわ」
詩織: 「ふふっ。私も、本日は非番ですわよ。JOKER様の、新たな門出を、ぜひお祝いさせてくださいな」
祈: 「最適な服飾の選定。そのデータ収集には、私も興味があります。同行を許可します」
美咲: 「お兄ちゃん!行こうよ!絶対、楽しいよ!」
静: 「…はい。私も、楽しみ、です」
その、あまりにも温かい、そしてどこまでも逃げ場のない、包囲網。
それに、JOKERは、ふっと息を吐き出した。
そして彼は、キーボードを叩いた。
その返信は、どこまでも、彼らしかった。
JOKER: 「ああ、行く。最高のやつを、見繕ってもらうぜ」
(――女の俺、いけー)
彼の、その魂の奥深くで。
もう一人の彼が、静かに、そして確かに、その産声を上げていた。
◇
その日の午後。
東京、銀座。
世界の、全ての富と、美と、そして欲望が集まる、神々の街。その、メインストリートに面してそびえ立つ、老舗百貨店の、その正面入り口。
そこに、五人の、あまりにも場違いなほど美しい少女たちが、集っていた。
いや、正確には、四人の少女と、一人の、まだその性別に戸惑いを隠せない、青年だった。
JOKERは、その待ち合わせ場所の、あまりの人の多さと、華やかな空気に、すでに辟易していた。
(…なんで、こんな場所に…)
彼の、その心の叫びを、肯定するかのように。
彼の背後から、二つの、鈴を転がすような声が、同時に響いた。
「「お兄ちゃん!」」
「「JOKERさん!」」
美咲と静。そして、雫と詩織。
彼女たちは、その休日の装いに、その身を包んでいた。美咲は、白いワンピース。静は、落ち着いた色合いの、清楚なブラウス。雫は、キャリアウーマンらしい、洗練されたパンツスーツ。そして、詩織は、まるで皇族の園遊会にでも出席するかのような、優雅なアフタヌーンドレス。
その、四者四様の、あまりにも眩しい輝き。
それに、JOKERは、思わず目を細めた。
だが、その彼の、憂鬱な気分を、完全に吹き飛ばすかのように。
最後の、そして最も異質な訪問者が、音もなく、その姿を現した。
「…皆さん、お揃いですわね」
冬月祈。
彼女は、いつもの、禍々しくも美しいゴシックドレスのまま、そこにいた。
その、あまりにも変わらない、そしてどこまでもマイペースな佇まい。
それに、その場の全員が、どっと笑った。
「さて、と」
雫が、その完璧な笑顔で、仕切り始める。
「では、JOKERさん。早速ですが、お着替えをお願いできますでしょうか?」
「…ここでかよ」
「ご冗談を。ちゃんと、個室はご用意してありますわ」
彼女は、そう言うと、百貨店のコンシェルジュへと、その視線を向けた。
数分後。
彼らは、一般客は決して足を踏み入れることのできない、最上階の、特別なフィッティングルームへと、案内されていた。
そして、JOKERは、そのあまりにも重い、そしてどこまでも滑稽な、運命の扉を開けた。
◇
「――まあ、こんなものかしら」
数分後。
フィッティングルームの、重厚なカーテンが、ゆっくりと開かれた。
そして、その奥から現れた、一人の少女の姿に。
その場にいた、五人の女性たちは、一瞬だけ、その呼吸を忘れた。
そこにいたのは、一人の、黒髪の美少女だった。
腰まで届く、艶やかな黒髪。
切れ長の、しかしどこか憂いを帯びた瞳。
そして、その身を包む、黒い、タイトな戦闘用のドレス。
JOKER――いや、今の彼女は、そのあまりにも大きな注目に、少しだけ面倒くさそうに、しかしどこか楽しむように、その視線を受け止めていた。
「…綺麗…」
最初に、その沈黙を破ったのは、静の、その素直な感嘆の声だった。
「うん!すごく、似合ってるよ、お兄ちゃん!」
美咲もまた、その大きな瞳を、これ以上ないほどキラキラと輝かせている。
だが、プロの目は、もっと厳しかった。
「…ふむ」
雫は、その顎に手を当て、まるで鑑定士のように、その全身を、じっくりと眺め回した。
「素材は悪くありませんわね。ダンジョン産の、伸縮性と耐久性に優れた生地。ですが、デザインが、あまりにも…その…実用性に、偏りすぎていますわ」
「ええ」
詩織もまた、その扇子で口元を隠しながら、優雅に、しかしどこまでも的確に、その評価を述べた。
「これでは、まるで戦場からそのまま抜け出してきたかのよう。もう少し、こう…柔らかな、女性らしいラインが、必要ですわね」
「…なるほど」
祈が、その紫色の瞳を、分析的に細める。
「つまり、現状の戦闘能力を維持しつつ、より高い審美的価値を付与するための、最適な解を、導き出せばいいのですね。興味深い課題ですわ」
その、あまりにも専門的で、そしてどこまでも容赦のない、三人の専門家たちの議論。
それに、JOKERは、ふっと、その口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「あら、厳しい評価ね。まあ、あなた達の言うことも、一理あるかしら」
その、あまりにも冷静な、そしてどこまでも彼女らしい、返答。
それに、雫と詩織は、顔を見合わせた。
そして、彼女たちは同時に、くすくすと、楽しそうに笑った。
