第450話
配信開始から、24時間が経過していた。
D級ダンジョン【忘れられた下水道】。その、どこまでも続くコンクリートの回廊は、もはや月ノ宮るりの、第二の自室と化していた。
彼女のARコンタクトレンズの視界の隅には、小さなタイマーが、無慈悲に時を刻み続けている。
【経過時間:24時間13分45秒】
視聴者数は、58人。
昨夜、最初の【皇帝の幸運】のカードをドロップした瞬間の熱狂は、すでに遠い過去の記憶のようだった。あの時、一時的に100人を超えた視聴者も、その後の、あまりにも何も起こらない展開に飽き飽きし、そのほとんどが、それぞれの日常へと帰っていった。
今、この薄暗い下水道で、彼女の孤独な戦いを見守っているのは、数えるほどの、しかし誰よりも忠実な、常連のファンたちだけだった。
「…ふぁあ…」
るりの口から、小さな欠伸が漏れた。
彼女の、その透き通るような声は、長時間話し続けたせいで、少しだけ掠れている。目の下には、うっすらと隈ができていた。
だが、彼女は決して、その疲れた顔を、カメラには見せなかった。
「皆さん、こんにちはー!るりです!耐久配信、二日目、まだまだ元気いっぱいで、頑張りますよー!」
彼女の、その無理に作った、しかしどこまでも健気な声。
それに、コメント欄が、温かい言葉で応えた。
『るりちゃん、無理すんなよー』
『もう、寝てもいいんだぞ?』
『俺たちはずっと、ここにいるからさ』
その、あまりにも優しい言葉。
それに、るりの瞳が、じわりと熱くなった。
「…ありがとうございます。でも、大丈夫です!私、まだ全然、やれますから!」
彼女は、そう言うと、目の前に現れた一体の巨大ネズミに、その手に持つ初心者用の杖を、力いっぱい振り下ろした。
スキル、【ファイアボール】。
小さな火の玉が、ネズミの毛皮を焦がす。だが、一撃では倒せない。
彼女は、何度も、何度も、その単調な作業を、繰り返した。
その、あまりにも地味な、そしてどこまでも退屈な光景。
その、停滞しきった空気が、再び断ち切られたのは、配信開始から、30時間が経過した頃だった。
るりが、150体目となる巨大ネズミを、ようやく倒し終え、そのドロップ品を、もはや何の期待もせずに拾い上げた、その瞬間だった。
彼女の、その疲労困憊だったはずの瞳が、信じられないというように、大きく見開かれた。
「…え…?」
彼女のインベントリに、追加されたのは、いつもの紫色の魔石と、汚れたネズミの毛皮だけではなかった。
そこに、二枚目の、あの泥に汚れた銅貨のようなカードが、確かに、その姿を現していたのだ。
「――出ました」
彼女の、その震える声。
それが、引き金となった。
眠りかけていた、50人の視聴者たちが、一斉に、その目を覚ました。
『は!?』
『マジかよ!二枚目!』
『嘘だろ!?本当に、出るのかよ、これ!』
その、あまりにも唐突な、そしてどこまでも美しい、奇跡の再来。
それに、コメント欄は、小さな、しかし確かな熱狂に包まれた。
そして、その熱狂は、この閉ざされた下水道の中から、外の世界へと、静かに、しかし確実に、漏れ出し始めていた。
一人の、常連ファンが、その興奮のままに、SeekerNetの総合雑談スレに、一枚のスクリーンショットを投下したのだ。
『【速報】あの、下水道に籠もってるVTuber。二枚目、引いたぞ』
その、あまりにも短い、しかしどこまでも核心を突いた一言。
それが、世界の歯車を、再び動かし始めた。
噂を聞きつけた、好事家たちが、るりの配信へと、集まり始める。
視聴者数は、数百人、そして千人へと、ゆっくりと、しかし確実に、その数を増やしていく。
コメント欄の空気は、一変した。
『本当に4枚で揃うのか?』
『もし本当なら、歴史が変わるぞ』
『おい、VTuber。早く、次を出せ』
その、期待と、懐疑と、そしてどこか値踏みするような視線が入り混じった、新たな熱気。
それに、るりは、これまでにないほどの、巨大なプレッシャーを感じていた。
だが、彼女は決して、そのプレッシャーに、押しつぶされはしなかった。
むしろ、そのプレッシャーを、自らの力へと変えていた。
(…見ててくれてる)
(私の、この無謀な挑戦を、こんなにたくさんの人が、見ててくれてるんだ…!)
彼女の心に、新たな、そしてどこまでも力強い炎が、灯った。
彼女は、その日から、眠ることも、食事を摂ることも忘れ、ただひたすらに、その杖を、振り続けた。
◇
そして、運命の瞬間は、配信開始から72時間後。
三日目の、深夜に訪れた。
るりの体は、もはや限界だった。
視聴者数は、5000人を超えていた。
SeekerNetの、トップページ。その片隅で、「今、最もアツい配信」として、彼女のチャンネルが、紹介されていた。
世界の、探索者たちが、固唾を飲んで、その結末を、見守っていた。
彼女の前に、一体の、ひときわ巨大な、そしてどこか威厳のある、巨大ネズミが現れた。
エリアの、主。
その、あまりにも絶望的な光景。
だが、るりは、もはや恐怖を感じていなかった。
彼女は、その残された最後の魔力を、その一点へと、集束させた。
そして、彼女は叫んだ。
その声は、この三日間の、彼女の、その全ての魂を乗せた、絶叫だった。
「――いっけえええええええええええええええええええ!!!!!!!!!」
彼女が、その渾身の一撃で、主を倒し、そして三枚目のカードを手に入れた、その直後だった。
彼女の、その疲労困憊の目の前に、四枚目のカードをドロップする、ただの巨大ネズミが、その姿を現したのだ。
彼女は、震える指で、そのカードを拾い上げた。
そして、彼女は、そのインベントリの中で、四枚の、泥に汚れた銅貨を、一つのスタックへと、重ね合わせた。
そして、彼女は、その震える唇で、その最後の言葉を、紡ぎ出した。
「――交換!」
その瞬間だった。
彼女のインベントリが、これまでにないほどの、まばゆい黄金の光に、包まれた。
そして、その光が収まった時。
そこに、静かに、しかし絶対的な存在感を放って、鎮座していたのは。
一つの、神話級の、クラフトアイテム。
【高貴のオーブ】。
その、あまりにも美しく、そしてどこまでも気高い輝き。
それに、るりは、ただ呆然と、立ち尽くすことしかできなかった。
数千人の視聴者が、その歴史的瞬間の、目撃者となった。
コメント欄が、爆発した。
『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!』
『やった…!やったんだ…!』
『歴史が、動いた…!』
その、祝福と、賞賛の、嵐。
その中心で、るりの、その大きな瞳から、大粒の涙が、堰を切ったように溢れ出した。
「…う…、うう…」
彼女は、その全てに、涙ながらに感謝を伝えた。
「皆さん…本当に、ありがとうございました…!」
彼女は、しゃくり上げながら、何度も、何度もそう繰り返した。
その、あまりにも純粋な涙。
それは、もはやただの無名なVTuberではない。
自らの力で、運命を切り拓いた、一人の英雄の涙だった。
彼女は、その溢れ出す感情を、必死にこらえながら、その日の配信を、締めくくった。
「今日は、これで、終わります…。本当に、本当に、ありがとうございました…!」
彼女が、配信終了ボタンを押した、その直後。
彼女の、その小さなアパートの一室は、絶対的な静寂に包まれた。
だが、その裏側で。
世界の、電子の海は、これから始まる、巨大な嵐の前の、最後の静けさを、迎えていた。
彼女の、その72時間に及ぶ死闘と、そしてその最後の奇跡の瞬間を切り抜いた動画が、XやSeekerNetに、投下された。
タイトルは、こうだった。
『【歴史的瞬間】一人の無名VTuberが、世界の理を、ひっくり返した日』
世界の、全ての探索者たちが、まだその動画の、本当の「意味」に、気づき始めていなかった。
爆発の、前夜だった。