「では、始めましょうか。JOKER様の、最高の『概念武装』を創り上げる、このプロジェクトを」
◇
「まずは、カジュアルな普段着から、ですわね」
詩織の、その鶴の一声。
それに、一行は、百貨店の中層階にある、若者向けの、トレンディなセレクトショップへと、その歩みを進めた。
美咲と静は、まるで自分たちの服を選ぶかのように、楽しそうに、ハンガーにかけられた色とりどりの服を、物色し始めた。
「お兄ちゃん!これ、どうかな?可愛いよ!」
美咲が、持ってきたのは、白い、フリルのついた、可愛らしいブラウスと、花柄のスカートだった。
それに、JOKERは、その美しい顔を、わずかに歪ませた。
「…美咲。あなたの感性は素晴らしいわ。でも、この服は戦略的に欠陥品よ」
「え?」
「このフリルは、敵に『私を掴んでください』と知らせるための標的。生存確率を著しく下げるわ。実用性が皆無ね」
その、あまりにも冷静な、そしてどこまでも戦闘狂らしい分析。
それに、美咲は、頬をぷくりと膨らませた。
「もう!ここは、ダンジョンじゃないんだから!」
「全ての日常は、戦場よ」
その、あまりにも微笑ましい、兄妹の攻防。
それを、祈が、その無機質な声で、断ち切った。
「…非効率的ですわね。その生地の繊維構造では、対刃性能は、皆無に等しい。最低でも、ケブラー繊維を織り込んだものでなければ」
「だから、ダンジョンじゃないんだってば!」
その、あまりにも混沌とした、しかしどこまでも楽しそうな光景。
それに、雫は、くすくすと笑いながら、その最終的な「答え」を、提示した。
彼女が、その中から選び出したのは、一枚の、シンプルな、しかしどこまでも洗練された、黒いシルクのシャツと、タイトなスキニーパンツだった。
「…これなら、いかがでしょう?」
彼女の、その完璧な選択。
それに、JOKERの、その眉が、わずかに動いた。
(…悪くない)
それは、彼の、その戦闘狂としての美意識と、そしてわずかに芽生え始めた、女性としての審美眼。その、両方を、完璧に満たす、一つの答えだった。
◇
その後も、彼女たちの、そのあまりにも贅沢な、そしてどこまでも楽しい「仕事」は、続いた。
詩織が、そのコネを使い、一般客は決して入ることのできない、VIP専用の、ハイブランドのブティックへと、一行を案内する。
そこで、JOKERは、その人生で初めて、数百万はするという、優雅なイブニングドレスに、その身を包むことになった。
フィッティングルームから、その姿を現した、その瞬間。
それまで、騒がしかった五人の女性たちが、完全に、その言葉を失った。
そして、その店の、百戦錬磨のはずだった、女性店員たちですら、そのあまりにも神々しい美しさに、ただ息を呑んでいた。
JOKER自身もまた、その鏡に映る、自らの、そのあまりにも見慣れない姿に、ただ呆然と、立ち尽くしていた。
(…なるほど。これは戦闘服ではない。人の視線と思考を支配するための『概念武装』…そういうことね)
その、あまりにも劇的な、そしてどこまでも美しい、変貌。
その、祝祭の、合間に。
彼らは、百貨店の最上階にある、美しい庭園が見えるカフェで、束の間の休息を取った。
テーブルの上には、芸術品のように美しい、色とりどりのケーキと、香り高い紅茶が並べられている。
JOKERは、目の前に置かれた、モンブランの、その完璧な造形を、分析するように眺めていた。
「この栗のペーストの粘度と、内部の生クリームの比率。計算されているわね」
その、あまりにも冷静な分析。
それに、美咲と静が、声を殺して、笑っている。
詩織と雫もまた、その口元に、扇子を当てながら、その微笑ましい光景を、楽しんでいた。
祈だけが、そのケーキの、糖分と脂質の、完璧なバランスについて、真剣な分析を、呟いていた。
その、あまりにも平和で、そしてどこまでも尊い時間。
◇
夕暮れが、銀座の街を、黄金色に染め上げる頃。
彼らの、その長い、長い一日は、終わりを告げようとしていた。
JOKER――いや、今日の彼女は、その両手に、持ちきれないほどの、紙袋を抱えていた。
その全てが、彼女の、新たな人生のための、新しい「鎧」だった。
彼は、その日の、最後の仕上げとして、自らのインベントリから、ギルドが発行する、ブラックカードを取り出した。
そして、その全ての代金を、あまりにもあっさりと、そしてどこまでもスマートに、支払ってみせた。
その、あまりにも圧倒的な、そしてどこまでもJOKERらしい、フィナーレ。
それに、五人の少女たちは、ただ感嘆のため息を、漏らすしかなかった。
その日の夜。
タワーマンションへと、帰る道。
JOKERは、再び男の姿へと戻っていた。
だが、その心は、これまでにないほどの、穏やかな、そしてどこまでも温かい感情で、満たされていた。
彼の隣で、美咲が、その日の戦利品を、嬉しそうに、そしてどこまでも誇らしげに、抱きしめている。
「…楽しかったね、お兄ちゃん」
「…ああ」
「また、行こうね。みんなで」
「…ああ」
彼の、そのあまりにも短い、しかしどこまでも優しい、肯定の言葉。
それに、美咲は、最高の笑顔で、頷いた。




